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課題の分離ができなくてよかった。会食恐怖症を理解してもらえなくて良かった。

最近、

「私の長所を教えてください」

といろんな人に聞いている。

次の仕事探しのための自己分析をしている。

その時にある友人が、

「絶対に人を傷つけない」

と教えてくれた。

それから、優しい。優しいといってもざっくりしてるけど、特に思いやり!思いやりがある!

と、ワクワクした声で伝えてくれた。

とっても嬉しかった。





今、会食恐怖症の発症から現在までの振り返りをし、文字に起こしている。

書きながら、私は、嫌なことをしてきた相手の課題である

「人を言葉で傷つけない」

を、自分の課題にしてきたたのだと思い出した。




もしかしたら、相手の課題を自分の課題にしているというよりは、

「こんな人に私は絶対にならない」

という決意のようなものだったかもしれない。

みんなで幸せになりたかった。


それから、どんな言葉が人を傷つけるかわからなくて、あまり喋らなくなった。元々自分の気持ちを話すのは得意ではなかったけど、さらに言葉数が減った。




それから社会人になって、「会食で緊張して食べられないことがある」と伝えた場面があった。

その時に、人に押し付けるように伝えないでという風なことを言われた。

荷物を背負わせないで。自分のことは自分で解決して。というような感じだった。

私は相手を責めた。

私は自分より周りのことを優先させることが多かったからか、「自分のことが一番」と堂々と言える相手に腹が立った。

でも冷静になると、相手の抱えている問題や状況に寄り添うことはできていなかったし、理解してほしいばかりだった。


そこで、私はコーチングに出会う。

「人の無限の可能性を信じる」

というキャッチコピーが目に留まった。

私は相手の夢や可能性を全く信じられてなかった。

気づいたら基礎コースを申し込んでいた。

今から2年半前のことだった。



そして、最近家族以外のいろいろな友人に、

「人の話をよく聞く」「聞き上手」

と言われるようになった。

昔は一度も言われたことがなかった。


「会食恐怖症を理解してもらえないことでいっぱいいっぱいで、相手の可能性を信じられなかった」

という出来事がなければ、

コーチングには縁がなかったかもしれない。




最近友人から、

「あなたの前ではありのままでいられる」「絶対に人を傷つけない」「聞き上手で自分のことより人のことを考える人」

と言われた時、

嫌な相手の課題を自分の課題にしてきて良かった。人を傷つけないようにしてきてよかった。そして、それでも言葉にして伝えようとこうやってnoteを書いたり人前で経験を発表させてもらう機会を断らずお受けさせていただいてよかった。会食恐怖症のことを一生懸命伝えたのに伝わらないことでいっぱいいっぱいで、相手の苦しみに目を向けられず応援できず悔しい思いをしてきてよかったと思えた。

本当に、とってもつらかったけど、

悔しくてつらい経験を乗り越えようとした努力が、身近な友人の助けになっていると思うと、

このために私は苦しい思いをしてきたのかも

と、長い長い時を経て思う。



自己分析をしていて、人への気遣いとか人を傷つけないとか、これは才能というより強みだなと確信を持ててきた。

無意識に使えるものではないけど、鍛えられた、思いのこもった私の強みだ。

言葉にすることは、発信をすることは、人を傷つけるかもしれない可能性を含んでいる。

けれど、少しずつ、ここにも言葉にしてきてよかった。

言葉を選べる大人になりたい

と、ずっと思ってきた。

「言葉を選んで伝えてくれる」

という長所も教えてもらった。
本当に嬉しかった。


noteにたくさん言葉にしてきてよかった。

これは、noteを書き始めたときの決意のnote。

言葉にしていくと決めた。

私の今の課題は、

人を傷つけないことではなく、伝えていくこと。

あー、嫌だなぁ。
できれば伝えないで穏便に済ませたい。
誰も傷つけたくない。

そんな自分もめちゃくちゃいる。

けれど、それでは進まない現実が現れつつあるし、私はすでに、「伝える」にたくさん挑戦している最中だ。

えらいね。

私の使命はまだまだ「伝えていくこと」なのかもしれない。

だからいろんなことを体験して、乗り越えられているのかな。

直近にも、まだまだ「伝える」に向き合うべきことが浮かぶ。

本当は内省していたいんだけどね。

自分の得意(才能)とは裏腹な使命ってものもあるんだなぁ、そんな流れもあるよね。

スキルや強みをゴリゴリに鍛えなきゃいけない時もあるよね。

才能を使ってスキルを磨いてきたのかなと思った。

才能だけ使う方が楽だけど、そうもいかない場面では、人は才能を使いつつ水平にも垂直にも成長していくのかも。

乗り越えたいという気持ちがある限り、人は成長していく。

無駄な経験は何ひとつない。

でも、辛い現実は実際あるし、こんな経験できればしたくなかったと思う気持ちはめちゃくちゃある。

でも、目を背けない限り、どこかで意味があったのだとつながるのだと思う。

正直、ここまで向き合うのが正解か不正解かなんてわからない。

できれば楽して器用に生きたかった。

けれど意味はあったのだと、「私の長所を教えてください」という質問から見出すことができた。


無駄な経験は何ひとつない。




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