見出し画像

2020/9/5 - 9/18

ひらたから、ほさきさんへ

2020/9/5(土)
幼いころ、注文住宅や、マンションの折込チラシを見るのが大好きでした。
大人になっても新築、中古関わらず、家という空間そのものが好きで、不動産について調べれば調べるほど、わたしには手の届かないものだなあ、ということはわかるのですが、なかなか諦めがつかないというか、夢は広がるばかりなので、部屋の壁の一部を異なる色にする「アクセントクロス」なるものを導入したいと考えています。ここいらでちょっと自分の気持ちを満たしておいたほうがいい、手に入らないものをずっと夢想しつづけるのは、わたしにとってそんなに良いことでもないだろう、と思ったのもあります。
まだ問い合わせをしてみただけで、施工の日取りも決まっていないのに、いそいそと部屋のレイアウトも変えました。完了したら元に戻すつもりだったのですがデスクを窓のほうへ向けたら、すごく明るくなって調子が良いです。
何百種類という壁紙のサンプルを眺めてうっとりしている時間はたのしいですが、いい加減どれにするかを決めなくては。うさぎはなにに対しても「これにしよ」と言うのであまり参考になりません。

2020/9/7(月)
終日不安定な天気で、油断して傘を持たずに出かけたところ、スコールってこんなかんじかしらと思う雨に降られました。台風のことを考えながら、古くからある風情のお寿司屋さんの軒先で雨宿りをしていたら、店主の方が「中入ったら」と言ってくれたのですが、ちょうど止み始めたところだったので、断って、小走りで家に帰りました。

仕事でかかわっている、少し上の世代のひとと、ある一定の立場になった人間が引き受けるしかない役割について話していました。謙虚なのは良いことですが、立場に紐づいた役割を引き受けないことで若い世代の仕事をうっかり増やしてしまう、というような。仕事の場面に限らないのですが、その加減は訓練しないと身につかないのではないか、と思ったりもします。たいていの場合は失敗しながら学んでいくものですが、立場の変化に気づき、引き受けられるならまだよくて、立場が変わっていることに気づかないまま、いつまでも丸裸の弱いままの存在だと思ってしまうのもよくないのでしょう。えらい立場のひとにそれをわかってほしい場面もある、というような文脈で出てきた話題ですが、自分自身の年齢も上がっていくなかで、さまざまな場面で適切な距離や引き受け方、みたいなものは出てくるのでしょうね。

2020/09/08(火)
先日亡くなったデヴィッド・グレーバーの「ブルシット・ジョブ」を毎日少しずつ読んでいます。ちょうど読み始めたばかりでの訃報だったので、言葉がありません。

インターネットという技術にわたしはこれまで随分と助けられ、結果としてインターネットに近しい場所で職を得て10年とちょっとになります(途中、二足の草鞋をはいていた時期もありましたが)。いわゆるお客さんと直接やり取りするような仕事からは退いて、いまは裏方として働くばかりですが、そうすることにしたのは、ものを消費させるためにいたずらに人の感情を煽ったり、ときに恐怖を与えたり、過剰な刺激を与えるというようなことをしたくないと思ってしまった。あれやこれやと理由を考えても、結局はそこなんだろう。そういう広告手法はインターネット上にあふれていて、この業界にいる以上は直接的にせよ、間接的にせよ、まったく関わらないのはむつかしいのではないかとも思っています。
わたしはインターネットをさまざまな制約(距離や、機会の格差といったもの)を取り払うものだと思ってきました。つまり「善いもの」だと思って関わってきましたし、「善いもの」であってほしい、という気持ちがあるのだと思います。ですが、近年、SNSにせよ、各種クラウドサービスにせよ、本当にひとびとを「しあわせ」にしているものがどれだけあるだろう。もちろん、継続的に利用していて、便利! 助かってる! と思っているものは確かにあります。月経周期やPMSなどを管理してくれるClueもそのひとつです。
ただ、もし、作ったプロダクトやサービスが、本当の意味で社会や個人の問題を解決し、ひとびとをしあわせにするものでないのなら、それは作った側としては提供しつづけるべきかを考えなくてはならないのではないか。民間企業として営利を求めるのは当然ですし、ニーズがなければ自然淘汰される、などともいわれますが、儲かるからといって、差別的な言説を放置する、ましてや差別的な発言のほうを守るような姿勢はサービスの在り方としては批判されてしかるべきだろうと思っています(そういう状態が「儲かる」のだとしたら大変かなしいことでもあります)。

