【愛しの女子たちへ】『女性のライフスタイル』 ①「財産分与も慰謝料も無しが半分」
1979年3月、私は「離婚します!女性のための離婚学入門」という本を共著で出しました。まわりに離婚する人がいず、そういうことに無知であった自分にも腹が立った。女性が働き続けられる社会を創ろう、別れても子どもの成長にしっかり関わる父親を増やそう、男性の働き過ぎる社会を改めよう。そう思ったのが離婚講座開講のきっかけだったのです。
同時に、東京は渋谷区表参道でニコニコ離婚講座を月一回開催し始めたのです。これは何度か北欧を旅し、女性たちの暮らしに焦点をあてて取材してきたことが大きく影響したと思います。
ニコニコという名は、当時は離婚は人生の負の部分であり、経験者は落伍者と思われていましたから、それを吹き払うネーミングが必要だと思ってつけたのです。そのせいかスポーツ紙や週刊誌が取材に押し寄せ、あっという間に有名(?)になり、「離婚を勧めている」と誤解されました。ただ、悩んでいる人から続々と電話があり、毎回全国から受講者が来るようになったのにはびっくりしましたね。それにしても、北欧取材がなぜ離婚講座開催に繋がったのかと思われるかも。
今でこそ年間の離婚件数は20万件を越えていますが、当時、それほど離婚は多くありませんでした。第二次世界大戦直後は結婚だけでなく離婚も再婚も多かったのですが、食糧事情も良くなり、社会が落ち着くと、離婚も減り、昭和30年代40年代はずっと年間7~8万件でした。ところが、高度経済成長期に入り、急激に離婚件数が増えてきた。
これは経済成長の中で男性の労働時間が増えたこと、女性も働いて収入を得られるようになったこと、住居と勤務地が遠くなり、夫が家庭で過ごす時間が減ったこと、地域コミュニティが弱くなり、家族を支えるものが小さくなったことなど、様々な要因があると思います。でも、離婚件数が増大したといっても、離婚は簡単にできるものではなく、離婚できない原因の第一は女性に経済力のないことだったんです。
男女の賃金格差が大きい上、いったん仕事を辞めた女性が再就職する時、正社員の門は狭く、ほとんどがパート勤務という状況でしたから、それでは子どもと食べていけない。
当時の新聞を見ると求人欄に年齢が書いてあり(※1)、若者優先。年功序列社会では、年齢の高い人には給料を高く払わなければならず、求人側はできるだけ若い人を採りたかったのですね。
その上、離婚の法律も女性には不利でした。離婚時に夫婦はどちらかが財産分与の請求ができる(民法768条)のですが、家財産の名義のあるのは大抵夫なので、妻が請求側となることが多い。
日本の場合、離婚の9割は裁判所等が関与しない協議離婚ですが(※2)、夫婦二人で話し合うと、力関係で夫の方が優っているからか、協議離婚の半数は財産分与も慰謝料もなしで別れていました。
未成年の子の8割は母親が引き取ってましたが、父親が養育費を払い続けるのはたった1割。
おかしいと思いません?別れたって父親じゃないの。よく平気でいられると思いました。
今回はここまで。
次回4月9日の「女性のライフスタイル」②「再就職は不利なパートばかり」に続きます。
<脚注>
※1 当時は教師の資格があっても、35歳以上だと公立学校では採用試験すら受けられなかった。他にも再就職時の採用年齢に制限がある企業が多かった。
※2 日本の離婚は夫婦の合意で市町村役場に離婚届を出せば成立する協議離婚が9割を占め、家庭裁判所の調停で成立する調停離婚が約8%、調停でも話しあいがつかず裁判までいってやっと成立する裁判離婚(約2%)の3ケースがあります。
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