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2020/10/17 - 10/30

ひらたから、ほさきさんへ

2020/10/17(土)
朝からぐずぐずとした天気で、やるべきことはあったのにぐったりとしていました。yenさんは今日、歌の公演でしたね。伺えずにすみません。次の公演には伺いたいので、また予定を教えてください。

最近、友人が『Sky:Children of the Light』というゲームに誘ってくれてやってみています。

ネタバレになってしまうので、あまり詳しいことは書けないのですが、雲の中の王国で、星の子どもとなり、空から落ちた星々を天に還すゲームです。

オンラインで世界中からアクセスでき、ユーザー同士のコミュニケーションは主にエモートとよばれるジェスチャーで行われます(フレンドになったり、特定の場所ではチャットでのコミュニケーションもできます)。
そのエモートは7つの空間に点在している精霊を見つけ出し、神殿に行くことで開放されます。頭を下げたり、手を振ったり、倒立したり、投げキスをしたり。種類は多様です。精霊はかつて王国に住んでいたひとびとであるようにもとれるのですが、ゲームを貫く物語が言葉によっては語られないので、細かい解釈はユーザーにゆだねられています。

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ゲームのコンセプトには「他者への思いやり」が据えられており、星の子は基本的に弱い存在のままなので、他者と協力することが求められます。そういった世界観の影響もあるのか、初心者が困っていると、周りが手助けを行う場面によく遭遇します。わたしもうまく飛べずに困っていたところを手を引いて飛んでもらったり、先導してもらったり、ということがありました。飛ぶためにはつばさのエネルギーが必要なのですが、ユーザー同士でエネルギー回復のために炎を分け合う、といった場面もよく見かけます。

ひとが行きかう場のデザインがどう作られているかを意識するとき、そぐわない行動を選択するユーザーはどこへいくんだろう、といったことをよく考えます。考えるきっかけは会社であったり、何かしらのコミュニティであったり、こうしてゲームであったりするわけですが、正しくない、規範通りでない、とされるひとはどこにもいますし――わたし自身、これまで所属してきた集団において大体は正しくないひとでした――そういったひとを受け入れる余地があったほうがいいと思うので、ついつい考えこんでしまいます。それは他者を受け入れる話をしているようで、「わたしはどこになら座れるのだろう」ということを考えているのです。わたしがはじかれなければ、誰かがはじかれ、またその逆のこともあった。個人的な付き合い方のテクニックの話ではなく、在り方の話として、考えずにはいられません。

そしてそういう意味でいうと『Sky』でわたしは、ただ存在することができます。「他者への思いやり」というテーマは必ずしも「助け合い」に集約されるものではありません。
存在しつづける。ただそこに在る。それだけのことが、現実ではどうしてこんなに困難を伴うのだろう。ゲームをやりながら、そんな風に思っていました。

2020/10/18(日)
昨日とはうってかわって晴れていましたね。
朝から中曽根元総理の合同葬儀の警備体制についての映像や写真を見かけ、以前においてもそうだったのか、今回がよりいっそうそうなのかはわからないですが、なかなか異様な光景のように思えました。
どんな種類の欲望を、考えを、思想を持っているかどうかは表出しなければ永遠にわからないことではありますが、要請がなされることで、その通りに表出させないひとは内心を暴かれざるを得ません。それゆえにすべきでない要請は確かに存在する。弔意表明を求める通知はそういった種類のものではないか、と思います。
今後よりいっそう表現も言論も、制限されていくかもしれない、その気配をひしひしと感じています。こうしてインターネットに自由な文章を書けるのもいつまでだろう。今であっても、個人として「書けない/書かない」ことはあるわけですが、自由意思により様々な検討がなされて表出する/しない言葉、という在り方をいつまで維持できるのだろう。法にふれるから、あるいは権力者にとって都合が良くないから、といったたぐいの理由で――誰かの権利を侵している可能性があるとき、様々な検討のすえ取りやめるのではなく――表現を控えさせられるようなことがあっていいはずがありません。そして、外からの要請は確かに存在しているにもかかわらず自らが選んだ、といったといった形に落とし込まれてしまうのもよくはありません。

