美味しいものは誰かと食べるとさらに美味しくなる(エッセイ)
美味しくないものは誰かと食べると少しは美味しくなる?
元々美味しい物は、さらに美味しくなって、美味しくないものは変わらない?
美味しいけど、あと少し何か足りないって言うときには誰かと食べればいい?
愛情も調味料だとしたら、誰かと食べるのも調味料の一種?具体的にはどんな味?
美味しいものを美味しくなさそうに、無表情で食べる人と一緒に食べた時は?
ただ美味しいということを表現しようとしているだけなのに、引っかかってしまうのは、私がひねくれているからだろうか。
自分の中にない発想だから引っかかるのかもしれない。
そういう考え方はしない、のではなく、そういう考えはしたことがないから新たな視点を手に入れたと思えば、何かにひっかかりを持つということはいいことなのかもしれない。
多くの視点を持つことで安易に、常識、非常識を持ち出すことも少なくなるのかもしれない。
家での常識、学校での常識、会社での常識、社会での常識。
細かく区切れば、〇〇内での常識なんて山ほどある。
でもそれが全ての中での常識とは重ならないこともある。
そもそも自分が常識と認識しているだけかもしれない。
常識だ、非常識だ、と口にする時は気をつけた方がいい。
常識だと思っていたことが非常識だということも、非常識だと思っていたことが常識だったということもあり得るのだから。
美味しいものを誰かと食べるとさらに美味しくなる、のは常識という人たちもいるのかもしれないな。
美味しいものを誰かと食べるとさらに美味しくなる、の「誰か」は自分が楽しく食事をできる相手でないと成り立たないということだけは確かだな。
美味しいものを食べた時に、好きな人にも食べさせたいと思うのは私の願望。
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