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ピントの浅さが見せるもの (連載「写真の本」3)


カメラが進化して、どころか、携帯電話が進化して、写真が有史以来最高の勢いで撮られている。
出典は忘れたが、なんでも全世界で歴史上撮られた写真の総量の9割がスマホ普及以降に撮られたものだという話もある(真偽は不明だがありえる話ではある)。
ちなみにスマホはどうしてスマフォじゃなくてスマホなんだろう。
どっちでもいい話だった。

先を続ける。

昔は写真というのは難しいものだった。
まず発明された頃は芸術ではなく化学だった。
技術が進んでカメラが小型化し、専門家でなくても扱えるようになり、「押せば写る」簡易なものも生まれたが、それでも報道や芸術や記録できちんとした写真を写そうと思えばそれなりに必要な技術や約束事があった。

ピントを合わせる。露出を合わせる。
そんな最低限の決まりさえカメラが自動でやってくれるようになって、そしてついには写真機は電話機にその座を奪われようとしている。
コダックの創始者はこんな未来を想像できただろうか。

スマホでじゅうぶんキレイな写真が撮れる。カメラなんかいらないよ。
本当に?
僕はまだガラケー星人なのでスマホで写真撮ったりしないのだが、アップルがCMで流す写真や動画、もしくは知人が見せてくれる、または送ってくれるiPhone画像を見るにつけ、たしかにキレイに写るなぁと思う。

ただし、「キレイに写る」ということの意味が、とことん狭小化されているように感じる。
モニターで見る限り、必要十分な解像度を持ち、階調を持ち、見栄えのいい彩度とピントのエッジを持っている。
プリントしても、そんなに大きいプリントサイズでなければ、なかなかもって「十分な画質」だ。
もちろん各種アプリで◯◯風な画像加工も練られている。
「スマホで十分じゃん」
みんなそういう。
なんかイライラする。
スマホで十分じゃん。
十分、って何なんだ。
ゴールはここでいいのだ。そのゴールはスマホに超えられる。だからOK。
十分、とはそういう意味である。
写真なんて、所詮そんなもんだよ。そう言われているのである。
写真にかわって言わせてもらおう。
黙らっしゃい。

まぁ、実はそんなに怒ってなんかいない(笑)。
みながみなスマホの「キレイ」で満足しているなら、わたくしは粛々とその先へ進ませていただくのみである。文句を言う筋合いではない。
ただ、ソフト的に背景をぼかして「ポートレートモード」とか喜んでいると、「背景には焦点が合ってない」という光学的な意味合いから乖離して、「後ろがボケていれば素敵な人物写真」みたいなつまらない記号化が進行し、人間の視覚と現象の関連みたいなものが失われて妙なことになりはしないだろうか、などとジジくさく心配するだけだ(わたくしもついに50歳になりました。関係ないけど)。

・・・・・・

ひところ、写真家の本城直季がビューカメラを使って実際の風景をミニチュアみたいに見せている写真が話題になった。
俯瞰で実際の風景を撮影してるのだが、アオリという技術を使ってピントの深さをコントロールしている。具体的にはピントの奥行きを極端に浅くすることによって距離感を狂わせているのだ。
人間の目でも、その人間の目をモデルに作られた写真レンズでもそうだが、遠い景色を見ると広範にピントが合って見えるけれども、近くのものを見れば見るほどピントの合う範囲が狭くなる。
ためしに目の前に自分の指をつきだして先端にピントを合わせてみてほしい。指は鮮明に見えるが、その背景はボケて見えるはずである。

ピントには深さがある。写真用語でこの深さのことを被写界深度という。
なんか堅苦しい言葉なので、ここでは「ピントの深さ」と言い換えることにしよう。
「ピントの深さ」には法則があり、写真を勉強する人はまず教科書の最初にこの「被写界深度の四則」が出てくるくらい重要な知識である。
カメラのレンズでいうならば、この四則とは

1)ピントは遠くを見ると深くなり、近くを見ると浅くなる
2)ピントは絞りを絞ると深く、絞りを開けると浅くなる
3)ピントはワイドレンズを使うほど深くなり、望遠レンズを使うほど浅くなる
4)ピントの深さは、ピントを合わせた一点の、前に浅く、後ろに深い
( ↑ 別に覚えなくても読まなくてもいいが、写真を勉強しようかという人なら、まぁ覚えておくべきだろう)

ということになるのだが、最初の1番目の法則は人間の目にも当てはまる。
もちろん言葉として理解しているわけではないが、遠くを見たら全面にピントが合って見え、近くを見るとピントが浅くなる、というのは、写真の教科書を読まずとも、みなが経験として知っていることである。

