【124】「自分の人生」なる幻想に別れを告げる

身の回りに自分より明らかに(特定の分野において)優秀だと思えるような人間がたくさんいるというのはとても幸せなことですが、そうした人たちが不幸に生きている(と自分で述べている)のを見るのは苦しいものです。

ふわっとした言い方にはなりますが、優秀な人間が不幸だというのは、なんらか不当な感じを与えるものです(もちろん、知的能力の優劣に応じて「幸福」が配分されるべきだ、と言うわけではないにせよ)。

ある知人は勉強に長けており、中学・高校と優秀な成績で通し、誰もが知る一流の大学に順当に入り、大小様々な団体を立ち上げて課外活動にも積極的に勤しんでおり、今は立派に文明の一部を担っています。

そういう人がいます。

しかし、彼の独白は、輝かしく見える印象を裏切るものです。

曰く、どうにも小さい頃から頭がいい・天才だと親や周囲から扱われてきたため、自分のやりたいことのようなものがない。他者から評価されることでしかやる気が出ない。だから資格試験の勉強などをいつまでもやっている。……およそこうした、自嘲めいたことを、若干の絶望込みで表明しているのです。

彼が悲観的な、というか自己評価の高くない人間だということは薄々わかってはいたのですが、知らぬ人が見れば彼の考え方は衝撃的でしょうし、私も私出、彼の文章を読んで少しくショックでした。

あくまでも私から見れば、ですが、彼は課外活動も積極的にやっているし、仕事もこなしながら資格試験などの勉強をしていて、寧ろその活力を見習いたいくらいです。とても高いポテンシャルを持って、しかも発揮しているように思われる。

でも彼は、自分がやりたいことを持っていない、持つことができないということに非常なコンプレックスというか、挫折感を持っていて、そこをある種悲観的な考えの出発点としているようなのです

そして彼は、「自己啓発」への不信をまさにこの点に見出しているのですね。つまり自己啓発は(少なくとも名目上は)個々人の幸福を目しているのに、自分に固有の幸福の姿を思い描かない(描けない)人間には極めて冷淡で、拒まれているようだ、と。


彼に限らず、自分の考え・自分の基準などを持つことをABCのA、第一の出発点に据える人は多いように思われます。そうすべきであると推奨する「自己啓発」に関わる言説も多く出回っています。多くの方が、きっと「自分がどう思うか」「自分がどうしたいか」ということが大事である、広く言って人生を生きていくためには自分の価値観というものが一番大事だ、ということを認めたがるのではないでしょうか。

やりたいことがある状態、明確なやりたいこと、明確な目標のようなものがある状態を前提する態度が無意識レヴェルで与えられているからこそ、彼のように、内発的にやりたいと思えることがない状態にある自分を責めるような発想が出てしまう、という事情があるのではないでしょうか。

彼のように優秀であらゆる意味でポテンシャルに満ちた、勉強という場面のみならず様々な分野において優秀さを発揮している人間が、そのように悲観的な態度をとってしまうのは、私からしてみれば非常に勿体無いように思われます。

余計なお世話だと言われそうなものですが、ちょっと黙ってはいられない、と思われる面があるのです。


以上が言い訳(prétexte)、というより先立するテクスト(pré-texte)ですが、もう一つ前もって述べる必要があるのは、以下は戦略的な極論であり、平素の記述と同様に、私の「本心」などではないフィクションだということです。フィクションはフィクションとして気合を入れて書いていますし、フィクションだというのは我々の言語的営為が全てフィクションである、という意味においてですが、とまれフィクションです。

解毒剤や薬はそれ自体毒で、用法・容量を誤ると致命的ですし、禁忌となる要件もあります。「うるせー、俺は自分のやりたいことをやっているんだよ」という方への投与は禁忌ですから、読まないでください。宛先によって表現されるべきことが変わりうる、という単純な事実が腑に落ちていない方は、お読みいただいても時間を無駄にするだけで、お互いに不幸です。

私がさしあたってこの記事において距離を取りたいのは、そうした愛すべき単純さ、自らの欲望の(内容でなく)構造に対して疑いを持つことのない単純さに対してです。

しかも以下に示すのは、本当に解毒作用があるかどうかもわからない——なぜなら誰も試したことがないから——解毒剤ですから、大きな期待は無益です。


まず確認しておきたいこととして、私たちの「望み」のようなものは、所詮は言語的なものです。あるいは認識に基づきます。

ということは、どこまでいっても借り物だということです。アリストテレスを引くまでもなく、認識能力としての知性の受動的側面は見過ごしがたいものです。

絵を描きたいというのは先行者が絵を描いているからです。絵を見たことがないのに絵を描きたいと思う人はいない。完全に内発的に絵を描きたいという望みを持って生まれてくることは絶対にありえない。外界の情報に触れて初めてやりたい気持ちが起動するのですし、それは個人が自分の中に持っているものなどでは決してありえないというわけです。

