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名前とソレ

 少しつかみどころのないトンチのような話を書く。方丈記のことを書きたくて、「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず(覚えてなくて調べた)」のあれである。 

 早速中身に入る。河は昨日も今日も同じ河であるが、さて流れている水は昨日と今日とでは全く違う。例えば、新潟には信濃川が流れているが、流れている水は昨日と今日とでは全く違う。中身はまるっきり違うにもかかわらずソレを信濃川と呼び続けるわけである。 

 方丈記ではこの河の説明を京都で例えている。京都は昔と今とで様相が一緒かと思えばそうではなく、火事だとか取り壊したりとかでよく見ると昔からある建物は案外少ない。人も同じで身分の高い人から低い人までいるけれど、かつて大勢いた知人は今は2,3人しかいない。それでこの後「人はどこからやってきて、、」みたいなくだりになるのだがここまでの話を考えていきたい。 

 河と同様に京都も名前こそ一緒だが中身はまるっきり違う。今や天皇も政治機関も東京へ移ったが、それでもソレのことを今も「京都」と呼び続けるわけである。つまり、どこまで変われば呼ぶことをやめるのかということである。言い換えると、どれだけ変わっても同じなのかということでもある。 

 地球は恐竜が繁殖していたときも「地球」と呼び、人間が反映している現代もまた「地球」であるわけである。さて、日本はどれだけ変わると日本ではなくなるのだろうか。それで、話は少し逸れるかもしれないが、坂口安吾の堕落論に「日本人が着物を捨てて洋服を着ようが、それは日本人に変わりない」とここでも似たようなことが書いてあったような気がする。とにかく、この名前とその事物とが乖離しているわけである。 

 例えば、人間は「松」とソレを呼ぶが、ときに梅になり竹になりチューリッブになっているわけである。しかし、それでも松と呼び続けるわけである。 

 こう見ると事物と名前とが馴染んでおらず、名前というものが、人工物であり、恣意的で、人間のひとり相撲のように思える。とにかく外ずらの名称でしかないわけである。 

 人間も例外ではなく10年前と今とでは違い、昨日と今日とでもまた違うわけである。容姿もそれから内面も違うソレを同じ名前で呼び続けるのである。  

 こう考えたときに名前の意味はなにかというとそれはささいな抵抗ではないかと思う。万物すべからく変わる。人はそれをなんとなく分かっているからこそ、永遠(同じところに留まり続けることもそう)とかに憧れを抱く。実際には永遠なんてものはない。しかし、名前にそれを託すことができる。名前というのは永遠のなさへの人間ができる些細な抵抗かもしれない。 

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