本城直季の『small planet』という写真集が話題になったのは、実際の景色を写した写真なのに、なぜかミニチュアを写したような写真に見えるという不思議さからだった。
俯瞰で撮られた競馬場や街や遊園地のプールや工業地帯が、小さい模型のように見える。

『スモールプラネット 本城直季写真集』
本城 直季
リトルモア

 → 本城直季のweb siteへ

経験的に、人は遠くを見れば全面にピントが合って見えることを知っている。逆に言えば、ピントの浅い写真を見れば、無意識にそれはすごく近い距離で見ている景色だと脳が勘違いするのだ。

本城直季はビューカメラ(昔の写真屋さんが大きな布を被って撮影していたアレ、といえばざっくり想像できるだろうか)を使っていて、そのビューカメラはレンズとフィルム面の平行(普通のカメラはそうなっている)を意図的に崩すことができる。
レンズとフィルム面の平行を崩すとどうなるか?
技術的な説明は省くが、ピントの合う「面」を恣意的に操作できるのだ。
技術的な説明は省く、といいながら一点だけ説明するならば、カメラのピントというのは普通、「任意の一点と、その一点を含む、フィルム面と平行な面」に合うようになっている。
そのピント面には前後に見かけの深さ(ピントが合って見える奥行き = さっき出てきた「被写界深度」)があり、遠景はこの深度が深いために、すべてにピントが合って見える。
ところがビューカメラでフィルム面とレンズ面の平行を意図的に崩すと、ピント面は下図のように変化する。


普通に遠景を撮れば全体にピントが合ってしまうのだけれど、このアオリ操作を極端に使えば(例えば逆方向にアオったりする)ピントの合う面を極端に浅くすることができる。
遠景なのにピントの浅い写真 → ピントが浅いから至近距離に違いない → ミニチュアだ!
となるわけですね。

・・・・・・

実際の風景をミニチュアのように撮る、という、そこまで特化した目的にアオリを使用する人はいなかったかもしれないが、わざと逆にアオることによって被写体との距離感を攪乱し、現実感を攪乱する撮影法は前からあった。誰の発明かは知らない。僕の知っている範囲でいうならば、キース・カーター『Holding Venus』という写真集がその手法で印象深い。
https://www.amazon.com/Keith-Carter-Holding-Venus/dp/1892041243

キース・カーターという写真家のことを、僕は詳しくは知らない。写真集もこの1冊しか所有してない。
web siteを見てみると、動物の柔らかいポートレートを不思議な焦点遣いで現実感を崩し、神話的に撮影している作品が印象深い。
とりあえずキース・カーターの写真についてはweb siteがあるのでそちらで見てください。いいですよ〜。
→ web site

本城直季のミニチュア化アオリは、逆アオリで遠近感を崩すことが主眼なのだが、同じ逆アオリでもキース・カーターの場合は時間的な要素を攪乱することに成功していると思う。
もともとキース・カーターは本城とは違って遠近感を崩すためにアオっているのではなく、最初から近景~中景を撮っているからもっと唐突な感じでピントのズレが画面内に出現する。ダマすのではなく、あくまで攪乱するのだ。
同一画面にピントの合った部分と合ってない部分があると、普通人はそれを距離のせいだと思うが、それが極端になると時間的な変遷をそこに探ろうとするのではないか。
ピントが徐々に合っていく、もしくは外れていく時間的な視線の運動を一枚の写真に感じられるようになる。その時間的な奥行きが、彼の動物写真の「神話的な」雰囲気を演出しているのではないかと思う。

本城直季にせよキース・カーターにせよ、言ってしまえば一発芸的な大技テクニック写真なわけだが、しかし、多分キース・カーターの写真は全く逆アオリをしなくても一流の写真として立てるものばかりだ。
逆アオリしなくても見られる写真をあえてボカしているのは、時間的な攪乱を狙っていると同時に、被写体そのものではなく、被写体の写っている物質としての「写真」そのものを、いろいろな距離から見ているかのような、そういう二重性が加わる、という見方もできる。

一画面の中に極端に配置されたピントのズレが、見る者にいろいろな錯覚を起こさせ、重層性を与えてゆく。本城直季にはこういう奥行きは(文字通り)ない気がする。
普段僕らが無意識に感じている世界の見え方とか奥行きとか法則が、僕らの脳内でいかに精密に規定されていることか。
そこをちょいと壊してくれるキース・カーター(や、本城直季)のような人が登場してはじめて僕らはそのことに気がつく。
そんなものがいかにモロい幻想か、ということも含めて。

(シミルボン 2017.6)

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