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突き動かされる響きで

毎日、ピアノを弾く時間を見つけてはただひたすら弾いている、
不協和音もなにも関係なく、

子どものどろんこ遊びみたいなものだ。

ああ
楽しい。

20年近く前

ピアノの前に座り、
「ド」の一音を弾いては
ひたすら、その響きに耳を傾けていた

あらわれてくる音の波が 空間に広がってだんだん小さくなって消えていくのが
波間に浮かんでいるように心地よくて。。

そんな
ひたすらドを弾き続けるなんて、
コンサートでやったら
常識的には、受け入れられないと思うけれど

だけど
ほんとうは一番大好きなそんな音の世界を
その陶酔を
ライブで、どうしてもやってみたいと思って
完成されていない音たちも、出たがっているなら出したくて

今度のソロライブは
ノーリミットでやろうと思っている。

人って
自分が感じている大切なことを、どこかの時点で
壁を破っても共有したくなるのかもしれない。

ライブの間中、
自分が「ド」をひたすら弾いていたらどうなるかとか

ぐちゃぐちゃの不協和音を弾き続けたりしたらどうなるか
と想像して

以前のわたしなら
その場から離れたくなるかもしれない。。
そんな音も

今回は、すべてを許すと決めて

練習?
じゃなくて遊んでいる。

もちろん、弾きたくなかったらそうしなくてもいいし

ジョン・ケージのように
音のない曲を作って発表した人もいるのだから
そんな変人になったって構わないんだ

だけど
環境との相互作用で、人の意識や、場はできていくから

そこにいる人が
ドを どう感じるかとか 
その前に、それぞれが持ち込んできたものも
私に、きっと伝わるし
それに対して、わたしの中のアクションが呼び起こされていくところもあるのだろうと
想像したりして。

ダンス・舞踊の片岡通人先生が
生前、ご一緒させていただいた即興の舞台で「なるべく動かないようにしたい」と仰っていたことを
あらためて今、思いだしたりもしている。

内側に、問いながら
心の耳を澄ませて
内側から突き動かされるようにして出てくる本当のものだけを捉えて動くことを、
ひたすら追求されていた片岡先生に
あらためて、尊敬を覚える。

結局は、音を通して、真実の響きに近づきたいだけなんだ。

予定調和や 作られたものを
どこまで むき出しに
ゼロに戻せるか
それって日々の営みそのままなんだろうと思う。。

だけど、ほんとうって
なんだろうな。
とも思う。

口にしたとたん、言葉にしたとたんに
本当のことは少しずつ剥がれていくような気もしたりする
この世界

そのことに失望せずに、
向き合い続けるしかない。
それが
生きることなのか

なんて。

にしても
音って
響きって

なんて魅惑の尽きない世界なんだろう。

どこまで、わたしも探求できるだろうか。

音を通じて調和する世界を 皆で創造していきたいと思っています。応援よろしくお願いいたします。