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きみそのものを見ている
なんかふと書きたくなった。
特別仲の良い友達を思い浮かべたとき、その友達が女であるか男でいるかはあんまり考えてないなぁと。
きみそのものを見ている。
あるのは、
一緒にいてくれてありがとう!
すてきだなぁほんとうに。
という気持ちだけ。
その昔、高校でマラソンの練習をしていたとき、私は初めて男女の差を感じた。
当時バスケ部だったので、走ることには少し自身があった。しかし、横を駆け抜けていく男子が、同じ年齢とは到底思えないくらい私とは違った。肉体的な違いを目の当たりにした。結構驚いた。
とはいえ学生の頃は、「男だからこうするべきだ」「女だからこうするべきだ」という考えはまるでなく、ないことが私にとって自然だった。平等にと言わなくても平等なことがごく当たり前だったと思う。男女平等という言葉すらあんまり意味がわからなかった。男女平等って言わないと平等じゃないのが世の中なのだろうか…?みたいな感じだった。(男女平等参画社会基本法を文字面だけで覚えていた)
だから、社会人になってから結構驚いた。例えば、男の人が重い荷物を運ぶとか、女の人がお土産を配るとか。
うーん、わからなくもないけど、私にとっては違和感があった。もちろん助かる場面もあるのだけど…!
しかし何年かすると、“男の人が重い荷物を運ぶ”“女の人がお土産を配る”という考えが、私の中で当たり前のようになり、馴染んできた。
学生の頃も、男女の区別は日々あったけど、あんまり気にならなかったなぁ。この違いはなんだろうなぁ。
日々男女の区別はある。
しかしながら私は、特別仲のいい友達との関わりを振り返ると、やっぱりきみそのものを見ている。
いいな、素敵だな、もっと遊ぼう!と思うから一緒にいる。
なんかまとまりがないけれど、ふと浮かんだので書いてみた。
大好きな友達を思い浮かべて書けてうれしい☺️
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