【66】「基礎は大事」と言うけれど:抽象と具体の相互反照

とりわけ受験生をやっていたX年前によく聞いた決まり文句のひとつに、「応用問題を解けないのは基礎を十分に理解できていないからだ」というものがあります。

なるほど、応用問題でも、解説を読めばわかる。斬新な気付きはないことがある。解説を構成する要素をまったく知らないわけではない。ということは、それらの諸要素を十分に理解できていないから、応用できていないのだ。……こういう理屈かと思います。

こうした決まり文句を振り出す参考書や教師が言いたいのは、もちろん、基礎を十分に理解すれば応用問題などは恐るるに足らない、ということでしょうし、裏を返せば、応用問題らしきものに行き当たりばったりに手をつけてもいざというとき(≒受験本番やその後)に対応できないぞ、ということだと思います。「基礎」を確実に身につけておけばどんな問題が出てきても怖くない、ということです。

この言葉は、もちろん正しいでしょう。

しかし同時に、特に最近になって思うのは、重要なこと——ここでは「基礎」というもの——は、さまざまな応用の場面を通じて繰り返し繰り返し学ばなければ定着しないのではないか、ということです。

澄んだ川のように、底が見えているのに手が届かないようなもので、だからこそ何度も、少しずつ様々な確度から手や棒を突っ込んで、確認する必要がある。

どういうことかと言えば、代数の問題でも幾何の問題でも何でもよいのですが、「基礎」が大事だと言って、定理や定義を必死になって覚えこんでみても、また「基礎」問題をやりまくってみても、即座に・自在に「応用」問題に取り組めるわけでない、ということです。

実際に応用した経験が無ければ、応用問題というものに対応できるはずがないのです。「応用」問題を1題も解いたことのない受験生は、本番に対応できるだけの能力を持ちえません。応用問題を少しは解かなければ、他の問題に知識を応用できないということは、応用する機会がなければ、「磐石な基礎」など身につくはずがない、ということでもあるでしょう。

特に高校数学では、基本的な公式や概念というものは、(それ自体理論的に甘いものであっても、一応)きちんと理解しておかなくてはならないけれども、その理解というものを定着させて、いかなるところでも応用できるようにするためには、とりもなおさず応用してみる機会を持つ機会、言ってしまえば応用問題に取り組む機会というものが、是非とも必要になるのではないかと思われるのです。

そして、応用問題に取り組み、躓き、乗り越える過程においてこそ、「この定義はこういう風に活用できるのか」という気づきを得る機会がいくつもいくつもあるはずですし、そうした謂わば実地の訓練があって初めて、応用可能性も含みこんだ「基礎」というものが自分の中に深く根付いていくのではないでしょうか

これはもちろん、学ぶ側の態度としてもそうですが、教える側にも求められることでしょう。やはり一つのことを一つの仕方で、一つの経路でのみ教えるのではなく、手を変え品を変え、情報の受信者のさまざまな
チャンネルを刺激しながら、教えつづける必要があるように思われます。


同じようなことはもちろん、外国語の勉強についても言えるでしょう。受験英語を例にとって見ると簡単かもしれません。

単語や熟語の知識というものは、基礎に例えられることが非常に多いように思われます。もちろん、一文を・文章を読むというのもそれじたい非常に基礎的な力と言うことはできます。かくして基礎と応用をどう分かつか、ということはそれ自体大きな問題ですが、さしあたって単語や熟語というものは文を構成するものの中でもわりと小さい単位なので、基礎的な要素と捉えられてよいでしょう。

単語や熟語をある程度は知っていなければ、文は読めず、したがって「応用問題」であるところの長文も、読めないでしょう。「基礎が大事」です。

しかし、どなたにもお分かりの通り、「単語を完璧にしてから長文を読もう」という戦略は悪手です。つまり、単語や熟語を盤石なものにしてから長文に取り組もうと思ってやってみても、なかなか効果を挙げられないものです。

