【98】まばゆい輝き(である自分)を複数のプリズムにかける

論文は数ページほど書いたら、書くごとに手直しをします。私の場合、そうしなければ、後に残る量がとんでもなく多くなって、大変なことになります。

日本語で書くにせよ、外国語で書くにせよ、単なる変換ミスや、表現上の誤りや、文法上の誤りのみを訂正するにとどまらず、査読にかける前、あるいは提出する前であれば、文体を統一するためにも、そもそも論理の組み方の適切さを検討するためにも、自分が書いた文章は幾度となく読み返す必要があります。

(その点、この場に書いているものなどは、ほとんど読み返さずに書き散らかしているので、お見苦しいところがあるかもしれません。)


論文をそのように見返す際には、よく言われることですが、画面上のみでやる人は、この時代にあってもなかなか少ないものです(ひょっとしたら人文系だけかも知れませんし、特に情報系だとGitでやりとりするのかもしれませんが)。私ももちろん、ある程度書いたら印刷して手を入れます。

単に、ディスプレイを凝視していたら疲れるから、ということもありますが、それだけではありません。デジタル・ノンネイティヴにとっては、紙のほうが緻密に読んで緻密に直せるのです。画面のままではなかなか文章を緻密に処理するのは難しいところがあります。書いているときにはまったく気づかないものに気づける、ということです。

私が個人的にやっていて、あまり他の人がやっていると聞かないのは、ある程度の長さの文章に関して、複数のフォント・複数のレイアウトで印刷して、全て読んで直す、という作業です。こちらではフォントはGaramondにするけれども、向こうではPalatinoにする、こちらではHelveticaにする、といったように、数パターン用意して全て読み返すのです。

何をそんな無駄なことを、とおっしゃるかもしれませんが、フォントを変えると字の絶対的なサイズが変わる以上、改行の位置も変わりますし、文章から受ける印象というのもかなり変わってくるものです。もちろん内容自体を大きく変えるということはないにしても、フォントを変えるという一手間を加えるだけで、目が引っかかる箇所がずいぶん変わってくるのです。Palatinoのままでは気づかなかったミスに、Garamond Premier ProやHelveticaにしてやっと気づいたということは少なくありません。

しかし、紙でのチェックが常にサイコーだというわけでもありません。不思議なことに、画面上で文章を読み返して、紙では気づかなかったところに気づくということもあります。

例えば先日は、仏語論文において引用していたラテン語をチェックしていたときに、あるパラグラフで修辞疑問(書き手の側が確かに持っている主張をあえて疑問形で提示する修辞技法)を使いすぎていることに気が付きました。この点は、紙で読んでいてもなかなか気づかなかったところです。

紙というプリズム(分光器)では気づくことのできなかったミス、ないしはマイナスポイントが、画面上での見直しの作業というプリズムを通すことで見えるようになった、ということです。

既に書いた文章の輝きというものは、多くのプリズムにかけて眺めなおすことで数多の光に分けられて、修正すべき箇所を明確にあらわす、ということです。

極端なことを言えば、査読してもらうのも別の観点から読んでもらうということですし、指導教員に読んでもらうのもそうですし、またプロの添削者——プロといっても、もちろん学術的内容の専門家ではないから、語学上の、ということになりますが——に読んでもらうのも、文脈を拡張するなら、異なるプリズムを導入する、という作業であるように思われます。

論文であれなんであれ、長い文章を書いた経験のある方であれば、経験のあることかと思われます。


ヨガを週1で習っていても、似たようなことを感じることがあります。

あるひとつのポーズを取るときに、ポーズの理想形のようなものは何となく思い描かれているのですが、そこに至るための言葉遣いというものは大いに変わってきます。

私が良くないポーズをしている時にも、筋肉をどのように使うかということに関する指示の仕方は色々あります。

前鋸筋の働きを意識して、とか、
地面を蹴って空中に頭突きしてるイメージでやって、とか、
首を伸ばすイメージで、とか、
肩甲骨を(下半身側へと)下げるイメージで、とか、

これらはどれも手を上に上げるとき・下向きの犬のポーズ(ダウンドッグ)をとるとき・前屈をするときに共通して言われたことのある表現ですが、結果としては全てが協同してひとつの事態を成立させるものです。

