『Coda あいのうた』

今年もまた早速魂を揺さぶられ心を掴まれる映画と出会えました。

『Coda あいのうた』

聴覚障害で耳が聞こえない家族たちの中で唯一の健聴者である娘ルビーが歌の道に進んでいく過程を描く、家族の物語。

「聞こえない家族に届ける音楽」なんて、絶対面白い物語だ!とかなり気になっていたのですが、そんなミーハーな気持ちで注目していたのが恥ずかしくなるくらいあたたかい物語でした。

本当はあと何度か見て、理解を深めてから語りたいところなのですが、物語が分かっている2回目以降の鑑賞では余計に涙脆くなってしまうタイプの私は終盤の沈黙の時間に嗚咽しない自信がなく…

でも、1回目の感情揺さぶられている時だからこそ、深くまで掘り下げられていなくても感じられるものはあると思うので、とりあえず感じたままに書き殴ります。


なんと言っても、繊細な、そして巧みな描写が魅力。

そして音楽をやっている身としては音楽的な面でも心に響くものがありました。

音楽をやっているとどうしてもキツい厳しい思いばかりで、なかなか「音楽を楽しむ」と言うことを忘れがちな私は、『天使にラブソングを…』の心から音楽を楽しむコーラスシーンでも泣いてしまう人間なので、今作の合宿クラブの練習シーンからもう心を揺さぶられまくり。

そして今作のラブストーリー面での見せ場は、間違いなく背中合わせの歌の練習でしょう。

見つめあって練習しろと言われたデュエット。でもなんだか気恥ずかしくて、背中合わせで練習をする主人公ルビーとその想い人マイルズ。

背中合わせだからこそ、お互いの呼吸を感じ取る為に余計に相手への意識が強まっている、その繊細な描写がたまりません。


そして、もう一つの魅力は、健聴者として、部外者として見ている視聴者を引き込むテクニック。

まずはルビーが音楽を教えるヴェルナルド先生に、自分にとって歌とは何かを問われるシーン。

言葉で説明が難しいというルビーに、先生がなお説明を求めると、ルビーは健聴者で手話が出来ない先生に向かって「自分にとって歌うこととは」を手話で話し始めます。

言葉でなんと言っていいか分からないことを手話でなら表現できるという、ルビーにとって手話も第一言語に近いという事を示すシーンでもありますが、

映画全編を通して、手話には字幕が付けられているのにこのシーンだけ、字幕が消されます。

つまり先生と同じように、手話が分からない立場でありながら彼女の手振りから読み取らなければならず、それゆえに彼女の手振りに全ての神経を集中させ読み取らなければいけないのです。

無言で、「ハイここ注目!!!」と引きつけるテクニック。

そして、ただ引きつけておいても伝わらなければ意味がないのですが、手話の知識ゼロの人が見てもちゃんと彼女の気持ちが、むしろ言葉で語られるよりも鮮明にわかる、素晴らしい演技。

今作は、恐らくほとんどの観客が健聴者で手話もわからない、いわゆる「他人事の傍観者」になってしまう視聴者の引き込み方がものすごくうまいと感じました。

その最たるシーンが、秋の合宿発表会。

ルビーの晴れ舞台をもちろん家族は喜んで、お母さんは舞台衣装まで用意してくれて、一家総出で発表会に来てくれます。

でも耳が聞こえない家族にとっては、舞台で歌ってる様子が見えるだけ。

最初は周りに合わせて楽しもうとしますが、音が聞こえなければ限界があり、父親と母親は手話で「今夜何食べる?」と会話を始め飽きた様子。

ルビーは一生懸命舞台の上から歌を届けようと頑張るけれど、一番聞いて欲しい人たちに届かない音楽。

そんな物語が山場を迎えたその時、ふっと全ての音が消されるのです。

スクリーン上では一生懸命歌うルビーがコンサートを続けているのに、一切の音が入ってこない。

つまり、今まで他人事で傍観していた視聴者たちを、急に家族たちと同じ立場に引き込むのです。

そして同時にこのコンサートで、耳の聞こえない家族の事を誰よりも理解していて作中唯一難なくコミュニケーションが取れていたはずのルビーが、「伝えたい事、届けたい音楽が届けられない」という立場にも立たされるのです。

家族抜きで行動したことがないと、かつてクラブメンバーの前で歌うことすら出来ずに逃げ出していたルビーが初の大舞台にそれほど臆することなく素晴らしい歌を披露していながら、その歌声が家族には届かない。

「そうそう、手拍子をして!」などと舞台上から必死で合図を送るけれど、ルビーにとって恐らく初めて「伝わらない」という体験になるのです。

こうして、家族たちと、ルビーと、そして視聴者とを、一か所の視点に留めさせずに互いの立場を理解させ引き込む描写が素晴らしいです。

そして発表会が終わると夜、父親はルビーに自分のために歌ってくれと頼み、ルビーの喉にそっと手を当て「聴き」ます。

たしかヘレンケラーも相手の顔に触れて音を感じとるというエピソードがあったと記憶していますが、ここできっとルビーは「音が聞こえない人に音楽を届ける」ということを知るのでしょう。

翌朝、大学進学のかかった歌の試験に家族みんなで送り出します。

楽譜を忘れたために試験用伴奏者が弾けないとなると代わりに来てくれたのはずっと一緒に練習してきたヴェルナルド先生。

ここも自分の音楽経験と重なり、既に涙を誘います。

怒られたり大変だったこともたくさんあったけれど、誰よりも一番自分の音楽を分かってくれている先生の伴奏で歌えるという安心感。幸せ感。

一番信頼している先生と音で会話をしながら奏でる1曲は、とてもとても尊い大切な音楽となるのです。

先生の優しいピアノに背中を押されながらルビーは歌いはじめ、試験会場に忍び込んで観ていた家族たちに向かって歌に手話をつけ始めます。

音の届かない家族に音楽が届く瞬間。

世界で一番優しくあたたかい音楽で迎えるクライマックス。

そして、無事合格したルビーの旅立ちの日、一度出発した車を止めて家族の元に戻ったルビーに、父は手話ではなく言葉で、「Go」行けと背中を押すのです。

ルビーにとって何よりも心強い後押しになったことでしょう。


美しく、優しく、愛おしく、あたたかい物語。

終わったあともしばらく余韻から抜け出せませんでした。

ルビーの透き通るような、優しく、そして芯のある綺麗な歌声からもしばらく抜け出せそうにありません。


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