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あるものを敬う、ということ。

こんにちは、よんもじです。

今回は、「あるものを敬う」ということについて書いていきたいと思います。

いきなりこんなことを言うとびっくりさせてしまうと思いますが、実は、昨年の秋頃より、活動拠点が増えました。結論から言えば、この経験は私の糧になり、「あるものを敬うことの大切さ」を一番に感じました。

理由や詳しい内容は省きますが、新しい環境に飛び込んで変わった3つのこと、それにより感じた「あるものを敬うことの大切さ」を、これから書いていきます。

【1:好きなことでも割り切って考えるようになったこと】

まず、活動拠点を増やすにあたって、生活環境を整える必要がありました。

これから一緒に活動をする人らと、「ここはどんなレイアウトにしようか」「買うべきものとそうでないものは何か」といった簡単な話し合いの末、私が買い物担当の中心となり、必要なものを、実店舗・ネット含めて買い漁りました。

今までは、欲しいものに囲まれるような生活をしておりましたが、それも「嗜好品」である小物類を買っていたから出来たこと。

AV機器や、大型白物家電、生活必需品を買う場合は、全く話が違うということに、ここで初めて気づきました。これらの物を買うときは、新しい拠点の間取りや、取り巻く環境を素早く把握した上で、コスト・納期を意識して買わなければなりません。

例えば、冷蔵庫を探しに家電量販店に行き、「あ!この冷蔵庫いいなあ、欲しいなあ」と思ったとしても、冷蔵庫のドアの開き方(ドアの右側が開くタイプだとか、観音開きタイプとか)等細かいところにも瞬時に気を配る必要があるし、そもそもの寸法が、間取りにフィットするかどうか調べる必要もあります。もちろん予算も限られているので、即決出来ないこともあります。

だから、これまで買ったこともないようなものを買うことで、「世の中にはこんな便利なものがあるのか~」と感心すると同時に、数の多さや、懸念点の多さに圧倒され、何が良いのか分からなくなることもありました。

それでも、上記に書いた通り、今まで使ったことのない頭の使い方を、超短期間で、全て行う必要があるので、幾ら買いものが好きとはいえ、割り切る必要が出てきました。これが結構、最初は辛かった。

今まで築いてきたこだわりを捨ててまで、妥協策を飲まなければいけないのか?とか、私のリサーチ能力はこんなもんじゃない、もっといいものが見つかるはず・・・とか、大袈裟に言えば、これまでのアイデンティティとの決別と、プライドを折ることが、ただただ自身の中でどうしようもなく情けなかった。

でも、そうした、「好きなことでも割り切って考えるようになったこと」が、良かったと思え、「あるものを敬うことの大切さ」を知る出来事に繋がっていきます。

【2:誰かの意見を尊重するようになったこと】

【1】でも書いた通り、活動拠点を増やすにあたり、新しい人と顔を合わせる必要がありました。

新しいといっても全くの赤の他人ではなく、既に知り合いの、仲の良い存在だったので、そこまで問題はないかなと思っていましたが、これまで生きてきた環境やものの捉え方が違うので、それこそ最初は「え?チーズ乗っけた食パンは普通トーストで焼くでしょ、電子レンジ使うって何?」とか、本当に些細なことでも「?」が止まりませんでした。

しかも厄介なのが、それに対して(いや、絶対電子レンジよりトーストした方が美味い)とか反論する気持ちを抱いていたこと。真っ向から「それは絶対ありえない!こうして!」と言ったことはこれまで一度しかありませんが、(いや、こっちの方が絶対いい・・・)と思ったのは数え切れないほどあります。

ただ、そんな気持ちを抱きながら生活していると、全てに対して腹が立つし、「なんで分かってくれないの?」と、都合の良い悲劇のヒロインになれてしまいます。これがすごく嫌でした。

私は、自身の非を顧みることなく「俺(私)は被害者だ!」と一点張りに騒ぐ姿ほど見苦しい姿はないと思っているので、自分がそんなモンスターに成り果ててしまうのが恐ろしくて、他人の意見にむやみやたらに疑問を抱くことをやめました。

「あの人はあの人の生きてきた世界線の中で、最善のことをしている。そしてそれは不変的なものでなく、同じ時間、環境の共有により、姿を変えていくはずだ」と、相手を信じることにしました。現存する人(=あるもの)を敬うと言うことです。

結果として、自分自身もだいぶ他人の意見に近づくことが出来たし、相手も相手で、私の意見に歩み寄ってくれるようになりました。敬うから、敬われる。当たり前のことですが、なかなか自分から相手を敬うのは難しいです。

