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2020/10/3 - 10/16

ひらたから、ほさきさんへ

2020/10/3(土)
今週は終盤に近づけば近づくほど、思考をうまく整理できなくなり(ちやほやウィーク大正解ですよ!)、「やる気がオプソヨ~」とうだうだ言いながら家の整理整頓をずっとやっていました。7年くらい前からK-popに触れるようになり、日常に簡単な韓国語が挟まるようになりました。オプソヨは「ありません」という意味だそうです。
……話が反れました。そう、それで整理整頓の話です。
身体を動かしているほうが楽な瞬間があり、そういうときはだいたい掃除や整理整頓をしながら無になっていることが多いです。
今日は長年押し入れに放り込んでいた荷物を引っ張り出し、いる/いらないと分別する作業をしていたのですが、思考を書きつけてきたノートや手帳の類を捨てるのはなかなかどうしてむつかしい。仕事でただメモしていたようなものもあるのに、「こんなこと考えていたんだな」とつい眺めてしまいます。過去をそんな風に持ち続けることが良いのかわからないのですが。
すでにわたしは手帳を使わなくなっていて、予定管理はデジタルに移行して久しいですが、デジタルでは過去を振り返る必要性を思わなかったりもして、行動自体が変化していると感じます。

2020/10/4(日)
引き続き一日やる気が出ず、『半沢直樹』の前シーズンを見ていました。
これまで一度も見たことがなかったのですが、新シーズンを興味本位でつまみ食いしたところ、デフォルメされた表現の面白さを感じ、前作も再生してみた次第です。とはいえ新シーズンほど誇張された表現はなく、新作のほうが過剰に演出されているんだなと思ったりしていました
『半沢直樹』はベースがミステリーなので、視聴者として謎を追うおもしろさはありますし、勧善懲悪なので(現代版水戸黄門をやりたかった、といったようなことを見かけて納得していました)「悪」がこれでもかというくらいコテンパンにされます。終わりに「痛快」が待っていることが約束されたストーリーは見ていて気持ち良いものの、現実もこれくらい「痛快」だったらば。日本学術会議の件も、問題を正式な問題として取り上げないぞという姿勢を政府の回答などから感じて、もうずっとやばいけど最近さらにやばいなと思うばかりです。

整理整頓の延長で、ここ数年「ミニマリスト」なるひとたちのブログや特集記事をときどき覗きます。ミニマリストは自分にとって必要最低限のもので暮らすひとたちのことです。狭義のミニマリストを厳密にその生活を実践するひとだとすると、広義のミニマリストには「シンプルな暮らし」だったり「丁寧な暮らし」のようなものも重なってくるように思います。
最近、そういう一連の記事で明治時代にあったらしい「簡易生活」という概念を見かけました。明治時代に西洋から伝わり、著名人たちをはじめ、庶民にも浸透していた生活様式や概念らしいのですが、一気にあやしくなってきますよね。
いまそれについて書かれた本を取り寄せている最中なので、本を読んでみないと何とも言えないですが、「むかし」はすぐに「伝統」や「権威」と結びつきますし、時代背景を無視して適当に利用されたり、ということもあるので、なんとなく警戒しています(それでも読むんだ、みたいなかんじもありますが!)。
ミニマリストの一部のひとが「ミニマリストになると節約になる」と語っているのも気になっているところです。なぜならミニマリスト的生活を実践することは数多にあるもののなかから「これだ」と思うぴったりのものを見つける作業で、とてもお金がかかります。
そして「自分にとっての必需品」を見つける活動は「消費」とも相性が良いように感じます。個人によってその実践方法は多種多様なようですが、購入してみて「違う」と思えば捨てる、であれば消費活動を促進するエンジンになる可能性も大いにあるのかもしれません。