もちろん私は、「とにかくたくさん読め、多読! 多読!」というような態度を肯定するものではなく、寧ろ多読は精読という前提があってはじめて高い効果を挙げられるものだと思いますが、

とかく語学の学習においては、今言ったような「基礎」——つまり単語や熟語や文構造に関する知識——は、極端に言えば、どうせ永遠に完璧にはならないものです。単語や熟語に関する知識など、一生かけたって完璧にはなりません。これはもう一生ものだと思います。ネイティブにとってさえそうです。

受験の範囲なら語彙は限られているから、先に覚え込むのも悪くないのではないか、といわれそうですが、それこそが悪手です。もちろん単語を単語として、熟語を熟語として独立させて記憶すること自体が致命的な問題だということではありませんが、複数の文脈の中に(つまり具体的な文の中に)現れるものとして学ばなければ、また他の様々の情報と関連づけられていなければ、白黒のインクのシミでしかなく、すぐに忘れてしまいますし、理解も深まらないでしょう。この点にかけては、お砂糖とスパイスと素敵なものを全て賭けてもいい。

であれば、英単語をやりきってから長文をやろうなどという無茶なことはやらずに、長文を読みながら辞書を引き引き、その中で単語や熟語を覚えて文法構造に親しんでいくというのが、必勝法というか、当然の方法になるように思われます。あるいは単語や熟語を集中的に見るのだとしても、例文や説明の豊富な教材を手がかりに網を張るのともよいのかもしれません。

そうして具体的な網目の中に現れるものとしての単語を見なければ、つまり「応用」されている「基礎」を見なければ、単語や熟語のほんとうのところをしっかりと掴み取ることもできないでしょう。つまり応用に触れることなしには、基礎の理解も磐石なものにはならないでしょう。

つまりここでも言えるのは、基礎にあたるものは多様なコンテクストを通じて学び取り定着させる必要がある、ということです。強いて抽象化するならば、様々な応用の場面を通じて、基礎に関する見識・直感を確かなものにするというプロセスが、語学の勉強――今では英語の例を挙げましたが、英語に限らず――においては極めて重要だということです。

英語だとあまり目立ちませんが、他の西欧諸語では当然のように出てくる動詞の細い活用や、名詞の格変化などにも同じことが言えるでしょう。

動詞の活用表を暗唱して覚えるのはとても大事ですが、実際に使えるようになるためには、実際に書かれている文を読み込まなければならない。そうしなければ磐石なものにならない。どうしようもないところがある。つまり、様々なコンテクストで実際に使用されているものを見ていかなければ身につかないものがあるということです


さて、話を大きく転換させますと、私たちは個別の人生を生きており、謂わば応用的な場面を各人が生きているわけです。

よりよく生きようとする場合はもちろん、各人が応用的な知識、つまり個々の人生にカスタマイズされた知識や技能や態度を身につけていくことが必要になります。

そうした場面に「応用」しうる「基礎」的な知識というもの――人生訓や道徳的な教えの類――があります。幼稚園や保育園で教えられる「自分がされて嫌なことを相手にしてはいけません」というものでもよいでしょう。一定以上の年齢の人が(?)大好きな孔子の書物や、孫子は、そうしたかたちで引用されます。「人は見た目が9割」などというのも人生訓の類でしょう。様々な物語を背景にした、「塞翁が馬」などの故事成語というかたちで成立するものもあるかもしれません。一神教文化圏ならば聖書から引かれることもあるでしょう。必ずしも人生訓として語られるものではないかもしれませんし、「これが人生の基礎」だよと偉い人が提示してくれるものではないかもしれません。

とまれ、私たちが色々なものから摂取して、あるいは色々なものから読み取って、自分の人生に生かしたり生かさなかったりする、そういった基礎的な態度、パラダイムがある、ということは確かです。