研究をしたいなどという気持ちは、もっと確実に言語的なものでしょう。研究なんか、やってみなければ、あるいはやっている人を見て論文を読むなどしなければ、やりたくなるはずがない。

漠然と夜空を見て星について知りたいと思うことはありえても、多少なりとも知識を入れてゆけば、そちらの側から、つまり既存の外的な知識の側から、言語的に限定された欲求が喚起されるものです。

具体的なかたちをとった研究になってくれば、欠落を補うという「研究」の、あるいは研究者共同体の欲望を、「明らかにしたい」という個人的に見えかねない表現の形式を用いながら個人が引き受けることになるでしょうし、研究の公共性は部分的にはそうして担保されるものです。

実験をするにしても、それは既に承認されたプロセスに従うということです。先行者の書いた文献を読んでその欠落を補ったり新たな観点を示したりすることは、とりもなおさず集合的な欲望の営みに参入することです。

別に悪いわけではなくて、研究やりたいなどというのは、自分の欲望ではありえず、他者の欲望を引き受けているにすぎない、というわけです。

他者の欲望を引き受けている自分は確かに自分ではないか、と思われるかもしれませんが、そうして欲望を引き受ける自分の態度もまた、自生的なものではありません。どこまで遡ればよいのかと言えば、それは精神分析の領域に、あるいは個々人の精神の系譜学に委ねられることになりますが、内発的な何かを前提するのは、あまり正しい態度とは言えない。

何も私は外部決定論を積極的に説きたいわけではなくて、あなた独自の・自分独自の欲望なんてものはない、という否定的な側面を確実に強調しておきたいのです。

抽象的に繰り返すなら、認識にもとづいて言語的に構築される欲望は内発的なものではなく、どこまでも借り物だということです。


派生的なこととして、自己評価というものもある種他者からの評価にすぎません。言語というレンズを借りて自分を評価するということですから、自分で自分を評価しているように見えて、他者の欲望によって自分を評価しているのです。もちろん自己評価に関して、評価する主体は評価される客体に極めて近い位置にありますから、見え方は特殊ですが。

こうして見ると、初めに見た「彼」が自分を責める材料として使っている、「(試験等を含む)他者とかによって評価されることにしかやりがいを見いだせない」ということも、全く悪いことではないと思うのです。

他者からの評価を軸にしながら生きていくこと、「自分の」目標というものを持たずに生きていくことは、なんら悪いことであるようには思われません。

寧ろ、そのことをはっきり認識できているのは、極めて洞察に満ちた態度ではないかと思われるのです。

それに、他者に評価されるということを突き詰めてゆけば、きっと自分独自の評価基準などというものを持たなくても、きっと社会に何かを還元することにはなるでしょう。その効果として、端的に言えば、物質的にも豊かになっていくでしょう。

他者に評価されることに幸福を見出せないのとするのであれば、それはもちろん不幸なことですが、それは寧ろやはり独自性に係る幻想、自分独自の何かがあるという極めて軽薄な幻想、前向きな人であれば軽々と受け入れられるかもしれないけれども反省することを知っている人間にとっては受け入れることが極めて難しく、受け入れる必要もない幻想を、受け入れてしまっているからではないでしょうか。

そんな幻想は、はっきり申し上げて、うっちゃっておけばよい。というより、幻想が幻想であると納得してしまうと、その幻想をもう一度同じ形で受け入れることは不可能でしょう。だからこそ今一度覚悟を決めて、独自な人生という幻想に、「自分の人生」を生きると言い幻想に、別れを告げてはいかがでしょうか。

極端なことを言えば(というか、先程から極端なことしか書いていませんが)別に人生の目標を、「試験で点を取ること」に据えようが、「名誉ある職に就くこと」に据えようが、「モテること」に据えようが、どうでもいいではないですか、ということです。他者に評価を委ねていても良いではないですか。というより、そうした認識を持つしかない人もいるのではないですか。

他者に評価されるという軸(のみ)を持つことの何が悪いのか私には分かりませんし、自分のやりたいこととか、自分の気持ちみたいなものを過剰に押し出すタイプの生き方というものには、なかなか賛同しづらい。なぜならそれもまた、尤もらしい「独自性」で、他者の欲望の帰結に過ぎず、寧ろ「独自なんです!」「自分のものなんです!」と言い張られるたびに、認識が不徹底であることがかえって浮き彫りになるからです。

自分の人生に関してまやかしのイニシアティヴを本当に持とうと努めて苦しむよりは、冷徹に借り物の人生を生きるほうが、よほど善くはないですか——もちろんその中で、虚構としての前向きな自分を、「自分の人生」を生きることは、十分にありうることですが。


同じようなことが、義務に従って生きる、ということについても言えるでしょう。義務を毛嫌いする人がいる、というのはたしかにいます。義務に従って生きるのは自分の人生を生きることではない、というわかりやすすぎる論理です。