前回の交換日記での話題を考えていますが、表現されていないものを捉えるのはむつかしく、いつだって表現されたものしか判断はできない、それはそうだろうと思うし、欲望を持つこと自体を罪だと問うのはむつかしい、とわたし自身は思います。欲望は生きていくうえであったほうがいいものだとも思っています。
でありながら、やはりその作品や表現が生まれた前提を、そして生み出されたきっかけを、社会に存在している事実や、現象もあわせて注意深く見、話すほかないのだ、と思ったりします。以前はもう少し……なんていうんでしょうね、他者への期待があったように思います。最近は「その場で伝わりきらなくてもいい」と思うようになったためか、逆に、身近な、それこそ仕事でかかわるようなひとに、ジェンダーギャップや、マイノリティに関すること、性暴力などについて話すことが増えました。
問題を認識していないひとに伝えるのはなかなかどうしてむつかしい。
でも、いまこういう問題があるんですよ、と語る回数を重ねることで問題の存在を認識してもらうことはできます。この方法をとるようになってから、本当にときどきではありますが、受け取ってもらえた、と思える瞬間があります。

2020/10/19(月)
雨が降っています。厚い雲の影響で一日中暗かった。
あと1か月くらいは猶予があるはずなのですが、冬がいよいよ近づいてきましたね。今年も冬をうまく越えていきたい。東京の冬くらいで大げさな、ときっともっと寒い地方に住むひとには言われてしまいそうですが、暖かいところで生まれ育った故に、冬支度がいまだによくわかっていないのです。

コロナ禍をテーマに、世界各国の詩人の作品を集めて作られたアンソロジー『地球にステイ!』を読んでいました。

愛、
優しくすること。

自分の前提を確かめること。
彼らの前提を確かめること。

息をすること。
緊急の際にはガラスを割ってください。

踊ることで楽になれるかどうか試してみること。
できれば事前に。

サッカーについて尋ねること。
彼らの死んだペットについて。
彼らの叔母についても。

くそったれが。
君はどうだっていいと思っている。

でも彼らは違う。
訊いてごらん。

「Covid-19に関する規制」マイケル・ブレナン より引用
地球にステイ!多国籍アンソロジー刺繍』四元康祐・編

詩について、いよいよわたしは語る言葉をもてなくなりました。読んでなにごとかを感じてはいますが、あまり、これこれこうで、と語れはしません。それでも、ごくごく個人的な営みとして今後も手に取りたい。詩人の聞いた音が、見た色が、うつしとった景色が、さまざまな手触りの断片が、少しでも手元に残ったなら、と思っています。

2020/10/21(水)
友人に誘われて、国立新美術館へ『MANGA都市TOKYO ニッポンのマンガ・アニメ・ゲーム・特撮2020』を見に行ってきました。

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アニメーションや漫画のなかにでてくる東京の表象を、ジオラマと、実際の作品の生原稿やセル画、設定画などにより浮き上がらせるものです。予約制だったので混雑はしておらず、比較的ゆっくり見られたはずなのですが、久しぶりの外出に人酔いして、休憩スペースでぐったりしていました。
これまで描かれてきた数多の東京のイメージは、自分の見てきた東京とあまり重ならず、ああこれは幻想の部分もあるのか、と感じたりもしました。そしてそれはわたしが若いころに抱いていた憧れとなら、重なり合うようにも思いました。
展示を見たあとに友人と話していて気付いたのですが、「東京に憧れる」ということ自体が、関東に生まれ育ったひとには不思議なものに思える場合もあるようです。「東京をすごいって思ったことないよ」。そう話すことに悪意はなくとも、その発言がどうしたって生むものを(うまい表現がみつからないのですが)、そして東京に、確かにある豊かさのことを、どう伝えていいかわかりませんでした。

