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ある高校生の雑記-3

まぁやはりと言うかなんというか、自分は「続ける」という能力が著しく欠けているらしい。本当に悲しい。続けられないなら辞めてしまえばいいと思い、文を書く気すら無くなっていたが、本当に誇るものが何も無くなると思い、せめて週に一度でもいいので書こうと久々に筆を執った。

良ければこれからも失望せず見てくれたら有難い。


1,性善説と性悪説

突然だが、あなたは性善説と性悪説、どちらを支持する?

私は性悪説を支持している。何故?今から私なりの理由を説明していこうと思う。


 まずは自己から見る「善」と「悪」だ。果たして、自分の本質を善である、と神に誓って言える人間がどれほど存在するだろうか?あなたは言い切れるか?

 もしもあなたが自分の本質は善であるというのなら、いうのなら、余程立派な人生を送ってきたのであろう。誰にも自分勝手な文句を言わず、道端で倒れている自転車は全て立て直し、公共の利益に反することのみに「No」と言う。素晴らしいじゃないか。

だがそれすらも「善」と言えるのか?全てはあなたの主観なのではないか?

そもそも「善」とは何であるか?

私は「善」のこと自体を「エゴ」と捉えている。そもそも全ての人間にとって賞賛される事など存在しない。私の思う善、あなたの思う善は違う。全てが違うという訳ではなくても、所々異なっている。

そのための指標が道徳だと言うのなら、逆に聞きたい。その道徳すら、他人数にたまたま共通した善と悪の概念に過ぎず、全てが誰もにとっての善ではないのだ。

戦前日本の教育では、国のために戦って死ぬ事が日本国民にとっての「善」である、と学ばされた。これは正解か?それとも間違っていたのか?私の一意見では間違っていたと思う。が、これすらも当時の彼らにとっては「善」であり、反対意見を唱える私こそ「悪」だったのである。これを私は戦前の日本国家の「エゴ」であると思う。

閑話休題。別に政治批判をしたい訳じゃない。しかもこの話題は荒れる。失礼しました。

 自分の本質を「悪」だと思う人はどうだろう。人を殺し、金を盗み、物を壊す。一般の道義的に見ればこれは「悪」である。そして私も流石にこれは「悪」だと思う。しかし、当人達からしたらどうだろう?

少し前に、SNS(確かTwitterだったか)で、「死にたい」などとツイートした複数人に声をかけ、殺害し、金品を奪った。当然その中には、本当に心の底から「死にたい」と思っていない人もいた。社会的、道徳的に見て「悪」だ。酷い事件である。

しかし、ここに本当の救いを見出す人もいるかもしれない。考えて欲しい。死とは、唯一全ての悩み、苦しみから人間が抜け出す手段である。人はそんな悩み苦しみを耐え抜いて生きていくものだ、という意見は肯定しよう。しかしでは貴方は、本当に、心の底から死にたいと思っている人に出会ったことはあるか?そもそも自分でそんなことを思ったことはあるか?本当に死にたい人と完全に同じ状況に面したことはあるか?

私は無い。本当は死にたくないのに死にたいと思ったことは数多くあれど、所詮それは「誰かに心配してもらいたい」というだけの取るに足らない文字の羅列だ。

つまりは「悪」も誰か/何かに植え付けられた価値観に過ぎないのである。


 次に歴史から見る「善」と「悪」だ。

人間の歴史は戦争の歴史と言われる。生存のための戦争、土地のための戦争、宗教のための戦争、侵略のための戦争。 他にも大量にある。

これらは無論、どちらにも「善」がある。そして、片方から見た相手は倒すべき敵であり、即ち「悪」である。究極的には違うかもしれないが、少なくとも敵は悪であるとされる。

このように、「善」と「悪」はいつでも入れ替わることが出来るのである。これも善悪の正体はエゴである、という私の意見に繋がる。

また、ほかの数々の事例に関しても絶対的に「善」と「悪」を決めることは出来ない。例えば革命。その時権益を得ていた人々にとって革命は恐ろしく、また革命を起こす人々は自分たちの立場を脅かす「悪」である。

ある程度の批判は覚悟の上で、宗教からも見ていきたい。

キリスト教において、なぜキリストは十字架に磔にならなければいけなかったのか?それは人の子の「原罪」のせいである。原罪とは何か?神の子、始めの人、アダムとイブが蛇に唆されて禁断の果実を口にした事である。そして、アダムは禁断の果実を食べたあと、神に見つかり、なんと言ったか?「女が食べるように勧めたので、食べました」と。責任転嫁である。イブにしても同じで、「蛇に唆された」と言い訳だ。決して「ごめんなさい」が言えなかった。しかし神はそんな人間をも愛し、決して殺しはせず、ただ地に下ろして食や出産に大変さを加えただけであった。神は我々を愛している。が、我々にはこうした原罪がある。そもこの考え方自体も性悪説を前提にした神の愛(アガペー)の伝え方ではないだろうか、と自分は解釈する。

さて、進化心理学的な面から見ると、反対意見が考えられる。無論自分は本当にほんのすこし齧った程度であるので、下手なことは言えないが。

即ち、人は進化するに従ってその悪性を身につけたのであって、元来不変のものとして悪性は身に宿っていない、という説だ。

だが、立ち止まって考えて欲しい。そもそも、何故人は「進化」に至ったのか。真に善性であるならば、進化などしなくても、その時に調和が取れていたら、そのままでいいのではないか。

…最後の2つの理論に関しては、自分が詳しい理解を持っていないため、粗雑で理解に苦しむような論理になったが、許して欲しい。


2,終わりに

多忙を言い訳にしてしばらく文を書いていなかったが、やはりいい刺激になった。これからも隔週で、少しづつ書いていきたいと思う。すごくゆっくりな歩みだが、見守ってくれるととても嬉しい。最後まで読んでくれた方、本当にありがとうございました。


(写真:鶴見線 浅野駅 2021/3/30撮影)

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