【18】現在・過去・未来を解釈するための論理をストックし、自伝を編みつづける


●無意味にして無目的な問いの数々

初対面で、あるいは知り合って、フランス人からすぐに訊かれるのは、「どうしてフランスに来たの?」とか、「どうしてこの分野を選んだの?」とかいう問いです。
どうやら、東洋人がわざわざフランスに来て研究するというのは、それなりに東洋出身の留学生がいるとはいえ、少し際立った印象を与えるようです。
いい年齢なので、「じゃあなんであなたはフランスにとどまっているの?」「なんで東洋に興味を持たないの?」等と聞き返したりはしませんが、いずれにせよ、自分がなした決断ないしは選択に関する問いは、深刻です。
問いを振り出す側は殆ど何も考えていないか、ぼんやりとした好奇心にもとづいて、ときには時間つぶしのために質問をしているのですから、ぼんやりとした答えで満足してほしいという気持ちがあります。しかしどう答えたとしても、相手はどこか怪訝な顔をするのです。

……昔のことを思いだします。
ロシア語の授業をとっていた時、ロシア人の先生と帰りの電車に乗り合わせたことがあります。
その際に、「どうしてロシア語を勉強しようと思ったの?」と訊かれました。
私はロシア美術に興味があるとか(イリヤ・レーピン、いいですよね)、レールモントフを読んでみたいとか(『悪魔』、いいですよね)、適当に答えましたが、先生は納得できないようでした。
いったい、私はどう答えればよかったのでしょう?
素敵なロシア人の異性がいるからアプローチしたいとでも言えばよかったのでしょうか?

また、修士論文の口頭試問のときでしたが、指導教官でない審査員の先生から、
「君はどうしてこんな、ヨーロッパの人でもやらないようなテーマを選んだの?」
と訊かれました。
私はおおいにうろたえ(笑)、自分の履歴も含めてたどたどしく説明しましたが、
「それは説明になっていないと思う」
とにこやかに言われました。
幸い論文の評価はよかったので、興味半分の質問だったのだと思われますが、それでもこのやりとりは、心の片隅に位置を占めつづけています。

以上が例証しているように思われるのは、個人の来歴を説明する論理を組み立てることの難しさです。当時は「ケッ、大した意味のないワケワカラン質問はやめろよ!」とも思いましたが(笑)、今になって思うのは、少なくともこうした意味のない質問はきっと美しい習慣のひとつで、少なくとも相手に関心を示す所作の一つであるなあ、ということです。(敵意や、搾取しようという意図が見えなければ)関心を持たれるというのは実にありがたいことですし、寧ろ以上のような場面では、問いが無意味であるということ自体が、関心の純粋さを明るみに出している感さえあります。

●自分の来歴を一貫した論理によって説明する

さて、そうしてみると、薄っぺらなものであっても純粋な関心を示してくれている相手には、最大限の力で報いたいものです。この先出会う相手についても同じことを思います。
つまり自分の歩みというものを、(嘘であっても)一貫した・説得力のある論理によって説明できると随分エレガントだろうな、ということです

説明するというと、もちろん、自分ではっきりわかっていることを他人に説明する、という文脈が想定されます。上の例に見たような、「説明せよ」という要求に、なかなか納得しない人たちの問いに答えることは、たしかに難しいものです。
しかし注意したほうがよいと思われるのは、私の場合がそうであるように、自分でも自分の行為や「決断」の背後に控えていた論理を説明しきれないことがしばしばある、という点です。人から尋ねられて初めて、あるいは何かを読んでいて不意に、「私はなんであんなことをしたんだろうなあ」と思われることがある。
そうしたわからなさに直面したときにはなおさら、自分の行動に対して説得力のある論理を(レトロスペクティヴに、であっても)与えられるとよいのではないでしょうか。なぜなら、自分の行いに納得できていないということほど気持ち悪いものも珍しいからです。少なくとも、一定の反省的な魂を持つ人にとっては、そうでしょう。

●論理≒解釈は原則として自由である(架空の例を通じて)

論理を与えるということは、言いかえれば解釈を与えることです。
行為は、それ自体としては良いも悪いもありません。周辺の行為との関係から、そして判断する者の価値観や法の側から、判断されるものです。ですから、自分が自分の来歴や行末について与える解釈は、周りが当然のように与える解釈と異なっていても原則として問題はないし、寧ろ自分を騙せればそれで十分だとも言えます。

さて、最初の方で見たのは極めてキレイな例です。私がロシア語を勉強したとか、特定の分野で論文を書いたとか、そんなことはどこから見ても良いことでも悪いことでもなく、それだけにどういう理屈をつけるかが大切だということです。

