【101】自らの男性器をディスる男の事例と、分裂した精神をいなすための一つの方針(アウグスティヌス『告白』第8巻)

私の友人に、自分の男性器をディスった人がいます。「ディスる」というのはdisrespectつまり敬意を払うべきであるのにそうしないということです。

彼はある女性から求愛されていました。その女性は私の知り合いでもあるのですが、非常に聡明で、しかし温厚で、はっきり申し上げて稼ぎもよく、将来性は抜群です。求愛されている友人はと言えば、私と同じような経歴を歩んでいる(≒大学院生)からには、稼ぎが安定するまでにはかなりの時間がかかりますし、私もびっくりするくらいのひねくれ者なので、この機会を逃せば後がないようにも思える。是非ともその求愛は受けるべきだ、と私は思いました。

実益ベースで人間関係をとらえるのは良くないのかもしれませんが、どこまでいってもそういう面はあるのですし、それに実益を抜きにしたって、精神的な面からも、「受ける」以外の選択は無いように思われました。

彼も同じ意見でした。しかし彼が言うには、どうにも心がついてこないというのです。心がついてこない、というのは、私がきれいに書いただけで、彼がこのような言い方を認めるかどうかは分かりません。

その彼が用いた言い方こそ、自らの男性器が彼女に対して反応しない、というものでした。(本当はもっと下品な言葉遣いでしたが、書くのがためらわれますので、このくらいに抑えておきます。)

もちろん彼は彼で、戯画化して、一緒に喋っていた私を笑わせるように言ってくれたのだと思いますし、自分の男性器が動かないと言ったことで表現していたのは、文字通り身体的なレベルでの欲求を持てないというよりは寧ろ、心がどこか彼女を欲してくれない、彼女を欲したほうがいいに決まっているのに欲してくれない、という葛藤であったように思われます。

自分の思う通りに肉体が動いてくれないということは、よくある。普段は動いてくれても、怪我をしていれば足を動かせないかもしれない。押さえつけられていれば手を上に挙げることもできないかもしれない。これに対して、「自分の心が、自分の心の思う通りに物事を欲してくれない」というのは、或る種おかしな状況に見える。だから、正面切って説明するのではなくて、身体の例を引き合いに出して、「自分の心が、自分の心の思う通りに物事を欲してくれない」、という事情をなんとか説明してくれたのだと思います。


とはいえ自分の精神が自分の精神の望む方向に動いてくれない、望むとおりにものを欲してくれない、ということはよくあることで、このことは現代人特有の病というわけではなく、古代から指摘されてきたことであるように思われます。あるいは、古代においても、このような事態が或る種異常なこととして認識されていたように思われます。

最も典型的な例として、アウグスティヌスが『告白』の第8巻の第8章20節から第9章21節の前後で次のようなことを言っていました。そもそもアウグスティヌス節といってよいレトリカルな箇所であり、(特に訳してしまうと)理解は困難を極めるので、まとめながら書くことにしましょう。

精神というものは命令を行う、imperiumを行使することを一つの機能としています。精神が、このように動きたい・身体をこのように動かしたい、と思うときには、体は、一般的には体は命じられた通りに動きます。例えば、私が手を挙げようと思えば手は挙がるわけですし、蹴り上げようと思えば足はちゃんと動くわけです。しかし、たとえばヨガのやりすぎで体が疲れきっていれば、腕や足が上がらないことはもちろんあるでしょう。

つまり、精神の命令に対して体が従わないことはありうるし、動かない場合にはその理由も容易に想定される。身体と精神は別のものであって、精神が身体に物を命じるときには、普通はその命令通りに動いてくれる。どうしても命令通りに動かないときというものはあるけれど、その理由は思い当たる。何らかの妨げがあるから、動かない。

これに対して、精神が精神に対してものを命令するときに、精神がその命令通りに動いてくれないことがある、というのが、アウグスティヌスが指摘する奇怪な・奇形的な・怪物的な事態(monstrum)です。

