ヨンゴトナキオク19 2021.1.24

恥ずかしくなんて、なかった

還暦を過ぎて思うのは、これから両親が生きた年月を考えると、人生があと22年ぐらいしかないという期限が現実味を帯びてくるということ。20年ぐらいあっという間に過ぎてしまうような気がするし、1日1日が貴重な残り時間なんだなと思います。

と同時に、今さらながら、自分が生まれた年のほんの15年ぐらい前まで日本が戦争をしていたということに気づかされます。父は大正15年10月の生まれで、終戦の時はまだ18歳でした。大正15年は1926年12月24日までで25日から31日までが昭和元年、年が明けた1927年は昭和2年でした。だから元号でまともに計算して娘たちが「お父さんは今50歳?」なんて聞こうもんなら、「なんでや、まだ48歳や」と怒るので、その意味がさっぱり分からず、いつもその話題でもめていた(笑)気がします。昭和、平成、令和と生きてきてようやくその意味がわかるのです。昭和64年と平成元年、平成31年と令和元年は同い年になるんですよね。

さて、その父は招集されたものの、戦地に出る前の訓練中に終戦を迎えました。軍国主義に染まっていた時代に少年時代を過ごし、戦う気満々で兵隊になったものの、幸か不幸かその機会はなく、食うや食わずの戦後を乗り切り、その後はまったく平凡なサラリーマンとして生きました。とはいえ、今もスーパーに行けば必ずお菓子売り場にあるマーブルチョコの筒型パッケージを成形する機械の設計で会社に認められ、70歳まで現役で仕事をしていましたし、書道や詩吟の趣味では師範を取るまでに努力しました。若い頃は労働運動にも励んだようですが、歳をとるにつれ、保守的な考え方が目立つようになり、妙に勇ましいことを言うので、私はそんな父が嫌でよく噛みついていましたが、お父さんには戦いたかったのにはしごを外されてしまった悔しさから、忸怩たる思いがまだ残っているんだろうと思うことにしました。ただ、晩年ガンを患った父が死の間際、実家の近くに住んで両親の相手をよくしてくれていた妹に、終戦後、訓練をしていた遠方からとにかく家に帰りたい一心で汽車を乗り継ぎながら必死で尼崎の家路に向かったことを話したそうです。それを聞いて、「な~んや、お父さんもやっぱり戦争に行かなくてよかったと思ってたんや」と、少し安心した気持ちにもなりました。

父が戦争に行きかけたこと、母は当時女学校に通っていて戦時中は英語をほどんど勉強できなかったこと、祖母の郷の広島県福山市に疎開し、原爆投下された時も福山にいたという話も家族との団らんの中でしていましたが、まるで昔話のように聞いていました。今思うと、なぜもっとたくさんのことを聞いておかなかったのかなと思います。10代のほとんどを戦中戦後の混乱に生きた両親。3人の娘を育て、老後は自分が建てた家と年金で悠々自適な生活を送っていましたが、父はかねがね日本の高齢化社会を憂いており、65歳で死んでもいいんだと好きなタバコをやめませんでした。ところが肺がんになってから相当じたばたし、最後はピタッとタバコをやめました。いろいろと厳しい父でしたが、最期まで家族には優しさを見せてくれました。

父が残した膨大な書道の筆や半紙に困り果て、ほとんどは書道をたしなむ方々に差し上げました。父が亡くなった3年後、母もあっけなく亡くなってしまい、母の3回忌を終えてから実家は売却しました。

けさ、コーラス仲間のご主人のお父さんのことが朝日新聞の朝刊に載ってるよとLINEが回ってきました。うちも朝日新聞なので早速紙面を開くと、確かに彼女と同じ名前の老紳士が紹介されていました。現在93歳と紹介されていますが、取材は去年だったらしく、現在は94歳なんだそうです。『戦後76年』という連載コーナーで、学徒動員された当時のことを語っておられました。天文学者を目指しながらも勤労動員で農作業を強いられ、終戦後は栄養失調寸前の身体で大阪行きの汽車に乗ったとのこと。そう、みんな終戦ですべての命令から解放され、私の父と同じようにとにかく家路をめざしたのです。その後はエリート銀行員として大阪万博に携わったり海外赴任なども勤められたそうですが、「亡くなった方々のことを思うと自分の人生を生きられて幸せだ」と語っておられます。新聞によると、太平洋戦争による満20歳未満の学度動員は340万人にも及ぶそうです。

1972年1月24日、グアムのジャングルで一人の日本人兵士が見つかるというニュースが日本中を駆け巡ります。横井庄一さん、当時57歳でした。終戦を知らされなかったばっかりに、敵に殺されまいと自給自足の耐乏生活をたった一人で27年近く送っていたのです。彼が日本に帰国した時、「恥ずかしながら生きながらえて帰って参りました」とおっしゃった言葉から、「恥ずかしながら」という言葉が流行語にもなりました。戦死と聞かされながらも息子の生還を祈り続けていたお母さんは、既にお亡くなりになった後だったとか。当時私は12歳で、それこそ戦後の繁栄の中で育っていましたから、どこかよその国のことのような気持ちで受け止めていました。その後、横井庄一さんは結婚し、マスコミに追いかけられながらもグアム時代の経験を生かしたサバイバル生活評論家として全国で講演されたそうです。ただ、1月24日に現地人にたまさか出会わなければ、人知れず歴史の渦に消えていかれたでしょう。近年では「どっこいしょ」にもじって「よっこいしょういち」という言葉の中でも横井さんは生き続けておられます。

コロナ禍の中で毎日のように感染者数が報道され、死者も単なる数字として発表されますが、そのお一人おひとりの人生やご家族との歴史はいつも無視されます。そんな方がもう5000人を超えました。この悲しい数字の重みをどう考えればいいのでしょうか。

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