見出し画像

破天荒フェニックス”オンデーズ再生物語”の基礎を作った銀行員時代

2018年10月ソーシャル経済メディア『NewsPicks』に奥野のインタビュー記事が掲載されてから1年以上が経過しました。破天荒フェニックスの文庫本の発刊およびドラマ化を機に、インタビューの内容に更にエピソードも追加して大幅にリライトします。(文中敬称略)

バブル絶頂期に都市銀行(メガバンク)に入った

私が大学を卒業して富士銀行(みずほ銀行の前身)に入行したのは、1989年(平成元年)のバブル絶頂期。当時の就活環境は超売り手市場。中でも就職先として金融機関の人気が最も高かった時代です。

就職活動時は広告代理店が第1志望でした。しかし最初に内定を出した富士銀行に拘束されてしまい、志望したのと違う道へ・・・

実を言うと、就活を始めた時は銀行には全く興味がなく、富士銀行が収益トップバンクであることはおろか銀行名すら知りませんでした。

ただし、よく調べてみると、富士銀行は人気ランキングの上位企業で、かつ先輩方の人柄も好印象だったので「まあ、ここでもいいかな」という感じで同銀行への就職を決めました。

バブル崩壊から金融システム危機へ

銀行で私は、「融資」を軸とした業務を行っていました。いわゆる「融資畑」というやつです。

ただし銀行の方針が「1人の担当者で全部(営業・融資・新規開拓など)やる」となって、ひたすら外回りをしていた時期もあります。

▼例として新規開拓でのエピソード

私が銀行に入った3年目にバブル経済が崩壊して、いわゆる「失われた10年」が始まりました。日本経済が急降下するとともに、銀行の不良債権が見る見るうちに膨れ上がり、金融システム危機に突入するのでした。

経営破綻する金融機関も出てくる危機的状況の中で、銀行の喫緊の課題は「不良債権の処理」となり、私の業務も債権管理回収が中心へと変わっていくのでした。

銀行による「貸し渋り・貸し剥がし」が激しさを増して社会問題化した21世紀の初頭。私は営業店の融資課長として最前線に立っていました。

特に2001年4月6日の政府通達『緊急経済対策』は銀行にとっても中小企業にとっても悪魔のような厳しい内容となり、メガバンクは不良債権処理を苛烈化させていきます。

過酷な不良債権処理に苛み(さいなみ)ながら

銀行の姿勢が最も厳しかったのは、私が初任課長として新潟支店に赴任していた4年間でした。みずほ銀行(富士銀行が他2行と合併して誕生)が、異例の1兆円増資を行った前後にあたります。

当時のメガバンクの地方支店では、地場の地方金融機関へ不良債権を押し付ける「メイン寄せ」も露骨に行っていました。

「死ねというのか!?」
「血も涙もない人!」

と罵倒されるのは日常茶飯事。「自分だって本意ではない!」と心の中で叫ぶことも多々ありました。融資先のご老人が自ら命を絶たれたときにはさすがに、やり場のない怒りに震えました。

しかし「これをやり切らなければ銀行が潰れる」という状況は、営業現場にいる私でも痛いほど理解できました。そのため、自分に言い聞かせるのです。

組織に属する人間として、与えられたミッションに全力で取り組むのは当然であり『嫌だから』と途中で逃げ出すことはするまい

私は相当に意固地なのかもしれません・・・

企業再生の道へ進みたい!!

また私の業務は、必ずしも回収一辺倒だったわけでもありません。新潟支店で課長職にあるときは、地場大手企業M社の再生案件も自ら手がけていました。

M社に関しては、メイン銀行の地方銀行が(当時は数えるほどしか事例がなかった)「私的整理に関するガイドライン※」適用による債権放棄を提案してきました。

※私的整理ガイドラインとは、平成13年、金融業界5団体や経済団体連合会、学者、弁護士等の専門家などで構成される「私的整理に関するガイドライン研究会」によって、銀行等の金融機関が貸出取引先に対し債権放棄等を行う場合の指針として発表された。法的拘束力・強制力のない紳士協定
YSG経営ナレッジより引用)

ガイドラインに則った私的整理を検討するM社に関しては、準メイン銀行のみずほ銀行が相当に複雑な立場にありました。キーを握る残高シェアを持ちつつも(前述したように)「極力、地元銀行に負担を寄せろ」がメガバンクの基本スタンスなのです。


ただし結果としては、無事に債権放棄が実現できて、M社は復活を遂げました。私にとっては、この企業再生案件で味わった高揚感は、その後も忘れがたい体験となったのです。

再生案件に取り組む過程で「私的整理に関するガイドライン」事務局のメンバーや弁護士の方々と「衡平性(こうへいせい=釣り合いがとれている)」について議論する機会もありました。

