【102】Ars longa, vita brevisを拡張しよう

Ars longa, vita brevisという格言があります。直訳するなら——もちろん、「直訳」すら難しいという点が問題なのですが——、「学芸は長く、人生は短い」とでもなりましょうか。

これはもともとはギリシャの医学者であるところのヒポクラテスの言葉(を少し変形させたもの)とされていますが、ラテン語のかたちでよく引かれます。セネカを経由してラテン語で知られている、という歴史的条件が一役買っています。

冒頭のarsという語は、英語で言えばartにつながってくる語で、もちろん現在我々が「アート」ということばを聞いて思い浮かべるものと一致するわけではありません。

「芸術」という後で出てきた意味をさしあたってないものとするなら、arsは一方で、ギリシャ語のテクネーとほとんど一対一に対応する語であることからもわかるように、「技術」です。

が、他方で、現代ではliberal artsという表現に残る通り、「諸学」を表します。

今でこそartsはliberalとつけなければなかなか「学」という意味を持ちにくいようですが、かつては付加形容詞なしのartes(arsの複数形)が「諸学」としての意味を持っていましたし、大学の「諸学の学部」はfacultas artiumでした(artiumはarsの複数形属格で、およそ「諸学の」というくらいの意味)。現在でも、多くの学部において、学士の学位はBaccalaureus Artiumを略したB.A.ですし、修士の学位はMagister Artiumの略であるM.A.となります(もちろん国によっても学部によっても変わってきます)。

……このArs longa, vita brevisなる文言をどのように理解すれば良いかということについては諸説あると思われますし、ギリシャ医学の専門家でもない私が学問的な正確さを達成できるとは思われませんから、気まま勝手に読むという方針を堅持して進めたいと思います。


まず、Ars longa, vita brevisという警句は、日本語だとわりと「少年老い易く学成り難し」という言い回しでもって訳されることが多いようです。

この言い回しはもちろん、人間の一生というものはごく短いのだけれども、学問(や難しい事業)というものは学ぶのに長い時間を要するものであるから、寸暇を惜しんで勉強しなさい、という教えを含むものでしょう

こう理解することは、もちろん間違いではないでしょう。それどころか、ごくまっとうなことです。たとえば、19世紀の辞書編纂者であるエミール・リトレ——特に仏文学やフランス哲学をやっている人ならば知らぬ者のない、超ビッグネームです——において、このとらえかたはわりと明確です。リトレはラテン語のarsを明確にscienceと訳したのですね。つまりarsが「学」であることを強く意識して訳しているわけです。

上に見たような、諸学としてのarsに関して言えば、これは問題のない訳であると言えましょう。

大学の「教養学部」や、所謂リベラルアーツカレッジに関係するのは、多くFaculty of Arts and Sciencesであろうと思われます(少なくとも東京大学やハーヴァード大学はそうです)。もちろんこの学部名が前提するのは、恐らくはarts≒文系、sciences≒理系という区別ですが、それにしてもartsとsciencesは近い位置を占めうるのです。


このような理解はもちろん良いとして、他の仕方でもこの警句を理解することは十分に正当であるように思われます。

上に示した解釈は、不特定の個人に対して身を入れて学問に取り組むことを促すものですが、これに対して、学問そのものの価値を説明する文言としても、利用可能かもしれません。もちろん両者は表裏一体ですが、観点を変えることには価値があるかもしれません。

どういうことかと言えば、人間一人一人の命は短いけれども、一人一人が学に対してなした貢献というものは後にまで残すことのできるもので、学は変化しつつも世代を超えて存続するものである、ということです。その意味で、学問をやる・学問の営みに参入することには価値がある、という意味を、かの警句にはこじつけることができる。

arsがそもそも「技芸」をさしていたことを踏まえて広くとるのであれば、卓越した技術というものは後にまで残るのだから、目先の・現世的な利益などには関係のない、そして自分の一生などという短いスパンを超えて残る価値があるのだと思ってなすべきことをなしなさい、という戒めの言葉としても受け取ることができるかもしれない、ということです。

あるいは現世でうまく評価されない学者や、なかなか光の当たらない匠の技を持った人々に対する励ましの言葉としても、機能するものかもしれません。

はるか遠くを見据えて、自らの使命、ないしは垂直的な義務を持って生きる方もいらっしゃるでしょう。そうした人々は、楽しんでやっているにしても、必ずしも即物的には報われずにやきもきしているかもしれない。やきもきしている我が身を見つめて、自らの意思そのものをうたがっている人がいるかもしれない。

そうした人には、上に見たヒポクラテスの言葉(を曲解する作業)は、自らの使命を確認しなおして我が身を奮い立たせるものとして機能するのかもしれませんね、ということです。


ここまでで少しずつ言及してきた、arsという語の多義性に着目するなら、また別の解釈も可能であるように思われます。

arsがギリシャ語で「技術」を意味するテクネーの訳語としてほぼ一対一に対応するということは上で見ました。このテクネーは、多くの場合、エピステーメーなる概念と対になって現れます。

