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ベルリンで実感する、日本語(能力)の稀少性

日本語の包括的能力(話、読、書)がものすごく貴重なことのように思えてきている。

今日もまたロシア系移民の方々に日本語の構造を説明して目を丸くさせられた。
ひらがな、カタカナで約80文字+終わりなき漢字習得。小学校から高校までにこんなにも国語修得に時間と根気を費やす言語は他にあるのだろうか。。。
中国語はどうなんだろう。訓読み音読みやひらがなとのコンビネーションがないだけでも日本語よりは楽なんじゃないかと想像してしまう。

一方で欧米言語、アラビア語、昔軽くかじったタイ語など、世界の大多数の言語は大概40ー50文字覚えればそれ以上少なくとも文字そのものの修得に勉強時間を費やす必要はない。むしろ私たちが漢字や四字熟語に費やす時間と気力を、他言語や他ジャンルの学びに投資することができる。
なんとまあ10代の貴重な学びの時間の大部分を国際的には無用なものへと割いてることかと驚かされる。だから英語が苦手なのだろうか。これはあとで後述したい。

一方で外国人からすると、日本語は会話で使えるようになるにはかなり修得が簡単な言語だそう。確かに考えてみると、助詞とかですますとか細かい形容詞変化とか間違っていても抜けていても通じてしまうし、私たちネイティブ日本語話者がしゃべる日本語も相当簡略化されている。
それにドイツ語というスーパー合理的言語を学ぶ中で実感したのは、日本語は主語もなければ未来形もないし、文法規則はあるけどその通りにしゃべらないといけないものでは必ずしもない。

ドイツ語はそこがかなりきっちりしてて、喋るドイツ語の精緻さやボキャブラリーによってその人の社会的地位や教育的背景を想像されてしまう部分が少なからずある。もちろん移民社会かつ階級社会のため、教養差異が日本より幅が大きいことも関係していると思う。ことボキャブラリーに関しては日本もまあ同じだけど、要は日本語ほど恣意的に"遊んで"使う余地がドイツ語にはあまりない。

そうやって考えながら日本の政治家の使う言葉に注目してみると、日本語のある意味での懐の深さを小賢しく悪用していることに悲しくなる。だから日本の政治は茶番劇なのかとすら思えてくる。マスコミはそれをさらにエスカレートさせる。日本語に誠実でありたいという思いを強くするし、そういう人にリーダーになってほしい。

タイトルに戻ると、私は今3歳の娘の日本語教育にかなりの不安を抱いていて、ドイツに住みながら日本語を読み書きまでネイティブレベルにさせることへの途方もない困難さを前に解決法を見いだせないでいる。うちは夫がドイツ人で、家庭内言語はドイツ語。娘の生活で日本語使う人間は私のみ。幼稚園も友達もみんなドイツ語。

多分ベルリンで育てば第2言語としての英語は心配ない。似てるしまあまあ使うから。ただ日本語だけは話が違う。正直日本で数年間住まないと、なんとなく喋れる以上にはならないだろう。

何が言いたいかというと、日本語で読み書きができる能力と人材の稀少性を忘れたらもったいないなということ。日本のダメさが年々明るみにされているけど、それは他の国の人がどうにかしてくれるわけがなく、日本語ネイティブの人にしかどうにかできないし。といきなりすごい国粋主義的だけど真実。

どうしてこんな割とどうでもいいことをわざわざ書きたくなったかといえば、私世代の親たちの英語コンプレックスがものすごいせいで、日本の子ども向け単語絵本とかで必ずと言っていいほど英語との二重表記が施してあったり、他にもいろいろ見てると、私たち世代のこの英語への情念はもうトラウマレベルだなと感じ入るから。絵本の例えでいえば、ベルリンで英語とダブル表記のものは見たことがない。英語は英語だけの絵本として存在してる。

英語の早期教育は日本語がおざなりにならない範囲で価値があると思うけれど、世界、特に欧米で言語使って仕事するという話になったときに重要なのは断然語学スキルよりも欧米的コミュニケーション態度だと痛烈に感じる。

具体的に言えば、自分の考えを持って相手に臆せず伝える態度、ボソボソ喋りじゃなくはっきり話す、誰が来てもオープンに接しスモールトーク(世間話)ができるなど。これが多くのシャイな日本人が欧米に出ると英語以上のハードルとなりうる。

だから英語さえできたら何とでもなる話でもない。英語もご当地言語ももちろんとても大事だけど、足元の自分の国の言語の世界的稀少性にはちゃんと自信をもって誠実に扱いたいし、次世代にも伝えていきたいと思いを新たにする移住5年目です。コロナ禍で国境を超えた移動が制限される中で。

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