【128】救済は避けがたく到来する(かもしれない)ことを念頭に置く:『ゆびさきミルクティー』を経由して

悩み、と言いうる或る種の内省を極端に嫌う人もいますし、その発想には大いに同情ないし共感するところです。悩んだところで解決しない問題というものは多く、悩むことが時間の無駄でしかないというケースは多いものです。

もちろん悩むということが、社会へと開かれた、ある意味では有益な生活を生きるために無益であるということ、寧ろ害をなすということは、抜き去りがたい一個の事実としてかなりの程度明らかでしょう。様々な人と関わって忙しくしていれば悩んでいる暇はありませんし、寧ろそうして悩まない環境と心理的態勢を作ってゆくべきだ、というのは納得のゆく論理です。

とはいえ、そうした有益な生活というもの、あるいは一般に有益さというものが何のために有益なのか、ということを考えるときに、少なくとも有益であることを追求すると、どこかで無益なものへと行き当たる、ということもまた明らかですし、その無益なものの最たるものは、自分が何者であるかということに関する知を求める作業であって、これについては確たる答えが出ない、問うても仕方のないものだからこそ、悩みという形式がとられざるをえません。

「自分のことなんか知っているよ」と思い込める人は、まあ思い込んでいてよいのですが、自分を知るというのは哲学史上の最大の課題のひとつです——アポローン神殿に刻まれた「汝自身を知れ」の文言は、実に様々に理解されうるものです。

自分自身が一体本当は何を望んでいるのか、あるいは自分自身の望みというものにはどういった言語を当てはめれば最も適切なのか、ということについて思いをいたしたことのない人は、実のところまずないのではないかと思われます。もちろん一度も疑念を抱いたことがないのであればそれは幸せですし、そのままで良いのですが、そこまである意味で素直な人生を歩みつづけてきた人はそう多くはないでしょう。一度とて悩んだことがない人は稀ではないか、ということです。


もっと具体的な、小さいことでよいのです。実存に根ざすような悩みを抱えたことがない人はいないでしょう。

キャリアを考えるときでもそうですし、あるいは人生の早い時期に、例えば進学先を選ぶときや、就職先を選ぶときに、自分が一体何をして生活したいのか、何をする人でありたいのか何者でありたいのかということを顧みたことがなく、自分の望みが常にはっきりしていたという人は少ないように思われますし、結局のところ何になりたいか・どうありたいかということは、環境に応じて変わってくるはずで、決め打ちで何らかの進路を選びながら決まってゆくはずですが、それにしたってどんどん変わってゆくものです。

変わってゆくからには、ある意味では悩みつづけなくてはなりませんし、その究極の結論があるかどうかはともかくとして、自分について考えることによって「より良い」自分になっていくということはありうるにせよ、そうなることはそれ自体が価値なのではなくて、寧ろ自分が何者であるかを考えること、かかる問いを巡って悩むことのほうが、無益であるからには、究極的な目的に(近いものに)なるのだと思われます。

そして、「考える」という動作が必然的に比較を含意し、「私」に関する再帰的認識が替えのきかないものであるからには、プレーンに「考える」というのは困難でしょう。行くあてもないからには、「悩む」のだといってもよいかもしれません。

その観点から見ると、悩む時間というのも悪くはありません。


多くの人は、良くも悪くも目下の疫病のおかげで、家に閉じ込められる時間が増え、以って外に出る必要が減っていることでしょう。自由になる時間が長くなるということでもあります。

そうすると、あてどなく悩むことに割く時間が増えるという成り行きです。基本的に悩むということはしないほうがよい、というのは、或る種の有用性のためには当たり前のことです。

が、人は有用性のみによって生くるにあらず。寧ろあてどなく悩むことこそ目的、というところはあるのですし、悩みに様々な光を当ててみれば、有用な反射光が得られるかもしれません。もっとも、そうした反射光を得ることは究極の目的ではありませんが。


別に現在の悩みに心を傾けないとしても、過去がふと思い出される時間も増えます。


つい昨日まで本当に忘れていたのですが、私はそれほど背が高い方ではなく、そのことを中学生ぐらいまでは随分気に病んだものでした。

今となっては何とも思いませんし、寧ろコンパクトだから食費も安く済んでよいと思われます。強いて言えば身体にあう椅子を見つけづらいのがネックですが、普段は自分の背が高くないということに気づくことすらありません。背が低いとは言っても、何らかの疾病による背の低さではなく、単なる遺伝なので、気にしてもしょうがないし、今更気にしようとも思わないのですが、昔は随分気にしたものです。