2020/10/6(火)
すっかり秋っぽくなって、湿気がなくなってきたように感じています。窓をあけているとさわやかな風が通り抜けていくので気持ち良いです。
足立区議の差別的な発言のニュースと、足立区滅亡SFアンソロ発行が話題として流れてきていますが、わたしははじめて「自分が百合を楽しめない理由」を言語化できそうな気持ちになっていました。そして「表現されたものを見ないで批判はできない」という指摘が、いかに差別する側にとって都合が良いものであるのかも考えていました。表現されたものの結果は表現されたものを見てみないとわからないのは当然であって、「表現に対する批判」と「表現以前の行動に対する批判」は明確に分ける必要があります。
学生時代、新潟県中越地震の被災地の写真を撮り「作品」として提出した同級生の行為を、新潟で生まれ育った友人が猛烈に批判していたのを思い出していました。なんでも「作品」にする暴力性のこと、他者にふりかかったことを「作品」にすることで「自らの成果」にしてしまうことの問題を言いたかったのだと、いまはわかるのですが、当時はあまりよくわかっていなかった。報道などで現実を伝えることと、「作品」にする行為の境目を、その重なり合うようで異なる目的を、踏みとどまれるかどうかを、問われているのだと思います。

2020/10/7(水)
一日中ぐずぐずした天気で、少し肌寒かった。
久しぶりにネガティブな気持ちがやってきて、「おっ、ひさしぶりだね」と旧友のように迎え入れていました。これはだいたい天気のせいなのでしばらくなだめていればどこかへいくともうわかっているのですが、夕飯の支度でしめじのふさをバラしながら、終わりたい瞬間はきっとこういうときにくるのかもしれないと思ったりしていました(自ら終わらせずともいずれ終わる瞬間はくるからあせらんでも大丈夫と言い聞かせています)。
少し前の交換日記に、様々な事情で手放さざるを得ないコンテンツやサービスのことを書きましたが、足立区区議の差別的な発言を発端としたアンソロ制作などのことを考えて、いよいよわたしは「BL」も手放すことになるのかもしれません。これまでたくさんBLには夢を見させてもらって、わたしが叶えられないたくさんの未来がそこには描かれていて、読むこと、作ることで助けられてきました。大げさかもしれませんが、そうやってなんとかつないできた、ごくごく私的な呼吸があったということです。
でも今回のことで、それって結局、フィクションということを免罪符に当事者が突きつけられている現実をおもちゃにしているだけでは? ということを感じてしまった。わたし自身が「百合」を楽しめないのは、そこに描かれていることに何かしらの不満を感じてきたからではなかったか。だからこそ限られた、数えられるほどの作品しか手に取れずに来たのでは? そういう問いかけが猛スピードでわたしの内側を駆け回っていますが、結論を急ぐなとなだめています。

2020/10/8(木)
志村貴子の『青い花』のなかでは、メインの高校生たちの関係とは別に、先生と同性の恋人の何気ないやりとりが描かれます。その何気なさ、ほんのすこしのダメさ。そういう表現がわたしはとても好きです。
フィクションのなかで性的少数者は理不尽かつ悲惨な目にあうポジションだったり、異様に善い/悪い人間に描かれたり、といったこともありますが、現実に生きているわたしがそういう存在であるわけでもありません。ありふれた日常をおくっているし、性格も、好きなものもいろいろだし、意地悪だったり、ひねている部分だって多分にあります。

2020/10/9(金)
台風がきているとのことで、朝から雨が降っています。
父が亡くなって丸6年になります。父からもらったスピーカーがここ数日調子が悪く、音がぶつぶつ切れるようになってしまって、もうだめかなーと思っていたのですが、いよいよ、うんともすんともいわなくなってしまいました。新しいもの好きだった父が、試しに買って、思ったものとは違ったからわたしに「ほいっ」とくれただけのものですが(ひどいですよね笑)、こういうものって壊れて本来の機能を果たせなくなっても「要らない」にはならないんですね。ものと記憶が結びついているからなんでしょうか。
よくよく思うとわたしは父の形見と呼べるようなものを、それ以外に持っておらず、写真も持っていません。亡くなってからしばらくして、お世話になった方への返礼に母が用意したしおりはわたしも一つもらって使ってはいますが、このスピーカーに抱いているような愛着があるわけでもありません。だからなんだ、という話ではあるのですが、なんだか、「もの」との関係性を考えてしまいます。

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ほさきから、ひらたさんへ

2020/10/10(土)~11(日)
霧吹きで噴いたような細かい雨が朝から降っていました。台風は南にUターンするとのことで鉢植えも仕舞わずに済みましたが、すっかり冷え込んだので金曜夜には暖房をつけました。この前購入したムートンスリッパが早速本領を発揮してくれています。

