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スペインバロック絵画~ベラスケス~

0.序

16世紀後半のスペイン絵画においては、エルグレコに代表されるマニエリスム美術はもはや時代遅れとなり、カラヴァッジョ様式の伝播のもとに、現実的、自然主義的でドラマティックな新たな様式が芽生えてくる。17世紀にはジュゼペ・デ・リベーラ、フランシスコ・デ・スルバラン、アロンソ・カーノなど、いわゆるスペイン黄金世紀を担う画家たちが出現してくる。彼らの活動はスペイン絵画史上、様式上、美学上の画期的な大展開をしていく源となっていく。
その中でもベラスケスは彼らを統合する中核的な存在であった。
ここでは、ベラスケスの生涯やその作品を見ていくことにしよう。

ベラスケス
(ディエゴ・ロドリゲス・デ・シルバ・イ・ベラスケス 1599年~1660年)

1.セビリア時代

ベラスケスは16世紀末から17世紀初頭にかけてを幼少期~青年期として過ごした。この時期、社会では対抗宗教改革が推し進められ、教会や修道院は新たな絵画装飾を求めていた。そうした教会側の要請にこたえるように、絵画世界においてもこれまでの後期マニエリスムの様式がより写実的な様式に変化していった。

ベラスケスは1611年、この時代の画壇を代表する画家フランチェスコ・パチェーコの工房に徒弟修業に入る。パチェーコは、当時のスペインの画家としては珍しく、芸術理論にも精通した知識人であり、絵画を単なる職人芸ではなく知的な創造活動としてとらえていた。パチェーコの工房で過ごしたベラスケスのこの時代は、彼の根本的な芸術観を形成した時代でもあった。彼は生涯、絵画を「高貴なる芸術」としてとらえ、それがのちの「ラス・メニーナス」のような作品となって実を結ぶことになっていくのである。

工房での修行を終えたベラスケスは1617年に「聖像画家」の検定試験に合格し、画家組合の入会を許され、一人前の職業画家として活動を始める。その後、1623年マドリードに移住するまでの6年間がベラスケスの「セビリア時代」と呼ばれているものである。

この期間、ベラスケスは主に宗教画と厨房画(ボデゴン ※1)という二つのジャンルの絵画を手掛けている。
そのどちらにおいても、明暗のコントラストを強調した演劇的な舞台設定、現実のモデルに忠実に描かれる人物像、精巧に質感が描き分けられた写実的な静物モチーフ、というような特徴が見られる。

※1 ボデゴンとは
スペイン語で酒蔵を意味する「ボデガ」から派生した語で、スペイン美術での静物画の一種。日本語では厨房画とも言われる。各種の食物や食器が対象となり、そこに料理や、調理する人、飲食する人物が同時に描かれたりすることもある。


そもそも市場の様子や食堂の情景は、16世紀後半にフランドル絵画で好まれたテーマであり、ベラスケスもそうした作例を参考に自身のボデゴンを構想したと考えられる。
しかし彼は、描く静物の数を限定し、情景を同時代の庶民的なものに移し替え、フランドル絵画の教訓的な寓意性を薄め、簡潔で現実的な場面を作り上げた。
9点現存するベラスケスのボデゴンのうち、2点は背景の開口部に聖書の物語を挿入した二重構図の作品であり、残り7点は同時代の飲食に関する風俗場面のみが描かれている。

 ■ベラスケスのボデゴン
「卵を調理する老女/ベラスケス」(1618年)

令和2年11月13日横約1000卵を調理する女ベラスケス


「卵を調理する老女/ベラスケス(1618年)」

ベラスケス19歳の傑作である。画面の中心を占めるのは横顔の老女で、火鉢にかけた鍋で卵を調理している。画面左にはメロンとワインを持った少年が立っている。画面手前のテーブルには、陶器の皿、金属の乳鉢、ニンニク、玉ねぎ、ピッチャーなどが見事に質感を描き分けられて並んでいる。構図としては、少年の頭からメロン、火鉢、卓上の生物が、老女の頭を中心とした円の弧を描く位置に配置されていて、それらが精緻に計算されたものであることが伝わってくる。
何より注目したいのは、ベラスケスの描く人物像である。三次元的な肉体としてのボリュームを持ち、どの人物にも一人の生身の人間に基づく個性的な特徴が描かれ、風貌や存在感を理想化せず、確かなリアリティをもって描かれている。このことは、これまでの画家たちが基本的に「対象を、実在感を欠く理想的人物像に昇華させていたこと」と著しい対照をなす。