エピステーメーはフーコーが(『言葉と物』などで)やたら使った語なので、現代思想の文脈から理解される方も多いはずですが、ごくふつうのギリシャ語として「(学的な)知識」を意味するものです。ラテン語の文脈では、ほぼ形式的にscientiaと訳されます。言うまでもなく、学知を意味する英語のscienceの語源です。

こうして、ラテン語のarsは、(本来は、リトレによる仏訳に反して)scientiaとは異なる水準で捉えられるものでした。

そしてこのarsとscientiaの区別というものは、取りもなおさずギリシャ語のテクネーとエピステーメーの区別として存在していたものです。ことに後期アリストテレスにおいて顕著な区別で、前者が経験的な領域の技術を指す一方、後者はよおり普遍性を志向したものです。

arsとscientiaの、こうした古典的と言ってよい区別に鑑みるのであれば、次のようなことがこじつけられるかもしれません。

——ars=技術というものは極めて多い。多くて、学び切るのに長い時間がかかる。ラテン語では時空間的に「長い」ことを意味するlongaとされていますが、ギリシャ語で用いられている形容詞(女性形)はマクレーというものであり、これはあらゆる意味での長さとともに、豊かであること、量が多いことをも意味する語です。ということは、ars longaと言われることで前提されているのは、arsは学んでもキリがない、時間がかかりすぎる、人生は短いからそんなことをやっている暇はない、ということではないでしょうか

——ではどうするとよいのでしょうか。キリのないarsでなく、scientiaの方をこそ、小手先の技術ではなく知識・学のほうをこそ、一刻も早く身につける必要がないでしょうか。つまり、ars longaと言う背景には、より普遍的なscientia=エピステーメーを先に身につけようね、という態度がないでしょうか

これはこじつけの類ですが、学的な水準では正しさが保証されていない、と言うことを確実に断っておくのであれば、やってもよいこじつけかもしれません。

スキルと、スキルを活かす場や目的の差にも当てはまるでしょう。スキルは重要だけれど、いくら身につけてもキリがない。人生はそこまで長くない。であれば、スキルを活かす場や目的の方をこそ慎重に見定めるべきで、そちらの側から身につけるべき限られた数のスキルをはじき出す、というほうがよいのではないかしら、云々。

もちろんヒポクラテスがそう言っているわけではなくて、私が勝手にそう理解している——というか理屈をこじつけている——だけですが、ともかくarsとscientiaがもともと異なる背景を持った語である、という事情を勘案するのであれば、このようにこじつけて理解しておくことは、意思決定基準のフックを作っておくという意味において良いように思われます。つまり、小手先の技術は多すぎてキリがないから、それより前に、場や考え方のほうを身につける方に動くべきだ、と。


以上にのようにヒポクラテスの文言をこじつけて読解することができたのは、とりもなおさず、ラテン語と哲学史に関して多少の技能・知識が、つまり広義のarsがあったからです。

私が身につけてきたラテン語の知識——これはarsの類ですが——や哲学史の知識は実にこのように「役に立って」、波及効果が高いものとしてあるということです。

どういった意味で波及効果が高いかといえば、既存の現象——言葉でも出来事でも何でも良いのですが——に(無理やりに)解釈をこじつけて文脈を広げていく、という極めて強力な効果を持っているというわけです。

(このように文脈を拡張してゆく能力の価値は甚大なものですし、ご理解いただけることを切に願っています。)

もちろん、ラテン語をやろうねとか、哲学テクストを読もうね、とか申し上げるつもりは全くありません。

ともかく、自分の文脈を広げてゆけるような読解と表現の技術(ars)、ないし一定の解釈格子としての学問的体系(これも広義のarsでした)というものは、ひとつは持っていても良いのかもしれませんし、世界の解釈を積極的に行うための(言語的な)武器というものを少しずつでも育てていく意識は、誰しも持っておいてもよいのかもしれません。

もちろん私の場合には、そうした意識を持ってラテン語(を含む外国語)や哲学史を勉強したわけではありませんし、皆さんもいきなり新しいものを勉強しはじめるというわけにはいかないはずです。

しかし、人生は、生きている以上は生きなくてはなりませんし、生きるのであればどうあっても言葉を使うほかないのですから、現実を表現し解釈する技術、あるいは言葉を捉えるための多様な技術というものは、意識的にストックしつづけるほうがいい、ということは確かではないでしょうか。

何より、蓄えられた言葉や、言葉に関するarsは我々を裏切りません。ハイパーインフレが来ても目減りしない貯金ですし、人間の思考の速度が拡張現実によって跳ね上がるようなことさえなければ、価値が切り下げられることはないでしょう。

であるからには、言葉を用いる(小手先のものではない)技能や、(極めて長期的な、あるいは無時間的な)知識に対する投資というものを惜しむ道理はない、と言っても過言ではないように思われるのです。

軽めの言い方をすれば、よく言われる「自己投資」のひとつの形態として、現代の社会構造に適合した金儲けお役立ち情報などを摂取するのもよいとして、それはともかく、言葉に関する学と技術を身につけることは、(もちろん「金儲け」を志向しない人も含めて)万人にとってかなり良いオプションになるのではないでしょうか。