同じものであっても、それに至るための観点・経路というものは複数ある。あるいはひとつのものが持ち合わせている成分は複数ある。それは然るべき能力を持った人でなければ分解して示すことができない場合が多い。あるポーズという光は、然るべき知識を持った人が分解して示さなくてはならないし、そうした分析を経て初めて実践的な営みが可能になる。

そうして分解されているデータがあればこそ、私の身体的状態に応じて適切な指示を与えることができるというなりゆきです。


とかく重要なのは、特に私たちが大事にやりたいことであれば、様々なプリズムを介して物を見てみる、ということではないでしょうか。

もっと文脈を拡張するのであれば、自分自身の持っている欲望とか、自分自身の強みとか、自分が人間関係や社会において果たし得る価値とかいうものも、自分一人でなんとなくぼんやり考えていてはなかなか思いつかず、正確に見定められない、ということがあるからには、不分明なただまばゆいばかりの自分の精神の光を、その都度適切なプリズムにかける必要がある、ということです。

何かができる気がする、何かをやりたい気がする、そうしたエネルギーのようなものは感じられる。けれどもはっきりしない。そうしたケースは少なくない、ということは確かでしょう(と、願っています)。

だからこそ、

備忘としての日記を見ながら自分の実績や経歴を改めて振り返るとか、

あるいは、そもそも自分の意識に立ち上りようのないものを引きずり出してもらうために友人やもう少し別の人と話すとか、

あるいは、自分でフリーハンドで書いていては普段意識していることしか書けないから、ある外的なフォーマットに即して語ってみるとか、

またもっと雑駁なところで言えば、心理テストの類を受けてみるというのも良いでしょう。

(もちろん心理テストは多分に誰にでも当てはまることを言いがちですから、つまりバーナム効果を働かせがちですから、割と真摯に作られたものを参照する必要がありますが。)

ひとつのプリズムだけでは、ある光がどういった波長の光を含んでいるのか、ということははっきりとは見えないものです。あるいは同じプリズムを使うにしても、様々な角度から光をあててみなければ、わからないところだらけかもしれません。

これは他ならぬ自分というものにも当てはまるのではないかと考えられます。

あまりに有名すぎて引用するのもためらわれる「彼を知り己を知れば百戦殆うからず」という文言は孫子にあらわれるものですが、戦闘の場合であれば、勝利という目的はわりあいはっきりしていますが、生きていくにあたっては、そもそも何が自分にとっての勝利かということもきちんと理解しなくてはならない点で、周到な準備が必要になります。

自分自身を知れ、ということは、デルフォイの神殿に刻まれた文言ですし、アウグスティヌス『告白』も或る種自分の魂に向き合う試みですが、これは何も哲学史上のある時点において解決されるようなものではありません。

特に哲学的に洗練されたかたちを取る必要はないにせよ、各人が取組まねばならないことであるように思われます。


先日、簡単なプロフィール+来歴を書きました。独りよがりになったところはあるにせよ、ここに書くというかたちで自分の経歴を振り返る機会とする、というのは一個の重要な目的であったように思われます。

もちろんこの振り返り方は、書いた時点での振り返り方にすぎないので、今振り返ればまた別の振り返り方があります。書き加える部分・抹殺すべき部分はかなりあるはずです。

そもそも、全く別のプリズムを持ってくることも十分に可能でしょう。テツガクテツガクしていない人生を語ることも、その都度読んできた小説に即して語ることも、語学修行者としての来歴を見せることもできたはずです。

もちろん、あるときにある文章を書いたということにはそれなりに意味があると思いますが、やはりあれだけではいけない。日が経てば別の眼差しがある。そうして気持ちを新たに自分の来歴を見直す必要もある。

生活や来歴の全体を見据えるときには、あるいはそうした全体的なものを振り返る際には、文章を手直しするときよりも、その都度のプリズムのどれが良いか悪いかを判断することは難しく、しかしその都度、ときに対立しあうものの中からどれかひとつをはっきりと選び取らねばならない面がある。

そうして積み重なった複数の見え方・複数の分析のありかた・複数のプリズムを争わせてみて、もっと良いプリズムを作ってゆく必要がある。

私は読んで書くということにかけてはおそらくは多少の強みがある人間ですから、読むテクストと、自分で書くという作業をプリズム(分光器)としながら、読むテクストと書くスタイルを調整しながら、そうした分光の結果をバンバン争わせてゆきたいところです。

恐らくはその運動を反復するところにこそ、おぼろげな確信がたちあがる余地がありうるのでしょう。