もっとリアルな、というか奇矯な、本人に都合の良い理屈をつけている例を、創造してみましょう。

ある架空の留学生の話です。
彼女は日本の私立大学の修士課程を出た後、同じ大学の博士課程に入り、そこを休学して、フランスの大学の修士課程(第2学年)に入りました(なお、これはある種の分野ではよくある留学の形式です)。
彼女はフランスで単位を取得せず、修士論文も提出せず、1年で帰国します。
しばらくして、彼女は留学中にTwitter上に流していたツイートを、ある時期に全て抹消してしまいました。そのツイートには、言葉に苦労していたこと、レポートの締切を守れず先生と交渉したこと、などが書かれていました。
一連の行為からは、何が読み取れるでしょうか。
お察しの通り、フランス語ができず、単位を取れず、論文を書けず、帰国したのです。そう読むのが当然です。一連の断片的な事実に対して私たちは当然そうした解釈を与えます。
しかし、もちろん彼女は別の論理を与えるでしょう。実際彼女は帰国してから、フランスに行っていたのは学位取得目的ではなく、現地の図書館で文献を取得するためだった、と主張しているようです(なお、学位取得目的でないなら、学費のかからない研究員枠で行くのが自然です)。
もちろん、架空の彼女の架空の主張が状況かみて正当かどうかという問題はありますが、彼女にとってはどうでもいいことでしょう。彼女は、自分が失敗していない、という論理を構築している。

また、ある架空の大学教員の話をしましょう。
彼は日本のある私立大学を修士課程まで出た後、パリで博士号を取って帰国し、持ち前の語学力を活かして、私立大学の文学部の教員になることができました。
著書の奥付や、論文集に寄稿する論文には、簡単な自己紹介を付す場合が多く、そのような場合、学歴と職歴、代表作を示すのが普通です。
さて、彼が示す学歴は、必ず「博士(哲学、パリ第〇大学)」から始まります。日本の大学に通っていたことなどまったくなかったかのようです。もちろん、博士号を取得したところのみが重要だと考えているのならばそれでもよいとは思います。
さて、学歴の示し方にはいくつか流儀がありますが、複数の著者による論文集などでは、緩やかに形式を統一するのが普通です。そして多くの場合、出身大学(学部)を示してから、どこで何の学位(博士号)を得たかを示し、専攻・職歴・代表作などを示すのが一般的です。
しかし、他の共著者が皆出身大学から学歴を示しているところにおいてすら、彼は強硬に「博士(哲学、パリ第〇大学)」から始めます。一種の信仰さえ感じさせる態度です。もちろん、絶対に他の人と合わせなくてはならない、ということはないでしょう。しかし、どこにあっても――所属大学の公式ウェブサイトに示された経歴においてすら――そうなっているのを見ると、強いて日本での学歴を隠しているようにも見える。
では、彼が出身大学を隠すのはどうしてなのでしょうか。
当然与えられる解釈は、彼が自らの学歴を恥じているということです。自らの学歴を隠蔽することで、彼は自分の出身大学を誇るべきでない・示したくない経歴と看做している。出身大学に対して失礼だとさえ思われる振る舞いです。
しかし、彼は別の解釈を与えるでしょう。少なくとも、当然の解釈を提示されたところで、認めないに違いありません。また別のもっともな理屈、もっともな解釈を示すはずですし、それは常に可能です。

以上の架空の例が示しているのは、周囲が与える解釈は、恐らくはかなり論理的に整合性がとれている場合でさえも、当人に対して何の意味も持たない可能性があるということです。周囲の解釈が正しかったとしても、自分で異なる解釈を信じてさえいれば、後者の解釈、誤った解釈のほうが、自分にとっては意味あるものとなるでしょう。そこまで自分を騙しきれるなら――正当であるようにみえる解釈も、所詮は解釈と言えます――、そのうち周囲も徐々に騙されるかもしれません。

我々も自らの行為については、都合のよい解釈を、都合のよい論理に従って、与えればよいと言えるのではないでしょうか。

●後悔と絶望を編集し、健康な心で生きる

過去の行いを恥じたことのない人はいないと思います。いるとすれば、文句なしに幸せな人だと思います。そうした「黒歴史」を「黒歴史」として理解しつづけていると、死にます。もちろん、肉体的に死ぬということではありません。あるときにふと、過去の自分の恥ずべき行いがありありと思い出される。胸がどきどきして、わーっと叫びだしたくなって、環境が許すなら実際に叫んだりする(笑)。心がどんどんざわめいて、しばらく何も手につかなくなる。大庭葉蔵ではありませんが、「恥の多い生涯を送って来」た人には、そういうことがよくあります。恥や後悔はボディーブローのように効くということです。後悔を孕んだ恥の意識は人を殺します。あのとき、あの瞬間に、他の仕方で行動する可能性など全く想定せず、いっさい自然に行動したのであってみれば、きっと選択の余地はなかった、けれども思い返してみるとあれほど愚かな振る舞いはなかったように思われる。……そうした、意味のないかもしれない後悔は、簡単に止めることはできませんし、深刻です。これは、きっとたしかに。