2020/10/22(木)
『sky』は今日からハロウィンパーティ開催らしいので、いまからそわそわしています。なんと、かぼちゃを星の子にかぶせることができるようです。いま着せているケープがちょうどかぼちゃ色なので、組み合わせるのがたのしみです。
今回のアイテムは有料で手に入れられるものもあるのですが、友人と「かわいいけどなかなかのおねだん!」「でもガチャじゃないだけ良心的ともいえる」「それな」と謎の会話をしたりしました。これは「実質タダ!」と言い出すまであと少しなのでは、ゴクリ。

2020/10/23(金)
朝から雨が降っています。秋ってこんなに雨が降るものだったでしょうか。梅雨みたいに降り続く雨。

かぼちゃを試着できたのでご機嫌でかぶっていました。

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『sky』をやっていると、未来だわ……とへんに感じ入ってしまいます。
アバターと呼ばれる自分の身代わりを電脳の世界で走り回らせ、そしてネットワークの向こうにいるひととコミュニケーションをとる。ざっくりとした構造自体は初期のインターネットから代わりないと感じますが、モバイル端末でそういった仮想空間にアクセスできるようになったんだと改めて。

特定のゲーム機ではなくモバイル端末で配信されているのは、開発側がゲーマーに限らない、より幅広いユーザーに楽しんでほしいと思っているからなんだそうです。そして星の子の、性別や人種や、そういったものを示す情報をかぎりなくそぎ落としたデザインは、すでにもっているバイアスと結びついてネガティブな感情を想起させないよう、かなり検討を重ねて決められているようです。それは現実には属性による差別や偏見が存在している、ということでもあるのですが、この空間にくれば理不尽な差別や偏見からは少しだけ遠ざかり、ただひとりとして楽しむことができるようにも思います。

ほさきから、ひらたさんへ

2020/10/24(土)
野田秀樹版「真夏の夜の夢」を観てきました。
初日が10月15日なのですが、ルーマニアの演出家は9月半ばに来日、経過観察期間を経て稽古に合流したとあり、ということは稽古、は……と配布されたパンフレットを読んで青ざめていました。スクリーン投影を多用する演出だったので、音響・美術も大変だったのではないかと思います。ちなみに観客席は一つあけでした。
舞台は東欧っぽい演出だなあ、と思いました。いや何が、と言われると大変困るのですが、悪夢めいた森の様子や結婚式の花嫁衣裳などからそう思ったのだと思います。わたしがそう思ったように、蜷川幸雄演出による「真夏の夜の夢」も、欧米ではなるほど日本らしいと思われるのでしょうか。
オリジナルキャラクターが投入された野田版はストーリーもシェイクスピアの原作とは特に後半がかなり異なるのですが、口にせず飲み込んだ言葉が森を燃やし、けれど物語の言葉が森を救うというラストは、いっそ拍子抜けするほどシンプルだなと思いました。恐らくこれは言葉というものに対するわたしの信頼度が、かつてより低くなっているからだと思います。
もともと好きな台詞ではありますが、恋人たちが夢から覚めた後、妖精パックの口上が、しんとした舞台の後景から結婚式の衣装で歩いてくる役者達によってリレーされていくのはとても美しかった。

われら役者は影法師、皆様方のお目がもし
お気に召さずばただ夢を、見たと思ってお許しを。 
つたない芝居でありますが、夢に過ぎないものですが、
皆様がたが大目に見、お咎めなくば身の励み。
(中略)
皆様お手を願います、パックがお礼を申します。             (シェイクスピア「真夏の夜の夢」小田島雄志訳)

最寄り駅のお店が閉まっているのでおやと思ったら、コロナ陽性者が出たため数日間休むとの張り紙が出ていました。

2020/10/25(日)
いつも淡々としている整体師さんに「これまでになく全身ばきばきですけど一体何したんですか!?」と言われました。何をしたんでしょうね……。