この経験は、後に OWNDAYS 再生の実務で10を超える銀行との丁々発止(ちょうちょうはっし=激しいやり取り)に生かされました。

オンデーズ再生に参画した初年度に「銀行の取締役支店長宛に内容証明郵便で抗議文を送りつける」といった荒業を使ったのも、実務経験で得た自信があったからこそです。

敷かれたレールを歩くのはつまらない

M社の再生に携わるうちに私は「企業再生」の道に進みたいと強く思うようになりました。折しも三枝 匡(さえぐさ ただし)氏の”経営3部作”を読んで企業再生への関心が芽生えていた時期でもありました。

そこで私は、銀行の「ポストチャレンジ制度」を使って企業再生に関与する部署への配転に応募したのです。

意気込んでチャンレジした応募に対し、私は面接を経て最終候補の2名には選ばれたそうです。しかし結果として軍配が上がったのは、私よりもずっと若い候補の側でした。

私はこのポストチャレンジの落選結果を受けて、ふと悟ってしまいました。

銀行は自分にこのまま融資のエキスパートとして進んでいくことを求めているのだ・・・

そこで自分のキャリアのレールが見えた気がしたのです。このまま順調に銀行でのキャリアを歩んでいけば、恐らく次のようなレールです。

営業店の副支店長
 ↓
支店長
 ↓
審査部か融資部の要職
 ↓
関連サービサーの要職で出向

透けて見えたそのレールは銀行員としては恵まれたものでしょう。

「ぜいたく言うな!!」と怒る人がいるかもしれません。


いや。もしかしたら、私の勝手な思い込みに過ぎないかもしれません。

しかし私にとっては”敷かれたレールの上を進む”40~50歳代の人生が猛烈につまらなく感じてしまったのでした。向こう10年、恐らく最も脂が乗るであろう40代を、ワクワク感もなく過ごしていくことに恐怖すら覚えたのです。

ミッション完遂~もう負け犬ではない

企業再生部署へのポストチャレンジに失敗した翌年の2005年1月に、私は新潟支店から赤坂(東京)の支店へ異動となりました。

私が赴任した店舗、現在のみずほ銀行赤坂支店は、旧富士銀行赤坂支店です。

ブログ記事 ドラマも凌駕「半沢直樹なんかガキだよ」富士銀行赤坂支店事件を知る に書いたとおり、バブル当時に戦後最大の金融スキャンダルを呼ばれた「富士銀行赤坂支店(架空預金証書)事件」が起きた舞台です。

このバブルの象徴とも言える支店で、私は”不良債権処理”のラストスパートをかけました。

結果として、十数年間”もがき続けた”末の2005年半ば、大手銀行は「不良債権問題の終結」を宣言しました。

2005年3月期の決算については、大手行グループはそろって、不良債権半減目標を達成、また、不良債権残高は8兆円を切る水準まで減少している。
・・・中略・・・
不良債権処理の進捗状況については、個々の銀行を比べれば、若干の濃淡があるが、総じて言えば、不良債権問題は終結した、と申しあげて良いと思う。

全国銀行協会 前田会長記者会見(みずほフィナンシャルグループ社長)2005年6月21日 より引用


不良債権処理の終結宣言とともに富士銀行は「一律1割以上カットしていた給与も、翌年度から元の水準に戻す」と発表したのです。

私はミッションを完遂した安堵(あんど)を覚えるとともに、自分に言い聞かせました。

ここで銀行を飛び出しても、もう“負け犬”ではない!

もう堂々と銀行を出ていける、後ろ指を指されるいわれもないはず・・・そう思いました。

銀行からアナウンスされた「不良債権問題の終結宣言」と「給与水準のアップ予告」を受けて、私は「もういつ退職しても良いや」という感覚になっていました。

東京近郊にマンションを買い、転勤のたびに渡り歩いていた社宅は退去しました。自宅購入の際の住宅ローンも、勤務先の銀行からは全く借りませんでした。

勤務先(銀行)に対して、もういつでもケツをまくることが可能な環境を整えていたのです。


そして、私が銀行を飛び出すことを決断する引き金となった”ある事件”が起こったのです。

(第2回へつづく)


(第1回)破天荒フェニックス”オンデーズ再生物語”の基礎を作った銀行員時代
(第2回)倍返しは後味悪い!?みずほ銀行を飛び出した背景を説明します


この投稿は ブログ「バブル世代ど真ん中」の記事を再編集しています。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?