このようなベラスケスのリアリズムは、当時のスペインにおいては新しいものであり、賛否両論を巻き起こした。その卑俗な同時代性や、理想化をこばむリアリズム性は、「高潔な芸術を卑しい概念にまで堕落させたものだ」という酷評も受けた。しかし、パチェーコはその真価を見抜き、著作「絵画芸術」において、「ボデゴンは自然の真なる模倣として賞賛に値する」と記している。


 ■ベラスケスの宗教画
ベラスケスは生涯に15点しか宗教画を残していないが、そのうち約半数がセビリア時代に制作されたものである。
この時代のベラスケスの宗教画の特徴は、具体的なモデルに基づいた人物像の徹底した写実性と、そうした人物像を用いて聖なる物語をあたかも同時代的な現実の出来事であるかのように表現する卑俗性にある。それは民衆にわかりやすく聖書の教えを伝える手段として絵画を利用しようとしたカトリック教会の姿勢に忠実に沿うものであった。

●「東方三博士の礼拝/ベラスケス」(1619年)

令和2年11月14日高さ700東方三博士の礼拝ベラスケス


「東方三博士の礼拝/ベラスケス(1619年)」

聖母マリアはベラスケスの妻ファナ、幼子イエスはベラスケスの長女フランシスカ、三博士のうち青年姿のメルキオールがベラスケス本人、横顔の老人カスパールが師匠パチェーコをモデルにしたとされる。こうした現実描写の方法は、ベラスケスにとっても、聖なる出来事をあたかも目の前で起きている現実として想起させる訓練にうってつけであったに違いない。また人物像のこのような描写からは、将来肖像画家として大成する才能の片鱗がうかがえる。


2.マドリードの宮廷画家として

1621年、当時15世であったフェリペ4世は、父国王フェリペ3世の死を受けて即位する。その後1623年ベラスケスはフェリペ4世の命により、王付き画家に指名された。ここに「宮廷肖像画家」ベラスケスが誕生した。国王18歳、画家24歳という、新王にふさわしい新たな宮廷画家の誕生であった。

ベラスケスの住居はすぐにセビリアからマドリードに移された。ベラスケスには俸給のほか、制作した作品への画料はもちろん医療費まで保障された。20代の宮廷画家としては破格の高給取りであったと推察される。フェリペ4世の宰相オリバーレスは「ベラスケスだけが国王の肖像を描くべきであり、それ以外の肖像は王宮内から撤去されるだろう」とまで宣言している。

しかし、当時の社会的において、肖像画はボデコンと同様、ただ卑近な自然(モデル)を写しているにすぎないとされ、教養や想像力を必要とする、神話、宗教、歴史を題材とする物語絵より劣位にある、という従来の価値観は根強かった。ボデコンと肖像画から出発したベラスケスは、この種のヒエラルキーへの挑戦と反逆、ジャンル間格差を超越すべく大胆な革新を望んでいた。その中でフェリペ4世は1627年、カルドゥーチョほか3人の宮廷画家にベラスケスを加えて、絵画コンクールを開催する。
結果はベラスケスの圧勝であった。

これを受けて彼は王の私室取次係に任じられる。ベラスケスにとって、画家職と、王の取次係という二足のわらじの人生がスタートしたのである。

ベラスケスは日常、自作品を含め豊かな王室コレクションに囲まれて暮らすことになる。このような理想的な絵画環境のおかげか、以後、彼は、神話、宗教、歴史や風景までも手がけるようになり、宗教画一辺倒のスペイン17世紀としては異例の「ユニバーサルなジャンルの宮廷画家」が生まれていくのである。

●「フェリペ4世の肖像/ベラスケス」(1628年)

令和2年11月13日幅350フェリペ4世ベラスケス


「フェリペ4世の肖像/ベラスケス(1628年)」

人間像をリアルかつ生き生きと浮かび上がらせるために、空気の層と影のみで三次元性を生む空間処理は素晴らしい。これがベラスケスの「雰囲気の魔術」と呼ばれる技法である。ポーズも下半身もすらりとして自然らしく、ベラスケスは王たるにふさわしい国王肖像の定型をここに確立したと言える。

