【99】欲望・蠱毒トーナメントは毎日開催

先日一万字を超える来歴を載せましたが、これは歴史学的な記述でもなんでもないからには、もちろん嘘だらけだ、とあえて言い切っても良いでしょう。

私でなくとも、人間の自己紹介などというものに関して、内容それ自体は信じるに値しないものです。あるひとつの内容を持った記述が強いて行われている(しかも人に見せるために!)という事実から透けて見える、筆者本人さえ知らない筆者の欲望の方を正確に見抜こうと試みることのほうが、誠実な、あるいは慧眼な読者の義務だろうと思われますし、書き手にもそうした読者があるという想定のもとで書いてもらいたいものです。実に読む・書く作業は、読者と書き手の頭脳戦です。

このような読み方を推奨するのは、私が少なくとも方法論という面においては、哲学よりも精神分析の方に傾斜しているからだと思われますし、もちろん虚心坦懐に・額面通りに私の記述を受け止めていただけるのであれば、それは望外の喜びというものですが、何にせよ、ある決まったメッセージを伝える以上の、あるいはそれ以外の効果が、常に想定されています。


今回の例でいくと、来歴を書いたことは、自らが存在しているということを知らしめる、という漠たるプロジェクトの一環ですが、さらに、自分自身を知るという目的がひとつ大きなものとしてあります。

来歴に限らず、私が文章を書いているのは、やはり他者に自分の言っている内容を伝え・自分自身の存在を少しでも知らせることでもありますが、結局のところ自分自身を知る、という目的があるということは否めませんし、この点は決定的に重要だと思われます。外に出すのっであれ、出さないのであれ、何らかの表現のうちにしか「自分」というものは見出しえないからには、私の場合は「書く」作業を通じて自分を知ろうとしているわけですし、そのプロセスはどこかで皆さんの役に立つだろうと考えています。

自分自身を知れ、というのは、古代ギリシャから言われる永遠の哲学的課題です。

アウグスティヌスもまた、彼の最も有名な著作である『告白』においては、キリスト教信仰を持つ以前にも、あるいは改宗しきれていないけれども信仰に至りきっていないときにも、またキリスト教信仰を完全に得た後でも、絶えず自分とは何か、自分とは何者であるか、という問いを反復しつづけていた事情が描かれています。

アウグスティヌスのような才気あふれる人でさえ(だからこそ?)そうなのですから、自分とは何か、自分とはどういうものであるのか、あるいは自分は何を欲しているのか、などということは、一つの答えを出して満足のいくものであるはずはないのです。

寧ろ、一つ仮置きの答え——これは真理というよりは自らの要求に基づく自己像の類です——を作ってそれを常に書き換えて行く必要があるかもしれませんし、あるいはとりあえず言語化された複数の自分というものを生きる可能性を想定することも十分に考えられるでしょう。そうした作業を通じて、「っ自分」という謎を解き明かしてゆく、あるいは「自分」を作ってゆくというなりゆきです。
(もちろん、言語化せずに不分明な自己を生きるということは、多くの人がやっていると思しき実践(ないしは非-実践)ですが、さしあたり考える必要はないでしょう。)

もちろんあなたの体はおそらく一つですし、あなたの精神も体を支えにしている以上は、結局のところは一つかもしれないのですが、人によって様々な現れ方・表し方がある以上は、ときに矛盾しあう複数の精神の表現があっても良い、と思われるのです。

矛盾していることが良いことかどうかは分かりませんし、統一されていた方が良い可能性もありますが、いずれにしても、矛盾しあう表現を複数持っておくということは、悪いことであるようには思われません。表現の複数性はもちろん具体的な行動の障害になる可能性がありますから、場合に応じていなしていく必要はありますが、ともかく複数の表現をたてることは可能です。私がやっているのはそういうことです。


一つのものを様々に組み替えていくのが正しいのだとしても、また複数のものを結局のところ束ねている自己というものを想定するのが正しいのだとしても、確実に言えることがあります。

それは、我々は神でないからには、自己というものは不変のまま止まるというわけにはいかない、ということです。そして不変のまま止まるわけにいかないということは、外部から常に影響を受けつづけている、外部のものを取り入れて自分を変化させるというプロセスを常に取りつづけている、ということです。

