見出し画像

第5回 好きな人の成分

私は、食べ物のねぎ類をおいしく食べられない。丸っこいのも、長いのも、食せないほどではないけれども、食さずに済むのであれば、よける。とはいえ、丸っこい方のねぎ、通称、玉ねぎは、あらゆる料理に引っ張りだこの人気食材。もはや、入っていないと始まらないくらいの地位が約束されている料理すらある。例えば、カレーにおいてとか。
 
私のカレーの場合、玉ねぎは容赦なく、こっぱみじん切りにされる。そうすれば煮込んでいるうちに概ね溶けるので、玉ねぎの存在感を、ひょっとしたら入ってないかもねレベルにまで薄め、おいしく食べられるからである。そう、私はカレーは好きなんだけれども、カレーの中に必ず入っている玉ねぎという食材が好きではない。
 
だから本当はカレーにも玉ねぎは入れたくない。でも入れなくてはならない。なぜって玉ねぎの入っていないカレーは、おいしくないと感じる。これは作ったことがあるからわかることだが、玉ねぎの入っていないカレーは、何とも間の抜けた味がする。何だろう…カレーなんだけど…何だろうね、というぼんやりした印象の料理となってしまうのだ。
 
これは好きな人にも同じようなことが言えると思う。好きな人を構成する要素を細かく分けて検証してみると、好きな成分と好きじゃない成分が混じっていることに気づく。ここは好きだけど、こういうところは好きじゃない、もっと言えば嫌い。でも全体として、この人は私の好きな人という感じ。
 
人は、好きな人の好きじゃない部分について、何とかしてほしいと思ったり、何とかするよう要望を出したりする。しかし、仮にその人が、うまいことその好きじゃない部分を何とかしてしまった場合、つまり、好きじゃない成分がなくなってしまった場合、その人は、自分にとって前よりも好きな人になるのだろうか? 何だろう…好きなんだけど…何だろうね、というぼんやりした好きな人になってしまわないだろうか。だって全体的な成分バランスが変わるわけだから。
 
好きじゃない部分も含めて好きとは思わない。好きじゃない部分は、あくまで好きじゃない。でも、この人からこの成分を抜いてしまうことで、私が好きだと思ったこの人でなくなってしまうのであれば、含めておかないといけないのかな。だってカレーに玉ねぎ入れるしなー。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?