しかし、完成に至るまでには賢明な試行錯誤があったことは肉眼でも識別できる描き直しからも推測できる。おそらく最初は威厳や品格からはほど遠い容貌と生硬な表情で、また、ぎこちないポーズで描かれていたのだろう。しかし入念に描き直された4~5年後には、このような優雅で生気にあふれ、垂直線の強い、端正かつ厳粛な王の姿として世に出された。このことは「似姿においては正確、ポーズにおいては優美」という王のイメージへの大転換をも意味するものであった。
こうしてベラスケスは一流の宮廷肖像のスタイルと国王の新たなイメージの創造に向けての第一歩を踏み出したのである。

ベラスケスの王家肖像は、これまでのスペインの宮廷肖像画を踏襲しつつも、いっそう簡略かつ鮮明に、しかもカトリック擁護王としてのイメージをさらに強調して描かれていく。彼は同国宮廷肖像画においてその伝統を受け継ぎ、さらに革新をもたらした、というわけである。これ以後、ベラスケスの画家としての地位はより確かなものになり、またスペイン王室にとってなくてはならない存在となっていく。

●「バッカスの勝利/ベラスケス」(1629年)

令和2年11月13日幅840バッカスの勝利ベラスケス


「バッカスの勝利/ベラスケス(1629年)」

これは、ベラスケスの30歳までの画業とその足どりを要約、総合した記念碑的な傑作であると言われている。神話画である以前に、人物を配したボデコンにして群像画でもあり、同時に構想画にも踏み出している。異様にリアルで熱情的なこの絵は、まさしく悪漢小説に通じるような現世的世界を表しており、また、古代寓話の非神格化とも言われている。バッカスを当時のフェリペ4世に見たてれば、「労働者や農民たちは、若い王のもとで休息をとり」かつ「王は、神の贈り物たるワインを捧げて、彼らの労働をねぎらう」、という意味で描かれているとも言える。斜陽のスペインでは、「王たる者、労働を奨励すべきだ」との政治理念が喫緊の課題となっていた。それをベラスケスは絵画においてプロパガンダ的に表明したのではなかろうか。


3.初めてイタリアに赴く

ベラスケスにとって念願のイタリア旅行の許可が国王から下ろされたのは1629年であった。イタリアにて宮廷入りし、王室コレクションのイタリア絵画に触れることになる。
まずヴァチカン宮殿に居室を提供され、ミケランジェロやラファエロの壁画など宮殿内を自由に鑑賞した。そののちローマの北部に住居を移しているものの、古代彫刻を研究し、盛期ルネサンス以降の古典的絵画を学び続ける。その成果は、数こそ少ないが、2点の物語絵、2点の風景画にうかがえる。これらの作品からは、彼の絵画様式が、セビリア時代の厳格な自然主義から脱皮したこと、また、豊かな色彩と開放的な空間の構成をなしていくようになったこと、などの点においても、イタリア留学の確実な成果がうかがえる。

●「ヨセフの名が衣を受けるヤコブ/ベラスケス」(1630年)

令和2年11月8日幅1048ヨセフの長衣を受けるヤコブ

「ヨセフの名が衣を受けるヤコブ/ベラスケス(1630年)」

テーマは旧約聖書、ヤコブは末の息子ヨセフをことさらに愛していたために、憎悪した兄弟たちが雄山羊を殺し、その血を弟の長衣に浸してヤコブのもとに届けた場面である。右端のヤコブの悲嘆のポーズがやや誇張気味だが、室内空間の有機的な人物群の配置や、正確な解剖学による裸体表現、鮮やかな色彩を見ても、彼のイタリアでの研鑽の成果がうかがえる。



4.イタリアから帰国後・創作活動の成熟

1630年代は、文化的も政治的にもスペイン王家にとってかろうじて幸福な最後の時代であった。
ベラスケスは1631年に帰国した。そのころマドリードの宮廷では大規模な宮殿造営および改築が計画されていた。フェリペ4世はこれらの宮殿の膨大な面積の新しい壁を絵画で飾ることを望み、数多くの絵画を集めようとした。結果的には、彼の宮廷は名実ともに世界一の絵画コレクションを誇ることになったのであるが。

