【23】借り物の言葉で借り物の人生を生きる皆さんへ

借り物の言葉で借り物の人生を生きる人たちを貶める意志はまるでなく、そうした人たちを貶めて溜飲を下げる方々のご期待に添える内容でもないことをあらかじめ申しあげておきます。


借り物の人生を生きる人々(を批判する人々)

この世の中には、借り物のような目標を生きつづける人たちが多くいます。
具体的な人名を挙げるようなことはもちろんしませんが、借り物のような目標の例を挙げることは容易いと思います。
もはや陳腐すぎて実際に言っている人がいるのかどうか怪しいですが、
「南の島で悠々自適に暮らしたい」
とか、
「タワーマンションの最上階に部屋を持って毎晩パーティーをしたい」
とか、
「不労所得年何億円の優雅な生活」
とか、
「自由人!」
とか、そういった類の目標のことです。
多くの人が、こういった目標を、別段まともに捉えることなく、冗談の一つとして消費しているようです。
が、いざ大それた目標を立てなさいと言われたら、真っ先に浮かびそうなものであることもたしかです。
こうした光景は、少なくとも一部の人にとっては想像しやすいものだと思われます。

このような安っぽい目標に対しては、ある種の自己啓発ないしはある種のビジネスマンはかなり冷笑的な態度をとることと思われます。
その中でもよく用いられるレトリックというのは
「お前はそれを本当にやりたいと思っているのか」
つまり、
「本当にお前は南の島に行きたいのか、不便だぞ」
「本当にお前はフェラーリに乗りたいのか、燃費悪いぞ」
「本当にお前はヴィトンやらグッチやらエルメスやらを身につけて歩きたいのか、よくて成り上がりだぞ」
「自由ってなんだよ、お前、はっきりした観念を持っているのかよ」
と、馬鹿にしたような、呆れたような問いがよく振り出されるわけです。空中戦が展開されるという次第です。

抽象化するなら、一見優雅に見えるからこそ多くの人を惹きつけるような、浅薄な借り物の目標を糾弾する際に振り出される主張は、基本的には
「それはお前の本当の欲望なのか」
という問いの形式をとります。
あるいはこの問いはもちろん修辞疑問ですから、
「それはお前の本当の欲望ではないだろう、よく考えてみろよ」
という、自問自答を促す文句、つまり或る種のpromptであります。

さて、私が借り物のような目標を最初に掲げたのは、そうした目的を掲げる人たちを糾弾したいからではありません。
かといって、そうした目標を掲げる人たちを小馬鹿にする人の方をさかしらに糾弾したいわけでもありません。
正確に言えば、そうした借り物のような目標を持つことを批判している人々が、果たして借り物でないなにか本当の目標を持つことについて本気で考えているのか、という疑念があり、寧ろ今回はその疑念を扱ってみたいと思っているのです。

言語も欲望も全て借り物でしょうに……

さて一定の時代・地域の哲学・思想に触れている人にとってみれば、言語を用いるということ、つまり話したり書いたりする営みが究極的には引用の反復であって、自分独自の言葉などない、という発想は容易に受け入れられるものだと思われます。
もちろん、哲学などに親しんでいる必要はありませんから、極めて恣意的に、わかりやすく、それゆえ正確さを犠牲にしつつ説明するのであれば、人間はそもそも外部から言語を教えられて生きている以上、言語というものは全て究極的には借り物であり、以って言語で表現されるほかない欲望も借り物であり、つまり自分の言語・自分の内発的な望みなどというものは、嘘っぱちの妄想であって錯覚にすぎないと言えるわけです。

大人になって自分の内側から出てくるように見える欲望や表現も、これまでの経験と外界からの刺激に応じて、そして何よりも外にある文法と語彙に即して紡ぎ出されているに過ぎない点で、借り物だというわけです。考え・欲しているのは他ならぬ「自分」だから、自分に独自だ、というのは愚かな詭弁です。
自分で全く新しい文法と語彙を持つ言語を構想して用いるならば、ほんの少しだけ話しは変わってくるかもしれません。しかし、既存の言語に依存しない言語を構想することは果たして本当に可能なのでしょうか。私は否定的な考えを抱かざるをえませんし、そもそも大半の人は自分の言語を作ることなど考えもしないでしょう。誠実に語学を学んできた人ならばわかるはずですが、ある言語をまともに学ぶ過程で我々は必ず母語を用いますし、母語の呪縛は実に逃れがたいものです。
自分の意思・自分の考えなどというものを仮に認めるとしたって、それは言語によって表現されて初めて再帰的に捉えうるもので、つまり「私は〜と考えているのだ」と言語化したそのときにはすでに、それは借り物になっている。
それはそれで独自の自分の言語なのかもしれませんが、どこまで行っても外界からの影響というものを逃れることはできません。それは内容の正しさという点に留まるのではなく、(内的でも外的でもありうる)表現の形式や文体という点においても、法の支配を逃れることは絶対にできません。

