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2020/8/8 - 8/21

ひらたから、ほさきさんへ

2020/8/8(土)偶然をのぞきこむ
ものすごく暑い一日でした。
午前中、図書館へ本を返しに行くついでに、近所まで歩いて出かけたところ、帰ってくる頃には汗でどろどろになっていました。毎日水出しのお茶を3リットル作りますが、あっという間になくなってしまいます。

本当なら今日は、20年来の友人の家に泊まりに行く予定でした。ずいぶんと会えていなかったので楽しみにしていたのですが、昨日の夕方に「遠いとはいえない場所でCOVID-19の陽性者が出てしまった」と連絡をもらい、相談のうえ、遊ぶことを断念しました。残念には思いましたが、このことについては誰が悪いというわけでもありません。

COVID-19について、以前よりも感染の可能性を考えるようになりました。最初からそういうものだったはずなのですが、3月~5月の自粛期間中はいまほどの実感はなく、行動の加減もまったくわかっていなかったので、ただただ「望ましいとされている」ほうを選択するほかなかった。予定がなくなったことを残念に思う、といった気持ちよりも、とにもかくにもじっとしていなくては、みたいな気持ちのほうが大きかったのです。振り返ってみると感情がぴたっと止まったようになっていたので、なにかしら麻痺していたのかもしれません。
最近は、主に仕事を理由に、ではありつつも、ときどき都内を移動をするようになりました。そういう生活が定着してくるうちに、「どんなに気を付けていたとしても知らず知らずのうちに感染したり/させてしまったりすることは起こりうるのだ」と思うようになりました。本当は3月の時点でそうだったはずなのですが、そんな風にはまったく考えられていなかったのです。

8月9日(日)真夏っていうかサウナ
煮込み料理を作りつつ(猛暑にいったいどうして…)、長崎新聞の平和公園の地面を配布したサイトを見て、現代に生きるわたしたちが地面の上に立つという行為を通して、75年前やこれからを想像できる良い企画だなと思ったりしていました。ひとりひとりの営みによってより良い社会が形づくられていく。そういう順序をとりたい気持ちがわたしにはあります。

最近ツイッターをあまり見ないようにしているので、ひろしまタイムラインについての賛否は気配で感じるばかりですが、企画が、というよりツイッターというサービスの特性によりフォローはできませんでした。流れてくるツイートに時間をかけて触れるとアカウントは確実に「ひとりの人間」として自分のなかに立ち上がってきます。その人間像に理不尽なことが起こるとわかっていて日々見つめることも、実際にそれが起こる瞬間に立ちあうことも、気持ちのバランスが崩れそうだなと思ったのです。そういった「人間の存在を感じさせる」効果も考えて、ひろしまタイムラインは、ツイッターという場を選んだのではと推測しますが、小さな刺激でもすぐに共振してしまうわたしは簡単に日常が飲み込まれてしまうので、触れるのには少し慎重になります。

広島平和記念資料館で見た、プロジェクションマッピングを利用した爆心地の映像をわたしは忘れられません。体験していない現代の人間が75年前を振り返りながら未来のことを考えるためには、その暴力を与えるとはどういうことなのか、これまでどんな被害が起こってしまったのかを具体的に知る必要があるし、足を運ぶ重要性を改めて思ったりもしていました。

yenさんは長崎の原爆資料館に行ったことがありますか? わたしは広島の資料館には何度か行きましたが、長崎へは行ったことがありません。次いつ旅行ができるのかわかりませんが、行きたいと思ったことを記しておきます。

8月10日(月)外に出ることを諦めました
あつ、あつい。これが猛暑! やめだやめだ! 一歩も外に出ないぞ! と決めて朝から同居人とともに枝豆をむいていました。枝豆って注意しないとあっちこっちに飛ぶんですね。

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お昼ごはんを食べながら、『アンナチュラル』の第七話を見て、そのあとは二次創作のツイッターアカウントから短歌をいまのアカウントへ移す作業をしていました。再掲せず捨ててしまう歌もありましたが、どう変化していったのかを駆け足で追いかけているようでけっこうおもしろいです。いまの日常アカウントより、二次創作専用のアカウントのほうが「いいね」をもらえたり「リツイート」してもらえたりすることが多いのですが、反応を期待して載せるという行為をやめたいと思い、その準備をしゅくしゅくとしています。