身体的な条件について劣等感を抱いたことが全くない人もいるかもしれませんが、身の回りにも全くそうした人がいなかった、という方は稀だと思います。別に体重でも体型でも容姿でもなんでもよいわけです。あるいは身体に関係しないことでもよいのですが。

特に中学生というのは、成長の度合いに応じて体型の差が顕著に現れる年頃で、年相応の幼稚さもあってのことか、身長については、口さがない同級生に揶揄されたこともあり、有り余った力を誇示したがる同級生に(物理的に)絡まれることもないわけではありませんでした。

私はそれ以外の面——勉強など——で黙らせることもできましたし、部活に勤しんでいるふりをしたり、あるいは身体的なことでもって人を判断することが下劣であるということを陰に陽に主張して相手を牽制したりすることもできましたが、それでも、今よりも幾分傷つきやすかった身としては、身長のことを揶揄されるたびに内心傷ついていたものですし、気にしていなかったといえば嘘になるでしょう。身長ばかりを気にしていたわけではないにせよ、もう少し背が高ければ違う生き方があった、ということは考えたものです。

そんなことは、なんともない拍子にふっと思い出されたわけですが、本当に昨日ぐらいまでは全く忘れていたことです。

そうしてみると、その他にも、今は忘れてしまったけれども昔は本当に深刻だった悩みというものが、いくつもいくつもあるように思われました。

例えば実家という空間にはプライヴァシーがない。私は自室を持ちませんでしたし、これはなかなかきついものがありました(自室があったってプライヴァシーなんてほとんどないのですが)。あと、携帯電話も大学に入るまで持っておらず、特に欲しいとも言い出せず、或る種の屈託を抱えていました。あるいは本を好きなように買うことができないというのも、極めて強い悩みでした。

これらは今ではほぼ解決されています。今は一人暮らしですし、携帯電話も持っていますし(ほとんど使っていませんが)、何か買いたい本があったら、およそ300ユーロを超えていなければ確定一発・ノータイムで注文します。

が、昔は悩むことがあった。なんにもならない考えを巡らせることがあった。「自分とはなにか」という洗練された問いではなかったかもしれないし、もっと哲学的には低級なものだったけれども、そうした、たしかな手触りがあった、身を入れて立ち向かっていたはずの悩みを今は忘れているわけです。


皆さんにもそういうことはないでしょうか。

人生のステージを進めていくにしたがって、悩みの質や対象は変わっていくわけですし、皆さんも小さい頃からずっと特定の悩みを抱えつづけている方もいらっしゃれば、あるいは小さい頃は若い頃に抱えていた悩みというものがもはや失われていることに気づいたという方もいらっしゃるかもしれません。

今皆さんはある程度の歳を重ねられているかもしれませんし、あるいはずっと若いかもしれませんが、今抱えている悩みというものは、克服する努力をするかしないかどうかは別にして、忘れられる(忘れられてしまう)日が来るかもしれません。


忘れるために努力が必要なものもあれば、努力が必要でないものもあるかもしれません。何より忘れたくない悩みもあるかもしれません。しかし、些細な悩みも、激越な苦しみも、自分の実存というものに深く根ざしていて抜き去りがたいように思える複雑な悩みも、例えば環境が変わったり、例えば時間をかけて自分の精神が変容したりしていけば、雲散霧消してしまうということがありうるわけです。

こうした意図せざる忘却についてどう感じるかということ、あるいはどういった理論を立てるかということは、もちろん個々人に委ねられていることでしょう。

悩みの中には、もちろん解決したほうが良いものとか、解決を試みつづけているものとかもありますが、解決されてはならないように思われるものとか、解決することが論理的に言って不可能だろうと思われるものもあるわけです。

そのいずれも、何かの拍子に忘れる可能性がある。


こうした意図せざる忘却は、「悩みが消滅する」という観点から言えばありがたいものですが、ある意味では怖いことですし、何よりたしかに自分の一部をなしていたはずの悩みが失われてしまった、ということに気づいて生じる感情は、単純な快ばかりではありません。

真剣に取り組んできたものであればあるほど、自分の一部が忘却されていた、あるいは気付かぬうちに葬られてしまっていた、ということによって与えられるダメージは大きいものです。ダメージというよりは、突き落とされたような圧倒的な浮遊感、踏み外しが永遠に続く感覚と言ったほうが近いのかもしれません。

怪作として知られる宮野ともちか『ゆびさきミルクティー』において、主人公である池田由紀が「成長」の代価として支払ったものは、まさにそうした一部でした。その一部とはほかならぬ、女装した自らの姿、ユキでした。