こうして、言語が借り物であることを運命付けられていることを踏まえるのであれば、借り物のような目標を掲げるというのはごく当たり前のことであり、以って私たちの人生は全て借り物です。全く恥ずべきことではないと思われるのです。その点、借り物のように見える目標や、陳腐に見えるちょっと華やかなだけの薄っぺらいように見える目標を糾弾する人々は、一体何をもって、ある目的が自分のものであり、借り物でないなどと判断することができるのでしょうか。もちろん、ありふれた目標とあまりみない目標を区別することはできるでしょう。あまりみないということは、何らか独自の編集が生じているとは言える。しかしその編集さえも言語によって行われている借り物の作業だということを、どうして考慮しないのでしょうか。
理由はいくつか考えられます。反省能力が低すぎて直感にしたがった考えしか出せない。あるいは、そんな事実を受け入れると「自分の人生を生きる」という(それ自体、避けがたく外部から課された)要求を満たせなくなってしまう。あるいは、「自分の人生を生きたい」と無邪気に信じている人に本やセミナーを売りつけたりするには、少なくとも上辺だけは、借り物でない人生があるかのようなフリをすることが有効である。……

とまれ私は、そうした安っぽい自己啓発というものが非常に嫌いです。嫌いなものについて述べたてるのは本当に良くないことなのですが、これだけはハッキリ言っておきたい。そして少なくとも、あなたがたのように——あなたのことです——文章を読むことにある程度慣れている人が自己啓発の言説を笑いたくなる理由には、「本当のものなどない!」という、馬鹿にされそうな確信、ないしは「こいつの主張は考えが浅い、人間を必要以上に単純化していて、不可欠な前提を読み込めていない」という判断があるのではないでしょうか。

「自分の目標や、自分のやりたいことなどというものが確実にそびえ立っていている、あるいは今は見えなくてもう少しずつ探り当ててゆけて、そこに向けて少しずつ邁進していくのが人生の王道なのだ」と考えているタイプの人間の言葉を、私は折に触れて参考にするにせよ、決して好きになれません。
いえ、羨ましいとは思うのです。自分の人生の目標——絶対にかなわない星のような目標であるにせよ、あるいは数年規模で叶えうるものであるにせよ——を無邪気に立てることができて(探せば見つかるだろう、洗練させていくことができるだろう、という観念もまた、極めて無邪気です)、それを成立させるために邁進できたら、何も考える必要がなくなる。反省の渦は回避できる。しかし私はそうなれないという実感がありますし、皆さんの中にもきっとそう思う方がいらっしゃるのではないでしょうか。
つまり、色々考えてみても、人と会ってみても、自分が立てる目標・自分がその都度表明する意思というものがどこまでいっても借り物であるかのような感覚を(全く正当に)持っている人は、随分多いのではないでしょうか。そして(実に安っぽい)自己啓発の類は、彼らの自己を決して啓発しない。いや寧ろ、彼らは既に別の方向へと啓発されているからこそ、(言語が借り物であるという感覚を排除する、盲目であるがゆえに強力であるとはいえ、強いて言えば)間違った方向への啓発に対して、大いに警戒心を発揮する。……

精神科にかかれば、ひょっとしたら、こんな気持ちは病理的な現象として処理されてしまうのかもしれません。しかし、言語そのものが究極的には借り物であるからには、全く正しい直感であるように思われます。

ごく卑近な例(恋愛のコード)

別のもう少し卑近な例を、いささか単純化しながら挙げてみましょう。

例えば人は恋愛をします。
しない人もいますが、あたかもすべきであるかのように日本が回っています。
あるいは愛を持つでしょう。トマトを愛するのとは違うかたちで、人は人を愛する、というテーゼが、あたかも普遍的なものであるかのように、通用しています。

この事態が全く逆説的なかたちで際立つのは、とりわけ性指向に関する性的少数者に関する説明が行われる場合です。
同性を愛する人もいる。あるいは性的な指向を持たない人もいる(アセクシュアル)。「けれども彼らは性的多数者と同じく愛しているのだ」と。とりわけアセクシュアルに関する言及においては、彼らが愛だけは持っているということを支えにした議論が目立ちます。あたかも愛さなければ人間ではないかのようです。
ではそうした、愛さえ持たない人々は? ……別段議論する必要もない、さしあたって重要でないカテゴリとしてかたづけられているなら、それはそれでいい。ひとつの議論ですべてをすくいとることはできないので、限定は適切に施す必要があるでしょう。しかし、実際にはそんな人々がいることは全く想定されていない、というほうが正しいのではないでしょうか。つまり、愛するということは、何らか統一感を持った・共有された当然の条件として機能しているのではないでしょうか。本当であれば、遺憾なことです。外れていてほしい予想です。