これって、ある意味、「好きなことでも割り切る」ことの発展系だと思います。それまで培ってきたものをある程度捨てなきゃいけないのは残念だし心細いけど、そうしないと未来は今よりもっと暗いものになってしまう。

それならば、持続する未来の幸せに期待して、今ある最大限の幸せをほんの少し削ることも1つの手なんじゃないかと考えるようになりました。

【3:時間を置いて物事を考えられるようになったこと】

「ああ、時間を置いて物事を考えられるようになったなあ」とどんな時に感じたかと言えば、共用スペースに飾る時計を選ぶときに感じました。(急に卑近な例になってすみません・・・)

言うまでもなく、こだわり派の私は、妥協してそれなりのものを買うくらいなら、熟考していいものを買いたいと考えておりました。

しかしながら先に述べた通り、限られた時間・環境・お金の中で買い物せざるを得ない環境により買い物に妥協を見出したため、その勢いで時計も適当なものを買ってしまおうか、とヤケになっていました。

それでも、やはり、少しは折れずにいいものを買いたいと思っていたので、一旦時計を買わずに生活することにしました。今までの生活では至る所に時計があったので、初めのうちは慣れませんでしたが、次第になんとかなっていきました。

とはいえ、意識せずとも時計が視界に入ることで、「あ、そろそろ○○の時間だ」と気づく環境が欲しかったので、新しい環境に身を置いて一季節が経った頃、久々に時計を買おうという気持ちになりました。

世の中の人がどれくらいのスピードで物を買っているか分かりませんが、私にとって、時計1個を3ヶ月間買わないままにしておくことは相当遅いスピードです。熟考といえど、せいぜい一月、欲しいという熱量と調べる気力が持てばいい方だったのです。

だから、久々に時計を買おうと思ったときは、あれほど抱えていたこだわりもかなり薄れていて、「まあ、ある程度こういう形をしていて、これくらいの値段に収まればいいよね」位の気持ちでいたので、そこまで躍起になって調べ尽くすこともありませんでした。

結果として、既存インテリアに馴染む、値段も比較的手に取りやすい価格帯のものを偶然実店舗での買い物中に見つけ、購入出来たので満足しています。

ヤケになって「なんでもいいから時計が欲しい!!!」って思っていた時では、多分発見出来なかった掘り出し物じゃないかなと思います。

あくまでこれは、ほんの1つの出来事にしか過ぎませんが、きっと今後も、少し時間さえ置けばいい方向に向かっていく話って結構出てくるんじゃないかと期待しています。

【まとめ:あるものを敬う、ということ。】

初めこそ、戸惑いと、身勝手な怒りと、諦観に苛まれましたが、活動拠点を増やしたことは、私にとっては良い経験になったなあと感じます。

こうでもしないと、変えたくてもずっと変えられなかった「余計なプライドを捨てる」と言うことも、「自分だけのこだわりでなく、人のこだわりも認めること」も、多分ずっと出来ないままでいたと思います。

それまでの環境にずっと居ることも、この不安定な現時点の世界では最適解の1つかもしれないけれど、それでも私は、挑戦した私を認めたいし、同じように、新しい世界に飛び込んでゆく人の背中を押していきたいと思います。

あるものを敬うことで、これまで以上に良い生活になってゆく。

これほどエコで、健全な循環は他にないと思います。だからこそ、この気持ちは持ち続けていきたいです。

【編集後記】

改めまして、こんにちは、よんもじです。まず、第二回目のマガジン発行が出来たことに深く感謝いたします。

前回のマガジン発行は、正直不安がありました。SNSで時々、思ったことをポツポツ呟くことはあっても、明らかに「読み物」として言葉を綴るのは久々であったし、ましてやオリジナルの媒体で、単独の読み物を作ることをしてこなかったので、「私の言葉は、果たしてそんなことまでする価値があるもなのだろうか?自己満足の域を超えることはないんじゃないのか・・・作っても無駄になるだけなんじゃないか・・・」と、結構ネガティブな気持ちを抱えていました。

それでも、「なりたい自分になっていいと、自分を許す」ことをしたかったので、思い切ってマガジン発行に至りました。心理的な面以外にも、印刷等の技術的な不安もありましたが、結果的には、それらの心配は見事杞憂に終わり、複数名の友人から「よんもじの文章、素敵!」といった暖かい言葉をいただけました。本当に嬉しかった(と言うより、現在進行形で嬉しい)です。ありがとうございます。

このマガジンは、いつも以上に、「固有名詞のあなたへ送るラブレター」を意識しているので、今後ともぜひ、暖かい目で応援してくださると嬉しいです。もちろん、奢っている時は叱っていただきたいですし、「こんな読み物が欲しい」というリクエストも頂ければと思います。では、有縁再見!


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