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在日韓国人の私と無国籍の医師との出会い

 私は日本で生まれ育ってきた、父が韓国人で母が日本人の在日韓国人4世だ。常日頃から日本に生きる外国人として、またお互い政治問題を抱える隣国同士の軋轢に巻き込まれざるを得ないルーツを持つものとして日本社会に生きる上での悩みを抱えてきた。

 そんな私は2012年の学生の頃、陳天璽さんの『無国籍』という本と偶然出会った。その本には無国籍の人が抱える法律上の問題点やアイデンティティの葛藤などが書かれていた。著者の陳天璽さん自身無国籍だった。陳さんは日本生まれの台湾国籍だったが1972年の日中平和友好条約で台湾国籍が日本で認められなくなったため無国籍になった(現在は日本国籍を取得済み)。それまで私は「無国籍」と言ったら、無国籍料理という言葉でしか出会ったがなく、実際に無国籍の状態に置かれている人たちがいるなんて想像すらしていなかった。国籍の問題で苦しんでいた私は無国籍について興味を持ち始め、夢中になって本を読んだ。本で紹介されている人の中で最も私の注目を引いたのが、満州生まれで無国籍のエフゲニー・アクショーノフという人だった。

 そのアクショーノフさんは1951年から六本木でクリニックを開業し医師をやっていた。今まで彼にかかったことのある患者の中には歌手のマイケル・ジャクソンにマドンナ、ジャック・シラク元フランス大統領、俳優のジョン・ウェインなど世界に名だたる有名人も多い。しかし、患者は外国人なら誰でも差別なく診療し、貧しい人なら金も取らない。そんな誰にでも温かみのある態度が有名人をも引き付けていたのだろう。

アクショーノフさんとマイケル・ジャクソン。アクショーノフさんの私室で撮らせてもらった。


 『無国籍』を読み終えた私はアクショーノフさんにインタビューしたいと思い、彼が経営しているインターナショナルクリニックに連絡してアポを取得した。

 アクショーノフさんは1924年にロシア人の父とドイツ系ロシア人の母の下、ハルビンで生まれた。 彼の両親は白系ロシア人だった。白系ロシア人というのは1917年のロシア革命で共産主義政権に反対してロシア国外に亡命した人たちのことだ。彼は1943年に当時の華族だった津軽義孝(後の常陸宮妃華子の父)に誘われ、来日した。しかし戦争が終わり、日本が負けて満州がなくなると国籍を喪失してしまう。そして今に至るまでどの国の国籍も保有していない。 

 私は彼が国籍を取得していない理由を尋ねた。そしたら彼は野太い調子でこう答えた。「持ちたくないからです。私は裕福で幸せなので、国籍は必要ないのです」そんな彼の言葉を聞いて私は驚いた。今まで自分には当たり前のように国籍が存在してきたように思う。国籍が違うことによって様々な苦しみを体験してきた。韓国か日本かという選択は私を常に葛藤させてきたのだ。そんな自分にとって、国籍は必要ないという彼の言葉は新鮮だった。

 さらに、アクショーノフさんは国籍がないのでパスポートを持っていないが、再入国許可書という外国を行き来できる書類を持っている。外国に行くときはその書類にビザの印章を押してもらって移動するそうだ。

 アクショーノフさんは冷戦時代、東西の陣営争いに巻き込まれて何回かスパイ容疑をかけられたことがある。ソ連に行った時はKGBにスパイ容疑をかけられ、日本ではソ連のスパイと疑われ数日間勾留されたことがある。そんな国家同士の争いに巻き込まれた彼だからこそ、どこの国にも属さない無国籍という状態を自ら選んだのかもしれない。

 世の中には国籍の違いによって引き起こされる様々な悲劇がある。戦争や難民などはそ の最たる例である。しかし、中には国籍がない人もいる。国籍の不備によって外国を往来できなかったり、行政サービスが受けられなかったりする。そういった中で、アクショーノフさんは国籍がなくても自由に活動でき、自分で国籍は必要ないと発言することができる。誰しもが彼のように生きられる訳ではないが、私は彼とのインタビューによって、国籍が当たり前のような社会に生きるという自分の価値観が変わったように思う。

 語弊のないように言っておくが、無国籍という状態は、アクショーノフさんのようにアイデンティティ上自分の利点として捉えられるのは例外中の例外であって、世界が国籍を前提として様々な制度を運用している以上通常は最悪レベルの人権侵害である。ミャンマーのロヒンギャの人々のように国籍を剥奪された上で虐殺されたり、迫害や戦争から逃れて難民となった人たちの中には事実上無国籍状態に置かれた人たちもいる。

 今日のように国籍が前提である社会においては、アクショーノフさんのような存在はとても貴重である。一方で、国籍の違いによって差別を受け虐げられる人々がいる。それらは国籍を前提とする社会が引き起こした弊害でもある。今回のロシアによるウクライナ侵攻と関係して、世界規模で国籍や民族の違いを理由とした暴力や憎しみ合いが発生している。アクショーノフさんのような生き方は、そんな社会制度の下に生きている私達に国籍とは何なのかと問い掛けているようにも思える。なお、アクショーノフさんは2014年に亡くなっている。彼が生きていたら今の世の中についてどう思うだろうか。

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