といううことは、表現のあり方も、そこに現れ、またそこで成立する「自分」も、大きく変わるということです。


こうした、常に変化する自己とそれに係る表現を想定するときに思われるのは、「蠱毒」というある種の呪術信仰です。

「蠱毒」がどこまで歴史的に研究された慣習なのかはよく分かりませんが、おおむね、たくさんの虫さんを一つの瓶の中に入れて、共食いさせて生き残った虫さんを、毒薬として使ったり、呪術の依り代にしたりすることです。

私が此の媒体の全体においてひとつ試みているのは、自分の欲望のかけら=文章群=無数に生み出した虫さんを用いた蠱毒のようなものだ、と言っても過言ではないでしょう。

もちろんこの媒体に書いている記述には、割と一般性を持たせようと試みてはいますが、結局のところ自分語りであるという側面はかなり強いわけです。

多くの記事で私が自分についての具体例をかなり入れているのは、もちろん例があったほうがわかりやすかったり、例があった方が親近感を持てたりするからです。

とはいえ、それと同時に、自分に引き付けられたことから出発するか、あるいは自分の生活/思索に跳ね返ってくるのでなければ、私にとっては書く意味があまり大きくないという点は見過ごしがたいでしょう。

ですから、私が普段書いている文というのは、私の分身としての小さな小さな虫さんだと思っていただければ良いわけです。

先日書いた1万字超の来歴というものもまた、少し大きなものかもしれませんが、蠱毒に使う虫さんです。こうした虫さんたちに共食いさせて、一匹残った虫さんがいれば、それは私にとって見るべき価値のあるものということになるでしょう。

毎日毎日私は虫さんたちに共食いをしていただいて、残っているものや、新しく迷い込んできたものを、毎日毎日新しい文章として公開しているのです。そしてまた、その新しい文章=虫さんは蠱毒のエコノミーの中に取り込まれて、食ったり食われたりするわけです。この年中無休・毎日開催の欲望蠱毒トーナメントを介して、欲望をたちあげることが、ひとつ重要な目的になるといってよいでしょう。

共食いの末にどんな毒性を持つ虫さんが出てくるのかは分かりませんし、これは結局終わらないことだと思います。

しかし一つ言えるのは、一つ一つの書かれたもの=虫さんは、完全に無駄になるということはない、ということです。生き残ったものはもちろんですが、食われた虫も、食った虫の血肉となって、「自分」の一部をなしていくのだと思います。

この意味において私は、先ほど申し上げた一つのものを少しずつ変えてゆく、という考え方にも、そこまで強い違和感を示すものではありません。これまでの共食い蠱毒トーナメントのなかで生き残ってきたものは、たしかにひとつの大きな虫さんになっているはずですから、これがすぐに食われるということはないかもしれません。この虫さんが、今後投入する虫さんを食べてどのように変化するのかを楽しむ余地があるということです。

ただし、先日示した来歴に近い、わりと大きな虫というものをまた別に立てて、生き残ってきた歴戦の強虫と相食ませることができる、ということも確かであって、此の限りにおいて、複数のものを戦わせるモデルも十二分に可能でしょう。

どちらにせよ、私は大小の文章を書きまくるという行為を通じて、それらの文章に共食いさせているわけです。共食いの様子は皆さんには見えないかもしれませんが、私の心の中では常に起こっていて、その結果として何が残っていくかということが、私の一つの関心になっている、ということです。


蠱毒という例えがあまりよろしくないように思われるのであれば、皆さんは好き勝手にご自身のお好みのアナロジーを立てていただければ良いのですが、ともかくごく個人的なことを抽象化して申し上げるのであれば、次のようになるでしょう。

・文章を一つのみならず複数書いていくということは、もちろん第一には他者に対して自分の存在、あるいは自分の言いたいことを知らしめるためかもしれません。

・しかし同時に、自分自身(の欲望)を知っていくプロセスとして、(自分についてのものに限らず)表現を様々に立てて積み上げてゆくことは、是非とも必要ではないでしょうか。

こうした内容を持ち帰っていただければ、私が今回放った虫さんは十分にその役割を果たしたことになるのだと思われます。