恋愛のコード(規範)に乗らない、という姿勢にこそ、抵抗として一定の分があると私は信じていますが、とりあえず恋愛をすると思ってみてください。
日本で恋愛をするには、従わなければいけない外在的な法がたくさんあります。それは何もせずに生きていて自然に身につくものではありません。わりと長い時間をかけて、陰に陽に圧力を加えられながら身につけたり身に着けなかったりするものです。
恋愛のコード。アプローチ、恋の鞘当て、関係の醸成、いずれの段階にも内在するコード。……
例えば、
「どちらから誘う」
とか、
「何日おきに連絡を取る」
とか、
「一定の期間を挟んでデートをする」
とか、
「かくかくしかじかのタイミングで(ごく素朴な意味において)性的な関係に至る」
とか、
「簡単に体をゆるしてはならない」
とか、
いくつも挙げられることでしょう。

これらは全て、ある種の限定的なコードに従った儀式のような振る舞いです。
想像することは易しいと思いますが、国が変われば当然恋愛の作法というものは変わりますし、言われてみれば、その点を認めない人はいないでしょう。自分が内面化しているコードを、少なくとも言説のレヴェルでは相対化するはずです。
というのに、ただある時期の日本に生まれ育ったからにはその恋愛のコードに従うのが絶対である、と無意識に思いなす人がいる。というよりそうした人々が大多数です。乗れない・乗らない人を強く批判し、嘲笑することがあります。そこまでいかなくても、変なやつだ・どこかおかしいと思うことがあるかもしれません。皆さんの中にも、被害に遭ったことのある人がいらっしゃるかもしれません。もしかすると恋愛のコードの方を当然のように受け入れて他人に押し付けている側かもしれません。
いっそう卑近な例。……服を買うとき、美容院に行くとき、「(こういう服装や髪型は)人気がある」と店員に言われることは多いのですが、「人気があるとはどういうことですか」と面倒くさい問いを返すと、異性に人気があり、モテるのですと言われる。まるで意味がわからないけれども、モテたいというのは、見ず知らずの人間に投影してよいくらいには普遍的な気持ちであるらしい。……

恋愛の作法というものが、所詮は外在的な法であって、私たち個々人の独自のものではないということは明らかでしょう。つまり、恋愛は言語と同じように借り物です。恋愛は言語を介してしか行われないのですから、借り物なのです。
しかしそのことをすっかり忘れて、したり顔で恋愛の技法をうたい、剰えそれが倫理の尺度として機能するかのように振る舞う人々がいる。……コードにとらわれているものがコードの存在を忘却している点で、冒頭に見たような浅薄な自己啓発マンと同じ成り行きだというわけです。

(文脈を転換しつつ広げるなら、バトラー『ジェンダー・トラブル』の最終章だけは誰しも読んだほうがよいということです。コードに縛られた主体もコードを攪乱して抵抗する可能性はありますが、その抵抗とて、コードが存在することをはっきりと念頭に置かねば、効果的に行うことは不可能でしょう。……あれはあれで勿論ジェンダーに関係する本で、一定の歴史的文脈に根ざすものですが、それ以上の一般性を持った書物です。)

地獄の中を普通に歩んでゆくこと?

さてここまではごくありふれた話ですし、当たり前のことを当たり前に書いたにすぎません。
とはいえ当たり前のことを当たり前に示すことは尊いからこそ、私は当たり前にやったのです。

以上を踏まえて言いたいのは、
「だからみんな尊いね」
「だからみんな借り物であってもけなしあわないで頑張ってやっていこうよ」
ということではありません。
そんな安っぽい相対主義には、私はまるで興味を抱くことができません。

寧ろ言いたいのは、何か借り物でないものがあるという、私に言わせれば誤った直感を信じることができなくなってしまった人間が取るべき道は限られてくる、ということです。

全てが相対的で、全てがふわふわと浮いた、たかだか錯覚でしかないという自覚を持って、ゆらゆらとさまよい続ける覚悟を決めるというのが、第1の極めて誠実な正しい作戦だと私は信じています。単に覚悟を決めるということです。

あるいは別の作戦をとることもできるでしょう。つまり、自分が何かに帰依できてしまうように死力を尽くすということです。
信仰を持つことのできない人間が、つまり或る種正常な懐疑的な魂を持った人間が、そうした懐疑を忘却して何かを信仰できるようになるのかという問いは、ある意味で馬鹿馬鹿しい問いかもしれませんが、懐疑を抱いてしまう人にとっては本当に誠実な問いだと思います。
私はさしあたって、この問いに対して何か処方箋を与えることはできません。できたとしても、その処方箋を与えることが本当に正しいのか、私には確信が持てません。なぜなら懐疑を忘れて信仰に身を投げ込もうという態度が、果たして懐疑を始めてしまった精神のありかたに本当に誠実なのかに確信が持てないからです。

