子どもにとって、先生は、リーダーでも独裁者でもない、ただの人間。【子どもを上から見下ろすな】

2020.2.15. #211 /365日

電車に座って書き出してみる。
今日はひっそりと東京に向かっています。
久しぶりに友人に会いにいきます。
上着を持ってきてないのですが、既に寒くて後悔している素人旅人の米田です。

さて。
最近、短絡的なブログになってしまっています。だから、もう少し深く考えるようなブログにしていきたいなぁと思うのです。

今日は、先日より話している「幸せになる勇気」という本に出てくるテーマ「共感」について体験談とともに話をしていきましょう。


結論。
「相手の立場に限りなく近く想像をして立ってみる」が共感であるというわけです。

例として僕の体験から、話を深めようと思います。今、水泳教えている子どもが数十人といます。ところが、その中には悲しいことに水泳を嫌っている子どもや、練習を嫌う子どもは多くいます。これは仕方ない。

そこで、対策を取らないことがスイミングコーチとしてあるべき姿でしょうか。

アドラー心理学に習い、教育は子どもの自立(水泳を通して)を目標としているとしましょう。そう、僕たちのやるべきことは大きくまとめていくと「子どもの自立」を目標とすること。

だとすれば、

怠けたり、遊んだりする子を叱ってでも練習をさせることが正しい選択だと言えるでしょうか。

確かに、ある人はこう言います。

「お金を払ってくれているのは誰?
保護者でしょ?
叱らないのは、甘えさせるだけだ。
保護者にクレームを言われても仕方がないぞ」

と。間違えていません。

そのとおりです。

僕は、今こう思っています。

「お金を払っていたら、
お金を出している人のクレームに従って
「子どもを叱ってでも練習させること」が
子どものためになるのでしょうか。
本当は子どものために払っているお金ではなく
自分の「子ども像を完成させる」ために
お金を払っているのではないでしょうか」

と。

子どもの気持ちを考えてみたでしょうか。
子どもの立場を考えてみたでしょうか。
子どもの人間関係を考えてみたでしょうか。


簡単にわかった気になってしまうんです。「子どもの考えることはシンプルだ」と。

親も、コーチも、この部分を忘れてしまっていたりします。自分が子どもを支配するリーダーや独裁者のように。


本題の「共感」に話を戻します。

子どもからすれば、こんな独裁者や勝手にいきがってるリーダーは、見ていてどうでしょうか。

「まず、お前、誰?」です。

僕たちは、これに答えられるでしょうか。
「コーチは偉いんだぞ」とでも説明するのでしょうか。
そもそもクラスのリーダーはコーチ(支援者)なんでしたっけ。ましてや、コーチや子どものクラスの主権を握るのは現場に居ない保護者(投資した人)でしたっけ。

子どもに自分の身を重ねて考えてみましょう。

「練習をしてテストに受かるという大きなひとつの目標を目指す上で、遊ぶこと、練習をしないことは悪いことだ!」って、言われたらどう思うか。これ、ただの目標押し付けです。

子どものころに
「〇〇大学に受からなければダメだ」
「走るの遅いお前ににスポーツなんか無理だ」
決めつけられた経験はないでしょうか。

その時、どう思ったでしょうか。

僕たちが、ひとりのコーチの立場にあるとすれば、「共感」はどうあるのがいいのでしょうか。

これが本当にむずいんです。
でも、ここまできたら、だんだんとわかります。クラスをまとめてひとつの塊と考えていて、全員に同じ対応を取ればいいと思っているとうまくいかない。

「私とあなた」「人と人」個人と個人で対応していなかったのです。日々のコーチ業務に慣れてくるとすっかりこのことを忘れてしまうことがあります。

僕も毎日のように、相手の立場に立つことがどれだけ難しいか。コーチの仕事をすればするほど痛感し、ほんとに悩みます。
レッスンという限られた時間の中で、人間と人間として関係を築いていくことの難しさが。

親との関係、周りとの関係、コーチとの関係、あらゆる人間関係に晒された彼らに寄り添って興味を持って話を聞けるでしょうか。

生徒と教育者とは、交友関係だと思った方がいいとアドラー心理学では語られています。
子どもと交友関係にあるとはどういうことでしょうか。

残念ながら、僕にはまだ腑に落ちる答えがありません。

共感をするためには、交友関係を持たなければならないわけです。共感とは、相手の立場に立つという想像力であるとするならば、そこに向けて努力しないといけない。

だとすれば、僕は、彼らを信じて一生懸命に話を聴き向き合うしか方法がないのです。

仕事関係だと割り切って接するコーチに子どもが信頼を寄せることはないと思います。そこに信用を寄せる人が居ても、もはや信頼はしない。

だから、自立することはなく、与えられたことだけやっておけばいいとなる。「コーチが言うならやっておくか」と。

僕たちコーチがやることは、共感という名の信頼を寄せることや関心を寄せることであるというところまではたどり着いた気がします。

まだまだ未完成です。
むしろ、完成することはなさそうです。

僕らは、与えられる人になるために、自立しなければならない。子どもが成長することを子どもに任せて子どもに依存したらダメなんです。

「共感」とは、自らが相手を信頼して、相手に関心を示し続ける態度であり、その先に自分が共感してもらおうという目的は不要なんじゃないかと。

コーチをやっていると、そんなことまで、実戦の中で考えさせられます。

自分の立場と相手の立場があるけれど、いつまでも相手の立場を想像して関心を持ち続けられる友人のように子どもに接することが大切なのかもしれません。

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