由紀はユキを愛するというかたちで閉鎖された回路を築きますが、外では、或る種破滅的な欲望しか持たない黒川水面と、未来を向いた森居左とにアプローチをかけられ、優柔不断な態度をとりつづけます。

森居左との関係を、外部との健全な関係を一歩進めることで、ユキは池田由紀のもとを離れるのです。ユキは由紀が或る種の欲望を注ぎつづけることでしか存在しえないので、森居左の象徴的な地位が変更されたからには、もはやユキは由紀のもとにいられないのです。

由紀は左との関係が進んだことに浮かれて、そのことを忘れかけていましたが、左との一夜を過ごして、ユキがもういないということに気づく。そこにあらわれた空隙を埋めるためにこそ、あれほど強固に、新しい恋人の成長を拒もうとする、というわけです。

あのエンディングに対する不満を込めたレビューは多いのですが、あれは必然的な表現でしょう。……

——たったの10巻ですから、確実にお読みいただけるとよいでしょう。

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話が逸れましたが、悩みというもの、あるいは内的な屈託というものは忘れられてしまうことがありうるもので、そうして忘れられてしまうこととは必ずしも快楽をもたらすばかりではない、ということです。

皆さんも、お金がないとか、職がないとか、あるいは仕事がうまくいかないとか、あるいはもっと深刻なことで言えば、毎日死にたい気持ちを抱えているとか、孤独に耐えきれないとか、様々な悩みを抱えられているかもしれません。

必ずしもその悩みというものを解消することが良いことだとは一概には言えませんし、悩むことが(あらゆる基準に照らして)悪だというつもりもありませんし、悩みがあったらそれは解消するんだというかたちで頑張る人のことを寧ろ「分かっていない」と思われる気持ちがあるかもしれません。悩みは悩みとして適切に抱えて誠実に向き合うべきだ、とする考えは私には馴染み深いものですし、深く同意するところです。寧ろそうしなくては気づくことのできない欲望というものもあるでしょう。

しかし、死んだ後のことはわかりませんが、生きていればその悩みというものが、望むか望まないかは別にして、解消されてしまう瞬間というものは到来しうる。我々が望もうが望むまいが、避け難く救済が到来する可能性がある。

それは恐ろしいことかもしれません。恐ろしいことかもしれませんが、そうした救済が到来する可能性があると思って、目下の悩みを見つめてみるということはいかがでしょうか。

もちろんこれは、そうしてみたら悩みが解決されるとか、どうでもよくなるとか、そうしてみたら楽しい人生が待っている、とかいうことではありません。私が提出しているのは、役に立つことではないわけです。単なる問いであり、提案です。望みもしない救済が私たちの精神のドアを叩く瞬間がいつか来てしまうかもしれないとすれば、私たちは今どうするのか、という問いです。

自分が目下抱えている、特に実存に深く関わる悩み——金がないとか、職がないとかいうのは、それはそれで重大ですが、原因がはっきりしているからにはあまり困難なものではありません——、例えば、金もあるし友人もパートナーもあるし人生楽しいと思われていなくてはならないはずなのに死にたい、というタイプの気持ちというものは、生きていればいずれ忘れ去られてしまうかもしれない。解決などされなければよい、それこそが最良のありかただと固く信じていても、そんな輝かしい決意は鈍らされて、いつの間にか忘れてしまうかもしれない。

その悩みを、今の自分はずっと抱えつづけると思っているかもしれないし、悩みを忘れるのは不誠実だとさえ思っているかもしれないけれども、そんな悩みさえ忘れ去ってしまうかもしれない。救済は望むと望まざるとを問わず私たちを襲うかもしれない。

あるいは、忘れたことさえ忘れている悩みがあったことに今後気づくかもしれない、ということに気づくでしょう。

こうした可能性から逆に現在を捉えてみると、何らかの心境の変化があるかもしれません。一度は考えてみても良いように思われるのです。

もちろん、そうしてみればすぐにお金が儲かるとか、気持ちが楽になるとか、仕事ができるようになるとか、明るい気持ちになるくとか、何らかの行動に踏み出せるということではありません。そんな(はっきり言って、そこまで本質的ではない)ことのために書いているわけではありません。

しかし、そうした避けがたい救済、絶望をもたらすかもしれない救済を念頭に置くことでしか生じない何かもあるのではないか、ということです。

自身を知ろうと努力することのできる、自らを振り返る能力を持った人間であれば、そうした営みを一生に一度くらいはおこなってみても良いように思われますし、私などは寧ろ一生そうしていたい。だからこそ現在のような生き方をしているという可能性はあるのかもしれません。誰もがそうすべきだとは思いませんが、一度くらいはやってみても良いと思いませんか。e