ベラスケスは1632年頃から約10年間、年齢でいうと30代前半から40代を迎えるころまで一番脂ののった時期を、これらの宮殿を飾る絵画の制作に捧げ、多くの傑作を生み出している。
その一つとして有名なものは、政治的な公式空間であった「諸王国の間」に飾られた「ブレダ開場」と「5点の王家の騎馬像」である。これらはスペイン王家の栄光とその支配の正当性を視覚化するために描かれた作品群といってよい。これら以外にも彼は6点の道化や役者の肖像などをこの宮殿のために制作している。


●「ブレダ開場/ベラスケス」(1635年)

令和2年11月8日幅912ブレダ開城ベラスケス

「ブレダ開場/ベラスケス(1635年)」

画面右の空に印象的に突き出す何本もの槍から「ラス・ランサス(槍)」というニックネームでも知られるこの作品は、1625年にスペイン軍がオランダ軍からブレダの街を奪還した際の勝利を描いている。これは言うまでもなくフェリペ4世の軍事的功績と支配権をたたえ、スペイン王国の正当性を象徴するものである。しかし勝者スピノラは、馬から下りて敗者ナッサウと同じ地面に立ち、鍵を受け取る前に相手の肩に手をかけてねぎらっている。また画面左のオランダ軍は武装を解かない名誉ある降伏を許されている。ここで披露されたのは、騎士道精神に基づく寛大さと高潔さであって、ベラスケスはそれらを意図的に表現したのであった。


次に「5点の王家の騎馬像」のうち3点を見てみよう。
●「王太子バルダサール・カルロス騎馬像」/ベラスケス」(1635年)

令和2年11月8日幅840王太子バルタサールベラスケス


「王太子バルダサール・カルロス騎馬像」

フェリペ4世の長男として生まれたバルダサール・カルロスは王位後継者として国中の期待を一身に背負って育てられた。この作品は、上述した「諸王国の間」において、両親である国王夫妻の騎馬像に挟まれ一段高い扉口の上を飾っていたものである。弱冠6歳であるとはいえ、スペインの未来の確かさと明るさを強調しているかのごとくである。馬は両前足を高く上げ、まさに絵の外へと勇躍するかに見える。王太子の身体とのバランスが悪いのは、この絵が高さ3~4メートルの扉の上部に飾られることを想定して、仰角の遠近法を計算し、誇張的表現がなされたゆえんであろう。スペインの未来に勇気と希望を授けるこの絵画から、だれしもが王太子の幸せな未来を想像したことであろう。しかし、皮肉にも彼は王座を継ぐことなく16世で早世することになる。
背後の風景は、マドリード郊外のグアダラマ山脈を描いたもので、それを描き出すヴィヴィッドな写実性は、スペイン風景画史における傑出した地位を本作品に与えている。


●「フェリペ4世騎馬像/ベラスケス」(1635年)

令和2年11月8日幅908フェリペ4世騎馬像ベラスケス


「フェリペ4世騎馬像/ベラスケス(1635年)」

同「諸王国の間」で上記の「王太子バルダサール・カルロス騎馬像」の左隣下方に飾られていた。落ち着いて遠くを見つめる、側面からとらえた国王の姿は、何事にも動じない静穏さと威厳が表現されている。



●「オリバーレス伯公爵騎馬像/ベラスケス」(1636年)

令和2年11月13日幅752オリバーレス騎馬像ベラスケス


「オリバーレス伯公爵騎馬像/ベラスケス(1636年)」

オリバーレス伯公爵はフェリペ4世の宰相として国王の即位直後から1643年までスペイン帝国の政治を牛耳った。本肖像は通常、王侯の肖像のみに許された前進騎馬像で描かれている点で異例の作品であると言える。しかしこのこと自体、オリバーレスが宮廷で誇った強大な権力を証明している。


5.もう一度イタリアへ

スペイン王国は1640年を迎える頃から、下り坂を転がり落ちるように瓦解していく。厳しい試練と悲嘆の暗澹たる時代の到来であった。
1643年、フェリペ4世はついに宰相オリバーレスを宮廷から永久追放する。失脚最大の理由は、戦争による疲弊と国庫の破綻による、大スペイン王国構想の崩壊である。それはハプスブルク王家スペインの完全な凋落の予兆でもあった。1648年にはスペインはオランダの独立をも正式に承認せざるを得なくなる。