職場に行く際も大ぶりのピアスをするのが習慣だったのですが、マスク生活の始まりに伴いつけるのをやめています。とはいえ何もないのも何だかなあとはずっと思っていて、ついにイヤーカフを買いました。ピアスと違って髪を下ろすと見えなくなるのですが、慣れてきたらもう少し大きいものを買ってもいいかもしれません(というかサイズ的にその方が良かった)。そういえば耳のつぼを刺激するピアスに見える何かって昔よく雑誌広告で見た気がします。
ついでなのでピアスも一緒につけてみました。ピアスをつけた自分の顔を、なんだかとても久しぶりに見ました。

2020/10/26(月)
目が覚めたら「東京BABYLON」(が来年アニメリメイクされるというニュース)が大変なことになっていました。
あの頃と今では「東京」の位置づけが変わった、という趣旨のことを色んな人がtweetしているので、有さんが行かれた「MANGA都市TOKYO」のサイトを覗いてみました。漫画やアニメが中心ということは戦後あるいは未来の東京が中心なのかなと思っていたのですが、展示紹介に「はいからさんが通る」があって驚きました。関東大震災の描写があるからでしょうか。

昔いた職場は毎年春になると地方支社から出向者がたくさんやってくるので、働きだしたばかりのわたしは歓迎会などで少し年配の彼らの「お国自慢」を聞くのが好きでした。数年で地元に帰る彼らの多くにとって東京とは「楽しいけれど長く住むには適切ではない場所」で、けれどだからこそ、忙しい仕事の合間、わたしも知らないような場所へあちこち出かけているようでした。
過ごした時間こそ長いものの、東京、またはその中の特定地域に自分が属しているという感覚は、今も昔もわたしの中では薄いように思います。これはこれで問題なのでしょうが、それさえ実感が薄い。語れる言葉の少ない分、『東京』については耳を傾けるしかないのだろう、と思っています。

2020/10/28(水)
なんだか縦になりにくい、と思っていたらまた小さい台風ができていたようです。
ぺス山ポピー「女(ルビは「じぶん」)の体をゆるすまで」第五話を読みました。作者が過去に受けたセクハラの記憶とその影響を受けたジェンダー・アイデンティティ含む自己認識に対峙していくエッセイ漫画……という分類になるのかなと思います。
かつて経験したセクハラについて訴訟を起こしたらどうなるか尋ねた主人公に、弁護士は、七年前なら勝てなかったけれど今同じ訴えをしたら勝てるだろう、なぜならここ数年で社会通念がとても変化したから……と答えて主人公はとても驚きます。この驚きは分かる、気がします。metooがSNSで盛り上がり自分や友人たちの価値観が過去のそれから変化していると感じても、時折これらの「ムーブメント」はすべて液晶の中、あるいは遠い国の出来事のように感じることがあります。もちろんネットの向こうには現実の誰かが存在しているわけですが……。
七年、というのに共有結晶のことを思い出しました。2018年に頒布された共有結晶4号は創刊号から7年目に刊行されました。セクハラの訴えで裁判に勝てなかった時代に創刊号が作られ、勝てるようになってきた時代に作られたのが4号だと思うと、色々と腑に落ちるものがあります。

でも7年前のぺス山さんはほぼ助からなかったわけだよね。
    ぺス山ぺス子「女の体をゆるすまで」第五話 より

2020/10/29(木)
『Sky』の有さん(という表現でいいんでしょうか……)がかぼちゃを被っているのをうさぎがたいそう羨ましがっていたので、お菓子屋さんでかぼちゃの形の巾着を買いました。袋の口に嵌まったうさぎは嬉々として、かぼちゃ大王うさぎを名乗っています。被ってない……。
毎年11月末に開催の文学フリマ東京の存在感が今年は例年に比べ薄く、そのせいもあってかクリスマスケーキやお節の予約ポスター等、年末年始に向けての情報が妙に目に入ります。