そういう意味でいうと、下記のように、noteが規約や機能をアップデートすることで、企業としてどこを見ているのか、このサービスはどこを目指すのかを示してくれるのは安心します。

何かが起こってしまったとき、起こる前には戻れない。予想しきれなかった場合も当然あるでしょう。問題はそのあとで、あなたがた企業はどこを目指しますか、という問いかけの話なのだとも思います。そしてわたし自身、一利用者として「わたしはなぜこのサービスを使うのか」を考えていく必要はあるのでしょう。みんながみんな考えろ、というわけではなく、できるひとはやったほうがいいでしょうね、というくらいのものだとは思いますが、それでも。
yenさんのおっしゃっていた「好きだったコンテンツが関係者の発言などで好きになれなくなった時に少し似ている」というのとも、重なる部分があるのではないかとも思っていました。わたし自身、「関係者の発言」により手放さなくてはならなかった「好きなもの」はたくさんある。そして、「サービス運営企業の姿勢」に賛同できず、離れつつあるものもあります。

2020/09/10(木)
朝は晴れていたのに、昼前から曇り。
過去に作った短歌を楽しんでもらえている便りをもらい、うれしくなっていました。わたしはいま短歌をつくっていませんが、作品は何かしらのきっかけで泳いでいってくれることがある。

ふと、失敗を恐れる青年の代わりに問い合わせのメールを書いている時間よりも、ベーコンを冷凍するためにちょうど良いサイズに切っている時間のほうがよほど有意義ではないか、と思う瞬間がありました。最近、朝起きたら居間や自室のものを一通り定位置に戻す時間を作っていて、わたし自身としてはけっこう、いや、相当楽しんでやっているのですが、この楽しさや、自分が思っている「価値」のようなものはなかなか伝わらないのだなあと思います。働く場において、ベーコンを切っている瞬間や、荒れた部屋を整えることの有意義さは、けして理解されない。「ご自身で聞いていただいていいんですよ」と言いたいのを我慢してメールを送っている時間よりも、何倍もわたしにとっては良い時間なのですが。

ほさきから、ひらたさんへ

2020/9/12(土)
少しずつ涼しくなってきたのでパジャマ屋さんでパジャマを買いました。もしかしてちゃんとしたパジャマを着て寝るとにんげんは幸せになれるのでは……? とは前から思っていたのですが、よく眠れている気がします。
身の回りの、既にある品をちょっといいものにする時、「お前にはこの程度がお似合いだ」と自分に言う自分、に気づく気がします。自分でも自覚していなかったその言葉の積み重ねに削られていたものはやっぱりあって、けれど何を自分が欲していたのかは手を動かしてみないとわからない。
ウォールステッカーにさえ挫折したのでインテリアの大規模変更には常に及び腰なのですが、とはいえ先日行ったミッフィー展で壁に貼る用の大きい手ぬぐいとか買えばよかったかな……とは、展示から帰った後ちょっと思いました。ポストカードだけ買いましたが、ブルーナ・イエローは部屋の中をとても明るく照らしてくれます。

2020/9/14(月)
来年の文学フリマ京都、広島の申し込み案内のメールがきているのに気づきました。
若干日付が前後してしまいましたが『記憶/物語』(岡真理)を読み終えました。ひろしまタイムラインの問題を考えるための本としてMさんが紹介してくれた本です。バルザックの小説からスピルバーグの『プライベート・ライアン』、是枝裕和の『ワンダフルライフ』まで、誰かの記憶や歴史をそっくりそのまま再現しよう・再現できるはずだという欲望、と、そこからどうしても零れ落ちるものについて、何かを論じるというよりは考え続ける著者の思考に並走していくような本だったなと思います。2000年刊行ですが従軍慰安婦に関する証言への否認主義についても言及されており、読みながら何度か刊行年を確かめました。