日本学術会議の人事介入の件について、いくつもの団体が反対文書を出しています。怖いなと思うのはSNS等における会議の批判と政府の対応とがきれいに足並みを揃えているように見えること、その前提に当然のようにデマ(としか言いようがない誤った認識)が使われていることです。時の政権を擁護する意見・デマはこれまでもありましたが、そうした意見がテレビとSNSとに同時発生し批判意見と同等の声量を獲得する、と同時に行革の対象にすると発表される、そのスピード感がこれまでと圧倒的に違う気がしています。その一方で首相会見は極めて限定的なものになっており、政府にとって都合の良い情報だけが流される体制が出来上がっていく。首相のいる部屋に入れなかった海外記者が、取材マイクを初めて(中継音声が流れてくる)天井に向けた、とtweetしていました。なんだかあまりに現実離れしている、と思うのは逃避かもしれませんが。

やらなければいけないことはあるけれど雨のせいかどうにもそちらに体が動かず、なぜか土曜日は味噌玉を、日曜日は白玉団子(胡桃バター入り)を丸めていました。ところで白玉って何なんだろう、と思って調べたらお米なんですね。おかずのスープに入れて食べたら美味しかったです。

2020/10/12(月)
五つほど上がっていた薔薇の蕾のひとつが綻びだしていました。涼しい秋の薔薇は春よりもゆっくり花開くらしいのですが、気温が上がってきたこともあり、帰宅時には満開でした。春に買ったのはポットに入った小さな苗だったので、秋に花が咲いてようやく「一人前」です。
十二国記「白銀の墟 玄の月」刊行から一年ということで、朝からタイムラインが賑わっていました。12月に短編配信とのことでこちらも楽しみです。あれから一年、ということは関東に台風が上陸した夜から一年でもあるのだなと思います。去年はそれで東北への旅行を泣く泣く取りやめて、そのリベンジも兼ねて今年の夏、別件で東北へ行くつもりでした。

2020/10/14(水)
ここ数日の陽気にほころんだ薔薇を切りました。小鉢からあふれんばかりのピンクの薔薇に、うさぎはすっかりご機嫌です。
夜切った時にはほころびかけ、位のころんとした形だった薔薇は、翌朝になると内側からたくさんの花びらを押し広げ、別の花になったかのようです。川端康成の「花は眠らない」を思い出しました。ノーベル文学賞が話題になっていた頃、引用を見かけて知ったエッセイです。そういえば今年ノーベル文学賞を受賞したルイーズ・グリュックの作品として初めて読んだのも「野生のアイリス」、花の詩でした。

あちらの世界からの
帰り道を憶えていない あなた、
わたし また話せるようになったのよ。
忘却の世界から戻るものは
声を見つけるのよ。
        木村淳子「ルイーズ・グリック:花の声、人の声
                       「野生のアイリス」より

グリュックは(フェミニズム運動の中、己の経験した不条理を書いた)告白詩人の後の世代の詩人として位置づけられるそうです。その作品における「声」について論じる木村氏の論文と翻訳を読みながら、フラワーデモのことを思い出していました。性暴力や性差別の根絶を訴えるデモが花の名を冠すること、参加者に花を持って集まろうと呼びかけることについては、それによるポジティブな影響もあると分かっていても、未だ抵抗を感じる部分があります。
でもこの、「わたし また話せるようになったのよ。」という花の声は。

薔薇などの花に付けられる美しい名前の数々とその謂れや品種改良の歴史、あるいは社会における花という概念の取り扱いを見ていると、自分含む人間の「花」への欲望に気持ち悪くなる時があります。草木に人間の感情や在り方を重ねたり並置したりそれに感動したりする人の回路を本当に気持ち悪いと思いながら、それでもそれらに感動する自分がいる。そしてもちろん、花そのものには何の罪もない。
花に罪はない。けれど言葉に対しては、なかなかそういう風に言えないところがあります。