しかし、人間が動く理由、ないし理由に与えられる表現はもとより様々です。そして自分の欲望が他者の欲望であるのだとすれば、義務に従って生きるのも、自分の(しかし自分のものでない)望みに即して生きるのも、(もとより不可能な)主体性のなさという点では等しい。義務が個人の自由を否定する拘束である、という考えを受け入れられるならそれはそれでよいのですが、そんな考えはいかにも浅薄ですし、或る種の反省能力がある人にとってみれば、義務も「自らの」欲望も大して変わらないという成り行きです。

ある種の義務に拘束されて生きることを人生の至上命題に掲げるのはまったくおかしなことではありませんし、義務の表現を介さなければ動かない人間もいる。或る種の人間は、義務がなければ動けないものです。

これはある種の修道士のモデルかもしれません。修道誓願を立てる際に人は自らを神へと、神及び隣人への愛の実践へと拘束するわけですが、それを愚かだと感じる人とか、嘲笑う人というのは、はっきり申し上げて教養のない人でしょう。というよりも、自分とは根本的に異なる精神的態勢を考慮に入れられない人、あるいは「自分の欲求」のような哲学的に極めて薄弱な観念に従わない人生もあり得るということに思いをいたすこともできない人だけが、そうした考え方を否定するのです。

(もちろん、「宗教」がそれ自体不合理で愚かだと考える傾向もないわけではなく、この観点からすれば、修道士に言及する私がおかしな人間ということになるかもしれません。しかし、別の仕方で繰り返すなら、「人は自分の利益のために動くものだ」という信念も、同じく侮蔑的な意味で用いられる「宗教的」という語で形容するにふさわしいものだということは、はっきりさせておく必要があるでしょう。)

こうして、義務に従って生きるということだってありうるわけですし、それは他者の欲望を借り受けて自分の欲望であるかのように思いこみながら生きていくのと比べてどちらが良い悪いの問題ではなく、どちらもありうるということではないですか。どちらも「自分の人生」など生きていないのです。であるからには、そう気づいてしまったからには、、言葉が見せているそんな幻想には別れを告げましょうということです。再び出会うためのaurevoirではなく、二度と会わないためのadieuです。


別に他者の評価を軸にしようが、義務を軸にしようが、別に良い、というか非難される謂われはありませんし、自分が避けがたくそうだからといって、何かを気に病む必要はない。寧ろしっかりと他者からの評価を得て、しっかりと義務を遂行することに血道をあげることには、或る種の美しさがあるように思われます。

どれほど独自にみえる人間であっても、他者の欲望を借り受けながら生きているからには、同じ穴のムジナだということです。ありうる差はせいぜい、自分がムジナであることを知っているムジナと、自分がムジナであることを知らないムジナの差です。どちらがよいかは別にして、経験的な知識を都合よく忘れるのは困難なことです。

……初めに断っておいたにも拘らず、自分でやりたいことのようなものを確実に持っている、と信じて疑わないのに、ここまで読まれている方もいらっしゃるかもしれません(いないことを心から祈ります)。信じ込めているのならばまあそれで良いのですが、ひねくれ者としては、その欲望というのはあなたの欲望ではない、ということは再三強調しておきたい。これはひねくれ者のしっぺ返しのようなものですし、ひねくれ者がひねくれ者に与える慰撫の類です。信じ込めるのであれば、その人にかける言葉は特にありません。

私は他の記事では前向きなことばかり書きまくっていますし、そうした方が絶対に良いということは明らかでしょう。さらに言えば、自分の欲望に確信を持てない人にも、義務に従って生きるほかない人にも、役に立ちうると思われるからこそ、書いているつもりです。つまり当初から私は、自己啓発に乗り切れないけれどもよく生きたい、見る人が見ればアンビヴァレントな気持ちを持っている人のために書きたいのですよ。

しかし、そもそもの入り口、前提として求められそうなのは、あるいはきちんと見なくてはならないと思われるのは、あなたの欲望の形式はさしあたって適切な洞察に近づいている証拠であるから、そのままでよい(というか、もう引き返すことはできない)ということです。

独自の望みを持って生きているように見える人、「自分の人生」を生きているように見える、あるいはそう確信している人に関しては、彼ないし彼女がそうであるという幻想に別れを告げるということですし、これはとりもなおさず、なんら独自でありえない、自分の人生を生きていない自らに赦しを与えるということでもあります。

もちろん単に赦されたからといって、すぐに何かになるわけでもないでしょう。とはいえ、どこに向けて歩んでゆくのであれ、独自の自分であることが(さしあたり)できないということを赦さなければ、あるいはそれが当然だと思ってみなければ、世界に自分を縫い付ける最初の一針を進めることさえできないはずですし、この一針は決定的に重要なのだと思います。


別にこの文章を冒頭に挙げた「彼」が読むとは思いません。

それでも無数の「彼」がいるという直感はあり、この直感は恐らく間違っていないでしょう。すぐに読まれるのかどうかは知りませんが、或る意味でそうした人々への贈り物を、どこかに積んでゆければよいのだと思います。