起きたことをそっくりそのまま再現しようという欲望、という意味では@eva.storiesを思い出しつつ(恐らくあれは「シンドラーのリスト」と並べて論じられるべきものなのだろう、と読みながら思いました。そして再現、共有という意味ではひろしまタイムラインはtweet作成をした関係者の体験はまだしも、各アカウントの一フォロワーとしてはやはり良くも悪くも、あれらの水準には達していないように思える。ならば8月6日のタイムラインに走った動揺、そして各アカウントに話しかけている人たちのいる状況は何の欲望と絡んでいるのだろう)、語りから零れ落ちるものという意味では#metooのことを思い出したりもしました。あのタグとそこから展開した諸々にわたしは勇気づけられたけれど、声を上げられない・上げなかったことに罪悪感を持つ必要はないとは繰り返し言われていたし、一度だけ行ったフラワーデモはとても「タフ」な場でした。
何かを発信する際の倫理観はもちろん重要だけど受け止める側の倫理の方が意識化しづらくむしろ恐ろしい、という気がずっとしています。

大坂なおみ選手優勝のニュースと併せ流れてきた、彼女が今年7月に書いた文章がとてもすてきでした。

I’ve accepted myself as just me: Naomi Osaka.
   (I Never Would've Imagined Writing This Two Years Ago より)

2020/09/15(火) 
上の句と下の句をマッチングするhook2hook(ホック・トゥー・ホック)で遊んでいます。そこに句があるので句をつけてしまう……。
そこに下の句があるから上の句を、というのはかつて有さんが書かれていた「すばらしい瞬間に、偶発的に立ち会う」というのとは随分ベクトルが違うなと思います。すばらしい瞬間がそこにあってもわたしはそれを尽く見逃してしまう気がする、でも付け句や折句は作れる……それだけのことを、けれど手持ちの鉛筆を削り続けるように、意外と頼りにしてきた気もします。
それはそれとして「一つの言葉から連鎖的にいろんな解釈や情景が生まれるなら、この短歌道に必要な要素は縦書きや和風フォントじゃなくて「UGC化、シェア、可視化」」という開発者さんの言葉は実にプログラマーぽいなあと思います。

2020/09/16~17(木)
プリンタニア・ニッポン」1巻の発売を祝っておはぎと大福(=もちーんとした食べ物)を買いに行ったら駅ビルのお菓子屋さんは既にハロウィンの準備を始めていました。ハロウィンが終わったら次はクリスマスか、と思うとちょっと呆然とします。一年が、終わる……?

役者の石井一考さんが出演される劇のコメントがあんまり差別的でぐんにょりしていました。演出家の謝罪とともに公式ページのコメントは差し替えられましたが、一度見てしまったものは忘れられない。
演劇や音楽のオフラインでの表現活動が厳しい現状、コメントのことさえなければ心から応援していたのに(かなりの頻度で見に行く演出家さんです)、というところで思考が止まっている気がします。その一方でネットの誰かのコメントを見ていると作品や演出家について擁護したくなる自分もいて、なるほどこれが引き裂かれるというやつか、と思ったり。
たぶんまだ、これで終わりではないはずだと信じているのでしょう。

hook2hookで上の句を付けた歌が下の句作成者さんに届いていました。いろいろ素敵な偶然が重なっていたようで良かった。このくらいの距離感が心地いいんだろうな、と思います。

2020/09/18(金)
夏バテで葉を落としていた薔薇はどうにか二つ蕾を付けてほっとしていたのですが、今朝見たら片方が綻びだしていました。たぶん今週末に二輪とも咲くでしょう。
夜、ミントの剪定を兼ねて伸びた茎をひたすら切っては葉をむしっていました。作業中はあまりミントの香りを感じなかったのですが、ご飯茶碗いっぱいにミントの葉が溜まる頃にはパンパンだった身体が結構すっきりしていました。葉っぱは瓶に入れて塩漬けにしました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?