未来に絶望したことのない人もやはりいないと思います。いるとすれば、やはり文句なしに幸せな人だと思います。ふと「人生詰んだな」と思われた瞬間はありませんか。私には幾度もあります。もちろん、私くらいの「詰んだな」は全然詰んでいないと怒られそうですが、客観的指標など無意味になる、ごく主観的な絶望というものがあるということは、素朴に認めてもらってもよいでしょう。脳の状態をいくら調べても、言葉をいくら尽くしても、他人の痛みを我が身に感じることはできないのですから(所謂クオリアの不可知性の問題です)、他人の絶望それ自体を笑うことはできない。もちろん、「そんなに恵まれているのに絶望するなんて失礼だ」とくさすことはできるかもしれませんが、当人にとってはまるで意味がない。……こうした絶望は実に甘く、絶望に浸ってうちのめされているだけで何時間でも時間を潰せる、ということは、経験されたことのある方ならよくご存知の通りです。

しかし、後悔や絶望に沈んでいては、どうにもならない。自分自身を苛む、謂わば免疫寛容を破綻させるような感情に対しては、さらに防衛のシステムを準備しておいたほうがよい。自身が与えた論理の枷を抜けて、もっと気に入る論理の枷を嵌めたほうがよい、ということです。
過去の失敗を無能力の証明と見るか、学びの機会と捉えるか。現在の苦境を過去の悪癖の帰結と捉えるか、ジャンプするための雌伏のときと捉えるか。詰みかけているように見える人生を、大海原の華々しい冒険と捉えるか。どういった解釈を選ぶかはもちろん我々の経験や知識に依存しますが、原則としては自由です。

逆向きに言い換えるなら、心理的に健康に(≠能天気に)生きていけるかどうか、ということは、過去を都合よく解釈し(肯定し)、未来を都合よく引っ張ってくることができるかどうか、という点にかかっています(そうした、ときに恣意的な解釈を、あなたの廉恥心がどこまで許すかということは、一個の致命的な重要さを孕んだ、しかし真に個人的な問題であるように思われます)。
もちろん、手持ちの論理が少ない場合、あらゆる事象を解釈して当てはめることは困難ですから、解釈のために適用する論理はいくつもいくつもストックしておくことが必要になるでしょう。「塞翁が馬」という論理でも、「大器晩成」という論理でも、「(人生の)旅の恥はかき捨て」という論理でも、何でもよい。こうした故事成語や格言の類でなくても、もちろんよい。人の人生から得られた教訓でもなんでもよい。フィクションのあらすじでも、動物行動学の成果でも、なんでも。……必要なのは、過去の経験を見つめたときに、また人生の岐路に立たされたときに、そして想定を超える事態に対応するにあたって、適応しうるような論理のストックを持っておくことです

生きるという一点にかけては、経験や事態をどう解釈するか・こじつけであってもどういった論理を与えられるかが全てであるとも言えます。人は自らの解釈を生きているのであり、他人から何をどう言われようと——他人の意見にはもちろん大いに左右されるけれども——ほんとうはどうでもいい。自分で思い込めている解釈があれば、それが全てです。言い換えるならば、過去の人生を一貫した都合の良い論理のもとにとらえ、その帰結としての現在に満足し、今後の人生の展開を輝かしい論理のもとに構想することで、人生の主観的クオリティの一切は上向くと言っても過言ではないでしょう

そうしてみると、人生を生きることは、未完の自伝を、都合の良い可変的な(複数の)論理によって編みつづけることに等しい。そのように思われるのです。自伝というものは多かれ少なかれ編集を経ている以上、事実をありのままに語るわけではありえない(というよりも、極論を言えば、ありのままの記述など、いかなる仕方でもありえない)。一定の解釈が含まれている。自分の人生はどんなものだったか、ということを要約するような見事な表現がある。どの経験を重視するかしないかという判断がある。人生上の大きな出来事に対する独特の解釈、編集がある。……そうした解釈=編集を、実際に生きることと同時並行で行うこと。生きることと同時並行で自伝を編むこと。多かれ少なかれこうした意識を持つことが、人生の(もちろん主観的な)質を向上させることの、一助になるのではないでしょうか。