そうした人生訓の類は、聞いてみると、「当たり前だよ」といえるものが多いようです。「自分がされて嫌なことを相手にしてはいけません」とか、「人のものを盗ってはいけません」とか、そういうことは、守られるかどうかは別として、当たり前でしょう。

しかし、当たり前に実践できていないことが多い。あるいは、斜に構えて、受け入れたくないと思うものが多い。数学やら外国語やらだと、一定のところまでは絶対に正しいと言えそうなものがあるから、望むと望まざるとに関わらず受け入れることになる。しかし人生は概して自由だから、受け入れたくない人生訓の類は受け入れなくてよい。

そして思うに、人生訓の類を受け入れようと思うかどうかは、個々人の利益になるかどうかということももちろんですが、個々人の感情の隙間に入り込みうるか、という点にかかっている

とりわけ年を重ねてからは、心の柔軟性が一定程度損なわれているから、同じ人生訓を伝えるにしたって、抽象的な内容をとりまく具体的な文脈がいかなるものか、という点が重要になる。具体例がなかったり、あるいは自分に合わない具体例に満ちていたりすると、即座に聴く気をなくしてしまったり、あるいは腑に落ちなかった りする。だからこそ、抽象化すれば同じになってしまうような内容が期待されるのだとしても、具体的で多様なコンテクスト・チャンネルから情報を摂取してみることには意味があり、その作業は極めて重要である


この点について、例を引いてみましょう。

最近観た動画に、Amy Cuddyのごく有名な講演があります。
https://www.ted.com/talks/amy_cuddy_your_body_language_may_shape_who_you_are
(日本語字幕も付けられますし、倍速にもできるので、是非御覧ください)

前評判からして、「ああ、お決まりのアレね」という気持ちが先立って、イマイチ観る気になれずにいました。

前評判というのは、身体の動き(ポーズ)を変えることで精神の態勢のほうを変えてしまえる、だから変えていこうぜ、という内容の動画だということは漠然と知らされていたのです。

自己啓発によくある、お決まりのアレです(笑)。「楽しいから笑うのではなく、笑うから楽しいのです」とか、「悲しいから泣くのではなく、泣くから悲しくなるのです」とかいう、アレです。「だから口角を上げて、勢いのよいポーズをとって、成功しようぜ!」というアレです。

生理学的なレヴェルで私はこうした理論に納得してきましたが、どうしても不誠実に見えて、絶対にやりたくないと思いつづけてきました。

ところが、性格も分野も違うとはいえ、それなりの信頼を置く人たちが随所でこの動画をすすめているので、とうとう陥落して(笑)、観てみたという次第です。

なるほど、最初は「お決まりのアレだな」と思いながら観ており、もう閉じようかと思いました。

しかし、15:30頃から様子が変わってきました。ネタバレは価値を損なわないはずですからネタバレしますが、Cuddy自身が、自らの具体的な経験を交えて語りはじめるのです

実際に観ていただくのが速いと思いますが、簡単に要約することが許されるでしょう。

~~以下、後半の概要~~

自分が優れているフリをしても、それはなんだかペテンめいている。そこまでしたいとは思わない。そんなことをしても、自分はここにいるべきではない、自分はペテン師だという思いが強くなるばかりだ。

——そうした気持ちはよくわかる。Cuddy自身にも似た経験がある。Cuddyは頭の良さをアイデンティティの中心にしてきたけれど、大学在学中に事故にあって脳にダメージを受け、その点を奪われてしまう。努力して、幸運をつかんで、時間をかけつつも卒業できたけれども、その後プリンストン大学に行ってからも、「自分はここにいるべきではない」という思いをどこか強く持ち続けていた。プリンストンでは、(大学院生が)20人の学生を前に20分のスピーチをしなくてはならないが、Cuddyは恥を晒すのを恐れて、前日になって、指導教官に「辞める」と言った。しかし指導教官はそれを許さず、できるフリをせよ(fake it)、何があろうと「やれている、本物になっている」と思うまでやりつづけよ、と言う。その教えに従っているうちに、「自分はここにいるべきではない」とはあまり感じなくなっていった。