皮肉すぎるのですが、自粛期間を経て、わたしは「生活」というものを少しばかり手に入れたような気がしています。毎日帰ってくるころにはへとへとで、夕飯も自分ではとても作れずコンビニのごはんばかり、みたいなことはなくなり、気持ちもすごく安定しました。「生きているのがしんどい」とぼやきながら泣いて眠るみたいなことはぴたっとなくなりました。あれはいったいなんだったんだろう。たびたび起き上がれなくなることがあったのですが、それも随分らくな感じになりました。仕事の時間はいまのほうが長く働いているにもかかわらず、です。
外に出かけるのがそんなにもストレスだったのかな、とか、会社に行くと人の目が気になるから、そういうのもあったのかな、とかいろいろ考えますが、本当のところはわかりません。いまの社会の状況を見ているとけしてこのことを「よかった」とは言えないものの、やっぱりちょっとおかしかったのかな、とは思います。

8月12日(水)~14日(金)夏の風物詩
陶芸をしに行ったら、子どもたちが来ていました。
以前働いていた教室でも、夏休みになると子どもたち向けの体験教室を開いていたので、わりかしこの時期はどこでも見られる景色なのかもしれません。つくるものの制約はあまりないことが多いですが、「なんでもいいよ」「好きなものつくろう」という呼びかけにはけっこう戸惑う子も多かったりします。自分で何を作りたいかを一から考え、形にするのは大人でもむつかしいですもんね。子どもたちが迷いつつも真剣に作品を作っているそばで、わたし自身は引き続き、花器を作っていました。

水曜日からお盆休みに入り、美術館や病院に行きたい気持ちはあったのに、実際はじまってみたら一歩も外に出る気になれず、陶芸に行った以外はほぼほぼ家でじっとしていました。

日々、深刻な問題が流れてきて、そのたびに何かしらを思いますがうまく言葉にならないことも多いです。あなたはなぜ自分の意見をあまり言わないのか、と問い詰められたことがあります。そのときわたしは、言えることは言っている、いい加減なことは言えない、と答えたのですが、単純に言いたくないときもあれば、まだそれを言いあらわす言葉を持たないときもあります。大体は後者のことが多いです。自分の気持ちや意見を表現する言葉を持つことはそれだけで強い何かなのだと思いますが、それは誰しもが得られるものであり、かつ得るべきとされるものなのだろうかと思ったりもします。学ぶ機会が平等に与えられることは重要でありつつも、もし獲得できなかったひとはどうなるのだろう。「努力が足りないだけだ」と言われるのだろうか、などと考えては、なんだか途方もないような、どこにも行けないような、複雑な気持ちになります。


ほさきから、ひらたさんへ

2020/8/15(土)終戦記念日
職場の休憩スペースにはテレビが置いてあり、仕事用の机からも音声を聞くことができるのですが、地震のあったときくらいしかスイッチを入れられることがありません。数少ない例外のひとつが8月15日で、11時45分くらいになると年嵩の上司がそっとやってきてNHKの式典中継を流します。黙とう、黙とう終わり、ご着席くださいという声を聴きながらお弁当を取りに行ったりご飯を食べたりするのがここ数年の常だったので、今年は久しぶりに休日の8月15日だなと思いながらお昼からラジオを流し、午後は『BLの教科書』のイベント配信を聞いていました。
首相の式典あいさつが長崎と広島でほとんど同じという指摘があって、しかし25年ほどさかのぼってみると6割近くは常に重複している、しかし……というTwitterの議論を眺めながら、そもそも政治家の人権意識や歴史認識というものにこれまでどれだけ注意が払われてきただろうと考えていました。もしかしてその代わりに天皇がいたということなのだろうか、などと考えつつ、こういう思考は現実逃避だろうかとも思います。

長崎と広島の原爆資料館には学生時代それぞれ1回ずつ行ったことがありますが(なので広島の資料館へは2回行ったことになります)、長崎の資料館は展示の一番最後、壁面に各国の核施設の場所を示した大きな世界地図があったのが印象に残っています。

2020/8/16(日)
災害級の暑さという言葉におののいて引き続き家で過ごしていました。
暑い時期にラマダンをする人は脱水症予防にヨーグルトを摂るとSNSで見かけて、6月から朝は乳製品や豆腐を摂るようにしています。外出の減少やサーキュレーター導入も相まってか、災害級の暑さにしては体調は悪くなっていない、気がします。
ユリイカ9月号が面白そうなので積読していた文藝のシスターフッド特集をちょっとだけ読み進め、配信最終日だった『刀剣乱舞/灯』を観ました。『二次創作短歌非公式ガイドブック』を作っていた頃にペダステをDVDで見せてもらって以来の2.5次元舞台ですが、舞台脇に講談師を入れたことで歌舞伎っぽさが更に強くなったのではないかなと思いました。役者さんの台詞や殺陣のあとに「よっ、○○屋」という声を飛ばすための余白があるような。
細川ガラシャを演じた七海ひろきさんが発声から何から完全に宝塚で、プロであることだなあとしみじみしました。輪郭をきっちり取った赤い口紅は付けている透明なマスクが曇れば観客にすぐそれとわからせるはずなのに、殆ど曇った印象がない。カーテンコール後のご挨拶が完全に組トップとしてのご挨拶、背中に重たい羽根を背負ったそれに見えたのは私だけではない気がします。