おそらくあらゆるものが借り物に過ぎないとか、あらゆるものが自分の信仰の対象にならないとか、そのように(全く正しく)意識してしまうようになった人は、何かを改めて信仰しようという気にもならないでしょう。してみればおそらくは、第1の道、ゆらゆらとさまよい続けることのみが、唯一の正解になるのかもしれません。
これは果たして不幸なことでしょうか。よくわからない面があります。

しかし少なくとも、フィクションの中には、ある種の誠実さに身を投じる覚悟を持った美しい人々がいます。おそらく現実の中にも、歴史に名を残しているかはともかく、そうした態度をとってきた人はきっと数多くいるのでしょう。
気まま勝手に引用するなら、たとえば野村美月『“文学少女”と死にたがりの道化』に見られる瀬名(添田)理保子の所作、事情はどうあれ、配偶者である添田康之を置いてきぼりにして実践した、地獄を歩みつづける覚悟を決める所作は、極めて啓発的なものであるように思われます。

ええ。わたしたち、一生地獄で生き続けるのよ。大丈夫、覚悟を決めれば、どこでだって生きてゆくことはできるわ。(…)わたしたちは普通に平和に暮らしてゆきましょう。子供を生んで育てましょう。地獄の中で生きてゆきましょう(野村美月『“文学少女”と死にたがりの道化』ファミ通文庫、2006年、182-183頁)

これは苦しみを減少させる戦術でもなければ、快楽を目指すための覚悟でも何でもありません。単に何かしらのものに誠実であろうという覚悟であり、その他の目的を一切捨てようという覚悟です。地獄の中を普通に歩こうと決めること。ダンテに倣えば、「あらゆる希望を捨てる」こと(『神曲』地獄篇第3歌第9行)。

こうして身を捨てることで浮かぶ瀬があるのかどうかは分かりません。浮かんでよいのか・浮かぶべきか・浮かびたいのかどうかもわからないというのが正解でしょう。
しかし浮かんでしまうことがある。添田夫妻は、なるほど地獄に生きているかもしれませんが、数ヶ月後に彼らがいる地獄は、峻烈な責め苦に満ちたところではなく、寧ろ凪いだ地獄なのです(cf. 『“文学少女”と神に臨む作家』下巻、ファミ通文庫、2008年、197-202頁)。

幸福に逃げ込むこと、あるいは懐疑を忘却し去ること、少なくとも癒やしを手にすることが良いことなのかどうか、正しいことなのかどうか、私は確信をもって言うことができません。そう望むことについても、同様の不明瞭があります。

しかし、いちど覚悟を決めればそうなる可能性もある。最初から淡い幸福を見込んで地獄に足を踏み入れるのは愚かで、何より不誠実かもしれないけれども、誠実が裏切られるという仕方で幸福が到来することはある。単にそうした事実を見据えるということだけは、誠実さの限界として許されるどころか、必要なことでしょう。……

「私も覚悟を決めるのです」と公言することは、きっと極めて下品ですし、そうして表現をすることで、そもそも自分が本当はそうした誠実さを持ちあわせていないことを告白することになりますから、私は強いてそうした宣言をしようとも思いません。このように否定的な宣言をすることで、実は裏ではそうするのだ、という素振りを見せたいわけでもありません。

とはいえ確認しておいた方が良いと思われるのは(まとめ)、
・或る種極端な捉え方をするのであれば、全てが借り物であるということ
・全てが借り物であるという言説を真剣に受け止めるのであれば、さしあたって何かを信じるなどという素振りを取ることは難しくなるということ
・そうなってしまった場合におそらく唯一とりうる戦略は、覚悟を決めて確信のない世界を彷徨いながら歩いて行くことだけであるということ
・かかる覚悟を裏切るかたちで幸福が到来しうること

でしょう。

今回はいささか暗い(?)話になってしまいましたが——いや、暗さを見つめることのうちにしか希望はありえませんが——·、このように読んで書くプロセスとて、一定の文学作品(や思想テクスト)との接続の機会であり、つまり(誠実である限り)確実に暗い現実から目をそらす機会であり、しかし私たちはこのプロセスを介して、極めて迂遠なかたちで、再び現実へと接続されるのです。デ・シーカ『自転車泥棒』において、混乱した現実の波間に、演劇と子供とがかけがえのない静かな浜辺として垣間見られることを思わずにはおれません。

(デ・シーカについては、木庭顕『新版 ローマ法案内』(勁草書房、2018年)及び『誰のために法は生まれた』朝日出版社、2018年を挙げておきます。)