身体的なレベルの例では、(精神が)欲することと、(身体が)何かをできることの間に差が出る、というのは当然のことです。ラテン語で言えば、facere velleとfacere posseは異なる。これは良いわけです。精神と身体はそもそも違うものとして捉えられていますから、精神のレベルで欲したものが身体のレベルで妨げられて実行されなくても、別に不思議はないというわけです。

しかし精神の「欲する(velle)」レベルにおいて、(精神が)欲そうと欲することと、何かを実際に欲することの間には、何故か差が出てしまうというのが問題です。強いて言えば「『〜を欲している』という状態を欲する(velle velle)」ときには、精神が自らをある状態におこうと欲しているわけですが、必ずしも「〜を欲している(velle)」という状態にまで至ることができない場合がある。精神は自らに対して全的に(ex toto)命令を行ったり欲したりすることができないし、そもそも実のところ一体性を持った全体(totus)ではない。……

りんごを食べたいと思いたくても、りんごを食べたいとは思えないことがある。どう考えてもある女性を欲求した方がいいのに、欲求できない場合がある。こうした事態は、精神の内部で発生する或る種の矛盾であるがゆえに、とてもおかしな印象を与える。この事態を指してアウグスティヌスが用いるのが、「奇形」を意味し、また英語のmonster「怪物」の語源でもあるところの、monstrumという語でした。

私が今ここでバク宙をしたいと思ってもできませんが、それは当然です。身体が適切な態勢を持ち合わせていないのですから。しかし、論文を書き進めたいと思うとして、実際に書き進めようと思えないことがある。体は元気で、頭もはっきりと冴え渡っている。なのに、書き進めたいと本当に思うことができない、というのが問題です。論文を書きたいと思いたくても、論文を書きたいとはっきり思う段までたどり着かない。これはよくあることですが、やはり精神の内部で生じる分裂・矛盾であるように思われる。

現代の医学とか生理学の観点からすると異論があるかもしれませんが、哲学的な観点からは、また日常的な直感に妥当する説明では、精神と身体はさしあたり区別できる。そして、この精神において、命令する精神と、命令される精神の間では分裂があって、精神は自らの命令に従わない場合がある、ということです。

こうしたことは、奇怪でありつつも、よくある。先ほど私が申し上げた例もそうですし、皆さんもよく考えてみれば経験のあることかもしれません。

例えば、仕事のない・よく寝て疲れも取れた土曜日の午後に、是非とも将来に繋がるような何かを積み上げて行きたいと思う・そう思いたいのだけれども、実際にはそうできない、ということはよくあるはずです。資格試験や起業のための勉強を少しでも進めたいはずなのだけれど、身体というよりは心がちゃんと動いてくれない。心が正確にそうしたいと思ってくれない、ということはよくあるでしょう。体は疲れきっていなくて、むしろぼんやりYouTubeをかけっぱなしにして空疎な笑いを得たり、手の混んだ料理をやったりするのだけれども、心が心についていかない。精神が精神に従わない、という怪物的な事態が生じうる。


再三申し上げている通り、珍しいことではないでしょう。しかし、珍しいことではないからと言って、「仕方ないよね」と言って居直るわけにはいきません。最初に引いた例で言えば、自分の男性器が動いてくれないからと言って、あるいは自分が正しい・持つべきと思われる望みを持てないからと言って、つまり自分の心が彼女を欲望してくれないからといって、諦めるのかよ、という話です。

色々と勘案して、諦めてもよいのであれば、諦めればよいのだと思います。諦めて流されてゆくのも、一つの選択ではあるでしょう。

しかし、あまりそうしたくはないと思います。

であれば、どうすれば良いのか、という問題が立つことになるでしょう。

つまり、精神がある仕方で分裂している・分裂しうるということを踏まえたうえで、それでも何かを欲したい・欲したほうがよいはずである、と思ったとき、あるいは何かに心を向けたい・何かに心が向かっている状態になりたいと思ったときに、実際にそのように心を操作するにはどうすれば良いのか、ということです。

実に、直接的に心によって心を動かすことは難しいからこそ、そういった事態が生じているのです。心の中で「やるぞ、やるぞ、やるぞ」と唱えていてもお話にならない。それで解決できるなら誰も苦労しないというわけです。