2020/8/17(月)
濃厚接触者としてPCR検査を受けていたおば夫婦が陰性だったと連絡がありました。
東日本大震災直後、放射能について「正しく怖がる」という言い回しがされ、covid-19下の今もそれに近い言い回しをよく見かけますが、あれはつまり「現状を乱さない範囲でなら怖がっても良い」ということだったのだなと今更のように痛感しています。

2020/8/19(水)
梅雨明け以降、薔薇の葉が落ち続けています。この暑さなので無理もないのですが、育てている植物が干からびた葉を落としているのを毎朝確認するという体験は、なかなかインパクトが強いです。駅まで行く道の街路樹は見上げると360度伸ばされた枝の中にそこだけ葉が全部茶色く枯れた枝が混ざっていて、あれはどういう塩梅なのだろうと思います。まんべんなく全体が弱り続けるのでなく、そこだけが一息に枯れる。
薔薇は弱りやすいけれど回復も早いですという薔薇園youtubeの言葉を信じて陽にあてたりしていると、『ポーの一族』「はるかな国の花や小鳥」の、庭の主が世話を止めた途端に枯れる(だろうとされた)薔薇のことを思いだします。現実の薔薇は随分違う、けれど。

自粛期間を経て手に入れた「生活」は、わたしにとって恐らく園芸や植物なのだと思いますが、「生活」というのは少し怖くて頭の中でいろいろ保留にしている気がします。なんというか、肉体に近い気がする。とはいえ日々振り回されていた色々なものが少し遠くなったのは確かです。仕事とか、自意識とか、covid-19の影響でなくなってしまったものとか。

帰宅してひねった蛇口から出るお湯が水に変わるまでの時間が、今日はいつもより少し短かった気がします。

2020/8/20、と21(木・金
ひろしまタイムラインに村岡花子のインタビュー(?)記事が出てきて驚きました。赤毛のアンを翻訳した村岡氏(及び当時のフェミニストの多く)が戦時体制に協力的だったということは、彼女がNHKの連続テレビ小説の主人公になったときに知ったのだと思いますが、敗戦から間もないタイミングで日本の女性たちに新聞で談話を出すような位置づけの人だったとは思っていませんでした。
4月に有さんとtwicasで朗読をしたことがありましたが、あのあとしばらく、次に朗読するなら……と各種テキストを物色していたことがあり、その中に片山廣子のエッセイ「燈火節」の幾つかがありました。片山氏は村岡氏にとって女学校の先輩にあたります。

お花やお茶の先生も、洋裁も、玉子を売ることも愉しいだらう。洗濯婦になることも勇ましく気持が好いだらう。何かしら仕事をして、人におんぶしない生活をしてゆきたい。そして何よりも先づ私たちの詠歎を捨てて行かう。しかし考へてみると、この短文が全部一つの詠歎であるかも知れない。もし、さうだとしたら、ごめんなさい。(片山廣子「ばらの花五つ」昭和26年)

「燈火節」で折に触れ現れる、生活のための新しい仕事というものに自分もまた取り組むのだといった気概は、こうしてみると村岡の、自分達女性は戦時中は男子に伍して働いていたのだからかよわい女性は過去のものになったのだという主張と、なんだかうっすらリンクしている気がします。

(8/21 ……と、20日に書いていたのですが、その後ひろしまタイムラインに「朝鮮人」へのヘイトスピーチが投稿されたという指摘が出ました。事の経緯説明がされていないので今はメモに留めておきます。
ちなみにNHKのテレビ小説における村岡氏は戦時体制に批判的な人物です。テレビ小説のヒロインの多くは戦時体制に批判的なヒューマニストとして描かれており、ほぼ唯一の例外が「ごちそうさん」だというtweetを読んだことがあります。戦争を知らない世代が主人公に感情移入するためのよくあるギミック、といえばそうなのですが……)

そういえば今日はアイナナ5周年の日でもありましたね。
環さんが意外に大人っぽいキャラに見えたのと、プリンのキャラを自分のサインに取り入れてるのにびっくりしました。他企業のゆるキャラをサインに使うのは問題ないのだろうか……。(コラボされてるのだろうか)

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