アクションゲームの操作能力はからきしなので『Sky』の世界にわたしが行くのは厳しそうですが、ゲーム動画をいくつか見ました。風や虫の音が心地よいのと、自分以外のキャラクターは炎を分け合わないと(?)みんな同じ姿をした、幽霊のような灰色の影に見えるのが印象的でした。楽器も演奏できるんですね。
言葉でなくジェスチャーで交流する、という世界観説明に、野田秀樹の戯曲『赤鬼』を思い出していました。実際のゲーム動画を見て『Sky』とはかなり違うなと思いましたが、言葉の通じない他者と交流する話です。言葉がわからなかった頃の方がお前と通じ合えた気がする、そんな科白があります。

通勤中、話題になっていたノンバイナリー、一人称『they』を使用する海外芸能人のインタビュー記事の日本語訳を読んでいました。本人のキャラクターや実際の発言がわからないままでの感想になりますが、一部にいわゆる女言葉の語尾を入れる感じが個人的にはちょっと……かなり微妙でした。わたし自身のバイアスが影響している可能性もありますし、新しい一人称を前例とした翻訳なので担当の方も苦慮されただろうとは思うのですが。
こうした試行錯誤の先にノンバイナリ―対応の文体なり手法なりが発明されるのだろうかとも考えましたが、むしろ翻訳等における女言葉の在り方について改めて見直される方が先、あるいは同時並行で進んでいくのかもしれないと思いました。その結果としてノンバイナリー的な文体・手法がデフォルトに……いや、翻訳でない日本語表現においても、既に一部はそうした方向へ進んでいるのではないか。――と書いていて気づきましたが、ノンバイナリー的、という名の固有の何かを想定するのもあまり良くないですね。ただ、今までの方法を見直すべきなのは確かです。
コスメブランドのLUSHが商品名の大幅見直しをしたり、言葉におけるダイバーシティの取組は面白いなと思いつつ、この先どこまで行くのだろう、行けるのだろうと思います。

閉店間際のパン屋さんで買ったパンが思いがけず温かくて、両手で紙袋を抱えたまま帰りました。

2020/10/30(金)
急にまたぐっと冷え込んできたので、今後のベランダでの水やりにあたり防寒をどうしようか考え中です。各地の薔薇園は今が秋薔薇のピークのようですが、育てている薔薇は小さい蕾をあとひとつ残すのみです。

頼むから日本語をこれ以上痛めつけないでいただきたい。
日本学術会議の任命拒否に関する上代文学会の声明、最後の言葉にしばらく立ち止まってしまいました。多くの人が指摘していますが学術会議の件も大阪都構想の件も、たとえ嘘でもあいつらは敵だと大声で叫び続けることで勝とうとする、そしてその戦略がある程度有効さを示しているという点では同じと言えます。
持っている知識や技術に基づき自らの職責を誠実に果たそうとする人たちが、大声をあげられる人たちによって不当に虐げられるのを目の当たりにするのは辛く恐ろしい。日本語を痛めつける、ことによって日本語、言葉に結び付いたもの達もまた痛めつけられている。

少し前に香港の周庭(アグネス・チョウ)が、今の香港人は批判的意見を言えば犯罪になるんじゃないか、外国語で発信すれば「外国勢力と結託」で逮捕されるんじゃないかといった恐怖感があるのだとtweetしていました。口は自由ではないが自分の心は自由だとtweetは続いており、それは彼女の置かれた立場的にも正しいのですが、だからこそ、その逆の事例も多く存在することを思わずにはいられませんでした。痛めつけられ折れた心は口を、体を殺してしまうことさえある。

心と言葉、心と声、心と呼吸、呼吸と体と、それぞれ密接に繋がりあっているのだということは、マスクをしつづける日々の中、改めて感じたことのひとつです。そろそろ二週間が経過し、ひとまず今年の公演は感染者なしで無事終了ということになるのかな、と思います。


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