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【随筆】承認欲求の処方箋

はじめに

この頃、「承認欲求」という単語が独り歩きしているように思えてならない。
元来心理学用語であり、人間の基本的な欲求として想定されていたはずの概念は、いつしか現代ネット社会に巣食う病理のように語られてしまっていないだろうか…?

目的と手段

人に認められたいーー社会に生きる人類にとって、これはごく基本的な欲求であり、逆にこれを欠いてしまえば社会で生きることは難しくなる。人間が社会という環境で生きる生き物である以上、生命としての三大欲求とならび、是非を問うまでもない生存のための原動力である。
問題は、往々にしてその「欲求の満たし方」に起因する。例えば食欲や性欲を理由に無銭飲食や性犯罪を犯してはならないことを考えれば明白だろう。
承認欲求も同様だ。人に認められようとするあまり、周りを軽視したり、承認を人に強いたり、「自己中心的で過剰な承認欲求の満たし方」こそに問題があるのだ。

モンスターの作り方

そうした悪しき満たし方には、枚挙にいとまがない。しかしその多くには共通点があるーー「承認なき承認の要求」ーーつまり、「自分はあなたを認めないけど、あなたは私を認めてね」という訳だ。
こう改めて書いてみると極めて明白じゃないか。それが如何に傲慢で不遜な態度か、そしてそんな態度では誰からも認められないだろうことも。
結果として「承認なき承認の要求」は誰にも受け入れられず彷徨い、肥大化して、哀しき承認欲求モンスターが生まれてしまうのである。

認められないことを認める

ならば、留意すべきは次の二点だ。
①まず自分が相手を認めること
②無闇に認められると期待しないこと
単純な話だ。「いやいや自分は認めても相手は認めてくれないんだよ!」そんな反論もありそうだ。しかし残念ながら、その反論が出る時点で認めているとは言えない。
なぜなら、あなたを認めるも認めないも相手の自由であり、自分を認めないという選択肢を尊重しないなら、「自分を認める相手」を認めているだけで、条件つきの承認でしかないからだ。
だからこそ、無闇に人に承認を強いることはおろか、承認してくれるだろうと期待してもいけない。承認欲求そのものは悪ではないが、見境なく期待してはいけない。相手にも自由はあり、その自由を承認されたいのだから。

需要と供給

そして先にも書いたように、必死に見苦しく食い下がったところで、益々認められにくくなるだろう。
来店する客全員に、しつこく「レビューで星5ください!」と要求するカフェと、客のリラックスタイムを尊重し好きに過ごさせてくれるカフェ、どちらにまた足を運びたくなるだろうか?本当にレビューがつくのはどちらか?
そういうことである。
営業や売り込みが悪い、というのではない。ただ一流の営業ほど顧客のニーズを把握しているものではないか?強引に売り込んでも成果は上がらないのである。
そもそも需要のないもの相手に売り込んだり、需要はあってもそれを相手の望む形で供給できなければ、売れないことは明白だろう。

話題・見せ方・話し方を見直す

分かりやすいよう営業を例に説明したが、これをより一般的なコミュニケーションに置き換えてみる。
この場合、商品とはその人の持つ知見や作品、売り方とはその見せ方や話し方に相当するだろう。
だから、既にお互いを認め合っている関係性でもない限り、たとえそれがどんなに面白く有意義な話でも、相手が興味を持つ話題でなかったり、相手の話を聞かず(つまり相手の意見を認めず)一方的に押し付けたり、単純に相手を労れさせるようでは、新規に認められることは難しい。
だからといって、あなたの個性を消したりする必要はない。売ることをやめる必要もない。
ただ、その需要と供給がかみあう限りにおいて、双方が楽しめるウィンウィンの会話ができるようにしなければ、それは押し売りとなんら変わりないのだ。
もしあなたが誰かとコミュニケーションで齟齬を感じたり、楽しめない時はそうした調整がお互いにうまくできていない状況ということだ。
勿論「気が合わない」と離れるのも手だ。ただそう簡単に切れない縁ならば、相性が悪いと決めつけてしまうのは勿体ない。どうせ関わるなら少しでも楽しい時間にした方がいいだろう。

まなざしに気づくこと

結局のところ、相手の自主性を尊重し、相手のことを認めなければ、相手に響くものを提供することはできない。
そして相手に何も提供しないのに、相手には承認という極めて重要な要件を持ちかけてもうまくはいかない。
もっともこれはかなり難しいことではある。かく云う私自身もかつては売り手都合でしか物事を考えていなかった節があった。
その時の私は全く評価されず……そして私自身もそんな自分を認めていなかったのだ。
いや、あるいは逆であったのかもしれない。今振り返れば当時だって自分の作品や人柄を認めてくれる発言はあったのに。私が自分で自分を認めていないから、周囲の言葉を素直に受け取れていなかったのだ。
自身と世界を拒み、目を閉じてしまえば、周囲からのまなざしにも気づけなくなる。

自他を知ること

当時の私は何をそんなに塞ぎ込んでいたのか。それもまた需要と供給のズレだろうと今は考える。
つまり、自分に合わない世界で、自分に合わない理想を追い求め、自分が供給できないものを、自分を求めぬ人達に押し売りしていた。
それが無駄だったとは思わない。お陰で自分のできること・人脈も広がったし、今のこの視点自体そうした試行錯誤の結果たどり着いたものだからだ。
ただ、今もし読者のあなたがその渦中にいたなら、分かった上で苦しみ続けることはないのだ。
売り込む先を間違えただけで自身の価値を否定することはない。また、相手を間違えているのだから、自分を認めない相手に憤慨しても仕方ない。
今必要なのは、正しく自他を見つめることだ。この場で何が求められていて、あなたは何を提供できるのか。
それが重なる部分があるのなら、まずはそれを試してみるといい。また、致命的に噛み合っていないなら、そこはあなたの場所ではない、それだけのことだ。

おわりに

ーー自他を正しく知り、己を認め、他も認めた先にーー
わざわざ押し売りなどせずとも自然と満たされているはずだ。承認欲求という、その自然で根源的な欲求が。

付記

※画像:かんたん表紙メーカー

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