……時を経てハーヴァードで教えるようになると、過去の自分と似た学生に出逢った。その学生も「自分はここにいるべきではない」と言った。Cuddyは自分もかつてはそうだったことを思い、また彼女はここにいるべきだ、と思った。そして、かつて指導教官に言われたのと同じように、できるまでできるフリをしなさいと言った。そしてその学生は、実際にできるようになった。

このように「フリを本物にせよ」。

~~以上、後半の概要~~

もちろん、ツッコみうる部分つはいくらでもあります。大学で「自分はここにいるべきではない」と思ったならどうして外に出なかったのか、とか、「フリをするにしたって限度があるだろう」とか。

さらに言えば、Cuddy自身の経験は、能力上の優劣に関係するものであって、選好に関するものではありません(あるいはそのように議論が限定されています)。つまり、優れているフリをして実際に優れた存在になることを推奨するものであって、その限りにおいてはフリでもいい、フリをして、それを本当にすれば良いのだ、とのみ言っているわけです。

その意味で、あらゆるフェイク=嘘が肯定されたとは思えない。たとえば、恋をできない人間が、恋を当然視する言説の空間(この社会のことです!)に放り込まれたときに、恋を知るために恋をしたフリをすることがよいことだとは、私には今以て思えないし、そうして恋を学べるかどうかはわからない面がある。また、面従腹背・阿諛追従の類も、「本当」にしてしまってはいけない、とも思います。

とはいえ、この動画が、私が持っていたわりと強固な、「嘘は不誠実であり抹殺すべきである」という或る種の信念を、(最近の嘘・フィクションに関する個人的な探求と同じく)部分的に揺るがす材料になったのも確かです

抽象的な、科学的なお題目をそのままぶつけられても、きっと私は何も感じずに、「お決まりのアレか、ご苦労さん」苦笑いしながらウインドウを閉じただろうと思うのです。

しかし、Amy Cuddyのおおいに個人的な、具体的な文脈をぶつけられてはじめて、揺らぎが生じた面があるということです。

もちろん、Cuddyの具体的な文脈などなくても、興味と関心を持って公園の前半部分を聞くことができる人もいるはずです。また、後半にあるCuddyの具体的な体験をぶつけられてなお、何も感じない人も多くあるでしょう。人それぞれですし、別にこれが善悪を規定するわけでもありません。

しかし重要なのは、具体的な文脈があることで、抽象的な内容の伝わり方が大きく異なってくる場合がある、ということです。

このように、「同じような内容だろう」と思われるものであっても、具体的な文脈が変わってくれば、内容にも微細な変化が出てくる。以って、受け取り方も変わってくる。そしてその内容をしかと認めたり、定着させたりするためには、少しずつずらされたヴァリアント、つまり複数の応用の場面に触れる必要がある

抽象的なものを抽象的なままに理解することはもちろん大切なことですが、それは幾分地に足のつかない理解を許すことになる。具体的な場面を背景に置いて、様々なチャンネルを介して学ぶほうが、よほど理解・定着がよく、受け入れたほうがよいものを受け入れるきっかけも作りやすい。


道徳の教科書が具体的な話に満ちていること。難しい問題を解くプロセスを通じて根本的な概念が習得され、別の問題を解く際に活かしうること。様々な文を読むことを通じて単語や熟語が定着してゆき、他の文も読めるようになること。これらはみな、応用≒具体の場面をいくつも経由することで基礎≒抽象が定着し、さらなる応用を容易にする、という構造を前提するものではないでしょうか。

最後にまとめるなら、言語化された「基礎」をしかと身につけるためにも、また求められる新たな文脈に「応用」するためにも、「基礎」が「応用」されている文脈に数多く触れるのはとても大切ですね、ということになるでしょう。