ですから、少なくとも考えられる基本方針は、別のものを経由する、ということに尽きるのではないでしょうか。

どういうことかと言えば、例えば論文を書きたいと思いたい場合には、外的な状況を操作して、やらざるをえない方向へ向けて設定するということが、一つ可能性として考えられるでしょう。

論文を書く以外のことができないような作業環境を作ってしまうというのが、ひとつです。インターネット回線を切るとか、あるいは暇潰しの料理ができないように食材を全て使い切ってしまうとか捨ててしまうとか、そういった方策も考えられます。

広い意味で、監視の目を入れるのも良いでしょう。(今はかなり難しいのですが)確実にカフェや図書館で作業を行うようにすることはひとつの可能性です。正常な廉恥心と適切な生活があれば、カフェや図書館で寝てしまうということは絶対にないでしょう。あるいは、定期的に進捗を報告しあう会を作るのもよいかもしれませんし、指導教官との面談にはそうした意味があるはずです。

あるいは、もっと積極的なやり方をあげるのであれば、論文を書くことによって得られるうまみというものをまざまざと想像してみるのも良いかもしれません。論文を書くことの何がよいのかは、正直に申し上げて分からないところがありますし——論文など、100年後のために書くものです——、人にもよると思いますが、例えば将来公募に通りやすくなるという浅ましい理由を想定しても良いでしょうし、あるいはいいものを書けば学会賞で金がもらえるとかいうことかもしれません(もちろん、いい論文であることと賞をとることは本来は無関係です)。

が、何にしても、自分はこれをしたいと思いたいんだと強く思うだけでは無理です。克己心をお持ちの方はそれでよいかもしれないけれども、克己心があれば何だってできますし、苦労しません。そんなものはないと思っておくほうが安全でしょう。

精神は分裂したまま、自分の思い通りに動いてくれない。思い通りにものを欲してくれるわけではない。ですから、なんらか別のギミックを介して、行動を統御し操る必要があるように思われるのです。


これは全く論理的ではありませんが、私が以前トマス・アクィナスの感情論について述べたことにも通じます(【45】自らの感情を選択しよう(トマス・アクィナスの感情論の一部))。

つまり、概ね「感覚的欲求の運動」として定義される感情(passio)というものは理性によって統御されうるし、そうでなければ 感情は悪い効果ばかり産む、というのがトマスの見解です。

では理性による感情の統御・理性による感情の生産がどのようにして行われうる(とトマスは考えた)のか、という問いが立ちます。

このとき、やはり目に入るものなどの的条件を操作することによって、つまり広い意味での身体がさらされる状況を変更し、以て間接的に欲求・感情というものを操作するということが必要になる、あるいはそうしなければならないし、そうして得られた感情は良い効果を持ちうるだろう、ということを私は述べたのでした。

直接的に欲求に作用することはできないから、ギミックをかませる必要があるということです。


私たちは、自分が欲したいと思うことを必ずしも欲することができず、そのことで大いに苦しみうる。

そうした現状をはっきりと認識したうえで、「では自分はそれを欲するために何をできるのか」ということを、一度は考えてみても良いのではないでしょうか

もちろん、具体的な方策は人や場面によって大きく変わりうるものです。しかし重要なのは、ただ単に思いを強くするとかいう根性論ではダメだということです(それでうまくいくのであれば誰も苦労しない、ということは既に申し上げた通りです)。

それ以外のものを欲することができないような状況を調整していくとか、欲するに至るために合理的な理由を探し出して(書き出して)いつも想定してみるとか、そういった作業が必要になるのではないかということです。

やりたいと思いたいもの、しようと欲したいものは、概して重要だけれどもとりかかるのに腰の重いものです。そうしたものにきちんと向かっていくためには、それなりに知的な操作が必要になるのではないか、ということです。

これはもちろん、アウグスティヌスが述べていることではありませんが、アウグスティヌスのテクストと、私の知人が自らの男性器をディスった事件から出発して、私が今日申し上げられることかな、と思います。