このようなスペイン王国の凋落も、ベラスケスの栄達や創作活動には何ら影を落とすものではなかった。彼は1643年、念願の王室侍従代に指名されてからは、廷臣としての職務がさらに増え、多忙を極めるようになっていった。

そして1648年、ベラスケスはふたたびイタリアに赴く。20年ぶりのイタリア遊学は、絵画研鑽目的の初回とは異なり、古代の彫像やその鋳型、ヴェネツィア絵画を買い付ける公的な使命を国王から授けられての旅であった。彼はイタリア各都市を歴訪したあと、ローマに到着、そこでローマ教皇をトップとした聖俗両界の重要人物を肖像に描く。そのようにして彼の画家としての栄光はさらに極まっていったのであった。

●「教皇インノケンティウス10世/ベラスケス」(1650年)

令和2年11月13日幅892教皇インノケンティウス10世ベラスケス


「教皇インノケンティウス10世/ベラスケス(1650年)」

インノケンティウス10世は1644年ローマ教皇に選出された。額から汗が噴き出しそうな様子から見ても、夏の暑い日、内密な環境において描かれたのであろう。醜男で知られた教皇の外貌をそのままとらえ、激しい猜疑心、職務への不撓不屈の精神など、屈折した人格が余すところなく表現されている絵画だ。当時の側近がこの絵を本人と見まがったほどに、この絵は迫真的であり、教皇の内面描写という意味も合わせて、西洋肖像画史上、傑作の一枚にあげられている。


6.絵画世界の真実

ベラスケスはローマに2年近く滞在したのちスペインに帰国し、いっそう宮廷職に忙殺されるが、彼はこうした激務にもかかわらず、寸暇を惜しんでキャンバスに向かった。
王族の宮廷公式肖像を描くかたわら、物語絵の「織女たち」、「メルクリウスとアルゴス」、そして集団肖像と物語絵の総合たる最高傑作「ラス・メニーナス」に取り組んでいく。

●「ラス・メニーナス/ベラスケス」(1656年)

令和2年11月14日撮り直し版幅1200ラス・メニーナスベラスケス


「ラス・メニーナス/ベラスケス(1656年)」

不思議な作品である。「女官たち」というタイトルではあるが、主役が侍女たちでないことは明らかだ。取り巻きを連ねてベラスケスのアトリエを訪れた「王女マルガリータ」を描いた作品ということになろう。画面中央奥の鏡には王と王妃が映っていることからすると、彼が巨大なキャンバスに描いたのは国王夫妻の像なのであろうか。しかし、この国王夫妻は鑑賞者の側にいるわけだから、この絵には、虚構と現実の鏡を取り去るベラスケスの意図があったとも想像できる。

この絵が飾られている場所はアルカーサルと呼ばれた王宮内1階の宮廷画家の仕事場だ。絵の中の人々を支配しているのは、広大な上部空間とそこを満たす光と影、空気の層である。
パロミーノは、この絵画について注目すべき言説を残している。「人間の間には空気がある。物語られていることはすばらしい。その創意は新しいものだ。(中略) なぜならこれは真実であって絵画ではないからである」と。

またさらに留意すべきは、群像図が「物語られている」というところであろう。これは単なる集団肖像にとどまらず、「物語絵との共生」が企画されたものであったに違いない。


●「織女たち/ベラスケス」(1657年ころ)

令和2年11月13日幅892織女たちベラスケス


「織女たち/ベラスケス(1657年ころ)」

「ラス・メニーナス」と並ぶベラスケス芸術の粋を極めたもう一つの傑作がこの「織女たち」である。オウィディウス著「変身物語」の中のイオニアの乙女アラクネにまつわる話を描いた絵画だ。この寓意物語には諸説あるが、基本的には「技術に対する芸術の勝利をたたえ、絵画を自由学芸の一つとしてほめたたえる」というベラスケスの主張が実を結んだ絵画と読むべきであろう。
また、背景に王室コレクションにあった「エウロペの略奪/ティツィアーノ」の名画を取り込んでいることから、これはヴェネツィア学派の巨匠へのオマージュともなっている。