花は眠らないと気づいたのも、宿屋にひとりいる私が、夜なかの四時に目をさましたからかもしれない。
                  川端康成「花は眠らない」より 

足立区区議の発言への「カウンター」としてtwitterに同時発生的に現れた小説や大量のタグ付き短歌を見たとき、欲望の奔流を目の当たりにしたような気持ちになりました。とはいえこれについてはSNSという場や、このツールにおける思考と「作品」の距離感の作用も大きい気がしています。
特定の創作(ジャンル)が倫理やポリティカル・コレクトネスに反しているのではないかと考えたことはわたし自身この数年で何度かあり、それが理由で取り下げた創作もあるのですが、その一方でこうした問題について考えるときはいつも、かつてBL短歌や二次創作短歌について「ジャンル全体でなく作品ひとつひとつを読み、評していくしかない」と言われたこと、自分たちはただ作品を読んでほしかっただけだと訴えたことなどを思い出してしまいます。そういえば共有結晶vol.3には塚本邦雄の原子力発電所の歌をベースにした掌編も寄稿されていました。
欲望それ自体ではなく欲望の表出の仕方が問題なのだということを、ひとつひとつ検分するしかないというような言い方に纏めてしまえば、ただの現状追認ではないかと苛立つ自分も正直います。が、思考した結果として元いた場所に近いところへ改めて戻るのと、ただ既存の価値観に立ち続けるのとではやはり違うはずだ、とも思います。

日本学術会議の件について、自民党が検討グループを立ち上げたとお昼のニュースで見ました。歴代の元文部科学大臣が並ぶ場で「政策のための科学」という言葉が出てくるというのはなんというか、なかなかインパクトがあります。

2020/10/15(木)
数日前、駅へ向かう道の途中に新しいパン屋さんがオープンしました。わたしがお店の前を通るときはいつも閉まっていたのですが、今朝初めて開いているところに通りがかることができました。まだしんとした空気に小麦の焼ける匂いが淡く漂っていて、小さなデニッシュとスコーンを買いました。

中曽根元総理の合同葬儀について文部科学省から国立大学等に対し弔意表明を求める通知が出たというニュースが昨夜から話題になっていました。
いつも思うことですが、わたしはこの手のニュースの異常性にぱっと気づけません。今回だと通知文を見た時点では「……??」という感じだったのが、他の人の反応や小中学校にも同じ通知が送られたというニュースを見てようやく愕然としたところがあります。SNSの危うさを感じつつも手放せない理由の一つですが、それもどうなんだろうとは思います。
報道によると大阪府教育委員会は受け取った通知を学校に配布しなかったそうですが、とはいえ同様の対応をした教育委員会はどのくらいあるのだろうと思います。通知に弔旗についての指示があったこともあり、国旗・国家法や日の丸・君が代訴訟などを連想してしまいます。多くの人にとっては身近な話題でなかっただけで、内心の自由など、とっくの昔に侵害されているのではないか。
強制ではないから、儀礼だから。大したことじゃない。でも、この国の国旗と国歌なんだから当然でしょう。そうして地滑りを続けていった、その結果として今がある。これは妙だおかしい、という違和感をわたしはひとりでも持てるだろうか。それを形にできるだろうか。
侵すものではないという政治家の言葉が、最近は常に逆の意味に聞こえます。

2020/10/16(金)
家を出ようとしたら寒かったので一旦戻ってイヤーマフを付けて出ました。今週はそんなことばかりしている気がします。

購入したミニポスターが到着したのでどこに貼ろうか、昨夜はあれこれ試していました。部屋の中に明るい色のものを増やさないと負けてしまう気がして買ったのですが、いざ届いてみるともっと大きいものでも良かった気もしてきます。先日のミッフィー展で買ったハンカチも、仕舞い込んだままになりそうなので飾ることにしました。美術館で絵を見るうさこちゃんの後ろ姿が描かれたハンカチです。
大きい絵や色彩というのはそれだけで力があるのだと感じたのは8月、ロンドンナショナルギャラリー展に行った時のことでした。半年ぶりに行った美術館という空間で自分の身長より大きい油絵と相対したときの迫力は、パソコンで見た演劇配信よりも、ある意味よほどインパクトがありました。緊急事態宣言解除以降、わたし自身は結構外出している方だと思いますが、それでも失ってそのまま、気付いていないものがあるような気もします。

ブルーナ・イエローを背景に笛を吹くミッフィーが描かれたミニポスターはとりあえずドア横の壁に落ち着くことになりました。出自もあってかうさぎ達も気に入ったらしく、しげしげと絵を見詰めています。水彩や印象派の絵葉書ばかり部屋に飾っていたので、もしかしたら不思議な取り合わせなのかもしれません。

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