見出し画像

弁証法的唯物論の限界と矛盾

私が高校一年生の時、友達の誘いから民青(民主青年同盟)に所属し、共産主義思想を約1年間学んだことがある。友人は放課後、共産党員の家に私を連れて行き共産主義思想を紹介した。一番最初に紹介された本が「物の見方考え方」という本だった。これは弁証法的唯物論の初心者の為の案内本の様な本であった。この本を教材として毎日の様に勉強会をした。

随分昔の話であるから完全に覚えてはいないが、この弁証法的唯物論は人間社会のみならず自然界を含め全ての存在物を対立と闘争として捉えて、それによって発展してゆくというもの。そして全ての存在物は支配と被支配から成り立っており、この2つの存在の対立と闘争をしているというもの。

例えば人間社会だと資本家と労働者、学校の先生と生徒、親と子、夫と妻、政府と国民などこの様に二つに分かれ支配するものと支配される者との関係となる。また人間社会だけでなく自然界もそうなっていると説く。例えば卵を見てみると卵の殻と中身の黄身白身からなっている。殻が支配者で黄身白身が被支配者である。この黄身白身が成長して段々と大きくなると支配者である殻と対立闘争して、被支配であり黄身と白身は支配者である殻を破ってヒヨコとなる。同様に資本家や政府に支配されている労働者や農民の力が段々強くなり、革命によって資本家や政府を打倒して社会主義、共産主義になるという理論だ。

純粋な学生時代は当初はその理論を単純にそういうものかと信じたが、この弁証法的唯物論は論理に飛躍と矛盾が内包されていることに次第に気付いてきた。まず卵を見てみると殻と黄身白身の関係は対立闘争の関係にない。殻は黄身白身が成長してヒヨコになる迄保護しているのであって支配者と被支配者の関係ではない。本来の人間関係は夫婦、親子、先生と生徒、政府と国民の関係は愛と信頼に基づいて互いのために生き、愛し愛し合う、よく授け受けし幸福、繁栄、発展をもたらすのではないだろうか。勿論支配と被支配の関係は人間社会の一部には見られるがそれを願っている人はいないだろう。ましてや自然界にはあり得ない。自由、平等、幸福、平和などは対立闘争からは生まれない。

ヘーゲルの弁証法はマルクス、エンゲルスによって弁証法的唯物論になり、世界共産主義の暴力革命の理論的背景となった。この理論はあくまでも共産主義革命という目的を達成する為に、人間社会や自然界にこじつけて当てはめたものであるから、大昔のこの理論は様々な矛盾や限界を呈している。私はソ連の崩壊後のロシアに3ヶ月程度滞在したが、レーニン像は引きずり降ろされ、マルクスは石頭の愚か者の人を指す代名詞となっていた。そして写真で見るマルクスはヒゲをはやした大男に見えるが実物大のマルクスの銅像を見れば実に小柄な男であった。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?