思いを募らせるアラクネの描写は、斜め後ろからの姿ゆえ、とても魅惑的だ。ただ本作は、1734年のアルカーサルの大火で損傷し、保存状態はよくない。それでも、光と影の交錯は空気とその埃まで浮かび上がらせ、また回転する糸車はその瞬時をとらえられている、という見事さも失われていない。超近代的な画家の視点が想像されるような絵画だ。



7.晩年

王宮配室長、そしてサンティアゴ騎士団入団など、廷臣として栄達を極めていくにつれ、彼の宮廷画家としての時間はどんどんと削られていった。画家の職務の何倍もの時間が宮廷職に費やされなければならなかった。その総決算が1660年の4月、西フランス国境のフェザン島までの遠征の旅を挙行したマリア・テレサの婚儀であった。ベラスケスは王家一行の宿泊所、マリア・テレサとフランス王ルイ14世の結婚式、フェリペ4世とルイ14世の会見のパヴィリオンやタピストリーの装飾など、あらゆる準備をし、采配をふるわなければならなかった。6月末、帰還したベラスケスは「夜は歩き、昼には働く日々で疲れました」と友人への書簡にて告白、そしてその1ヶ月あまり後の8月6日、アルカーサル宝物館の自宅で静かに息を引きとったのである。(享年61歳)


8.まとめ

●画法
初期の頃は、細部まで観察して徹底的に描写する写実的な技法を中心としていた。光と影、人物の動作や表情、ガラスの透明感や輝き、器物の物質性、容器の表面を流れ落ちる水滴、どれをとっても、見たままを再現するという、客観的かつ科学的な観察視点に立ち、具体的な事実を徹底的に追求する、という姿勢が感じられる。

しかし晩年になると、全体的にどう見えるかを重視する描き方に変化していく。観る側の私たちがキャンバスに目を近づけると、ただ勢いのある筆跡しにしか見えない。ところが、遠くから見ると、衣服のしわ、表情豊かな指の動き、アクセサリーの一部などとして浮かび上がる。しかもそれらは決して乱雑に描かれてはいない。筆の動きや絵の具の量が完璧に計算しつくされているかのごとく、最高の視覚的効果がもたらされているのである。


● マネほか後世の時代の評価

時は下って19世紀前半、マネはベラスケスを絶賛している。
マネがスペイン・マドリードの王立プラド美術館にてベラスケスの絵画に対面したときの衝撃は強烈なものであったらしい。マネはその時の様子を友人に向けて次のような書簡にて送っている。「親愛なる友へ(中略)。彼(ベラスケス)こそ画家たちの画家なのです。(中略)このすばらしい芸術の驚くべき一作、おそらく誰もが決してなし得なかった絵画の驚くべき一作こそ、カタログでフェリペ4世時代の有名な役者の肖像として記載された絵画です。背景は消える。黒い服を着て、生けるがごときこの善良な男を包んでいるのは空気なのです。」と。
ここで言う「空気」とは、ベラスケス絵画に特有の「雰囲気の魔術」のことであろう。それはまさに、「私たちが今、ここに、生きる現実の空間に、絵画上の人物が存在する」、ということと同じことをさしている。
ベラスケスの作品はマネのみならずルノワールを始め、近代の画家に数多くの影響を与えていくことになる。

● 最後に
彼は、当時は一般に顧みられることのなかった弱者、そして日常への揺るぎない視線を持っていた。フェリペ4世やマルガリータ、慰めの人々と呼ばれた矮人、道化、古代哲人たち、どの人物もともに「人間存在としての尊厳ある肖像」に描き上げている。つまり人間の本質、人間性を描いていく、という彼の根底の姿勢が貫かれているのである。ベラスケスの作品が「鏡のようなリアリズム」ともたとえられるのは、そういう意味でもあろう。

生涯貫かれた彼のこのような姿勢は、単に絵画の上ではなく、人間観上の革命とも言える。
ベラスケスの絵画に、深い洞察と革新的な挑戦の意図が見られるのも、生涯、宮廷に仕え、そこにおける伝統や因習を越えようと挑戦を続けたベラスケスの生きざまの投影ではないかと思えるのである。


●参考文献


















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