【62】♡あつまれフィクションの森♡ 2人の法学者から学ぶ、未来への足がかりとしての擬制

法学者末弘厳太郎とローマ法学者イェーリングに、何にでもつく「理屈」をつける、大それた試みですが、我ながらいいことを書いているなと思います(笑)。


「擬制(fiction)」という法学上の概念があります。

専門的知識のない私が変なことを書くと、専門家からは怒られるか笑われるかしそうですが、『法律学小事典』第4版(有斐閣、2004年、初版1972年)から、まずはこの語の定義を見てみましょう。

ある事実(法律要件)Aを、法律的処理の便宜から、それとは異なる事実Bと同じものとして取り扱い、Bに認められた法律効果をAの場合にも発生させようとすること。

幾分抽象的な定義ですので、具体例の方から内容をつかんでみたいと思います。「失踪宣告を受けたものを死亡したとみな」すこと、「窃盗罪について電気を財物とみなす」ことが、例として挙げられています。

行方不明になってから一定期間経つと――期間は事情によって変わってきます――、死亡が確定されなくても、死んだものとして扱われます。死んだものとして扱われるというのは、たとえば財産などを処分できるということです。米村穂信『古典部』シリーズで、ヒロインの千反田えるの叔父が7年行方知れずになり、死亡したものとして扱われた事例を思い返してください。『氷菓』というタイトルでアニメにもなりましたし、ご存知の方も多いはずです。
単なる行方不明に限らず、(遭難や事故や特殊な自殺によって)死体が回収されない場合にも、死んだものと扱われることがありますが、それもまた擬制です。

いわゆる盗電は、たとえば利用を許可されていないコンセントに勝手に充電器を差し込むのが、最も素朴なやりかたとして思い浮かぶかもしれません。
電気代を余計にかけさせるという点で損害を及ぼし、また他の機器の動作に影響を及ぼしうるわけですが、電気は通常の金品と異なり目に見えないため、本当に電気について窃盗が成立するのか、という問題があります。目に見える事物でなくても(「無体物」であっても)、管理可能なものであれば窃盗の対象となる、と考えるのが通例のようですが、事典によればこれもある種の擬制です。

小事典の例には挙げられていませんが、婚姻による成年擬制も有名かもしれません。お読みになっている皆さんからすれば(つまり書いている2020年5月現在にあって)、成人年齢は20歳で、婚姻可能年齢は男子が18歳、女子が16歳です。つまり未成年者でも結婚できるという理屈があります。未成年者の婚姻は成年者の婚姻とは少しく事情が違いますし、要件もやや異なっていますが、ともかく結婚できる。そして、結婚してしまった未成年者は、成年ではないにしても、契約などの場面ではある種成年として扱われる。本当は成年ではないけれども、成年であるかのようにみなされる。概ねこうした「みなし」が、婚姻による成年擬制です。
(なお、成人年齢引き下げに伴い、婚姻可能年齢が男子も女子も18歳になるので、この擬制はおいおいなくなります。)

簡単にまとめるのであれば、
「そうではないけれども、便宜上そうだとみなす」
ということが、擬制だと言えるでしょう。

(もちろん、繰り返しになりますが、私は法学の専門家でも何でもないので、細かい部分では大いに間違っている可能性もあります。しかし、与えられている定義と例からすれば、このような理解でも決定的に根本的に間違っているということにはならないと考えられる、ということです。)


さてその擬制については、先ほど訳語を示しました。fictionです。そのまま音写すると、少しく異なる場面で使われます。「フィクション」ですね。fingere「曲げる」というラテン語に由来するこの語の背景には特に触れないとして、こうして現実でないものを、法に書かれていない嘘を導入するということは、法運用の場面では日常茶飯事です。

擬制はローマ法の時代からあるものですし、極めて長い歴史を持ったものです。

先ほど挙げた失踪者を擬制的に死亡したものと看做す例も、もともと敵に捕らえられて帰ってこない兵士を死亡したものと看做す、いわゆるコルネリウス法の擬制というものにひとつの原形があると言えます。

法的に極めて重要な概念であると同時に、私にとっては嘘やフィクションといった人生に直接関わってくる概念で、なんとなく面白く思われていたので、知識も教養も全く足りないながら、細々と本や論文を読んできたという次第です。

少し前には来栖三郎の『法とフィクション』(東京大学出版会)にはいっている論文もいくつか読みましたが、法学の素養がなく放置してしまっていたところです
(汗)。

最近新たな論文をぱらぱらと読んで、擬制の機能に関する別の側面を知ったのですが、それが極めて刺激的だったので、今書いているという次第です。


先に軽くまとめましょう。

既に見た通り、擬制は或る種の「みなし」、つまり「そうでないものをそうであるかのようにみなす」ということです。

そして擬制は、法(学)の歴史と実践において、既存の法と現実が対立したり、うまくかみ合っていなかったりするときに用いられ、そして次なる法へと(法改正へと)繋がっていく、とされる点が、面白く思われたのです。

つまり擬制=フィクションが、現実と理想を架橋する実践的機能を持つということが、非常に面白く思われたのです。


もう少し具体的に文章を読んだ方がわかりやすいかと思いますので、先ず末弘厳太郎(すえひろ・いずたろう)の文章を提示したいと思います。

こちらのリンク(青空文庫です)から、是非お読みください

『嘘の効用』というなかなか刺激的なタイトルの、短い講演です。

中立的な議論を行なっているわけではなく、いわゆる概念法学(悪く言えば杓子定規な法学)を批判する、極めて強い個人色のあらわれたものでもありますが、もとが講演であるということも手伝って、擬制入門とでも言うべき、平易な語り口になっています。

(講演自体はかなり平易ですし、皆さんにも是非読んでいただきたいなと思います。特に擬制に興味のない方でも、第2節は、目下の状況において極めて示唆に富むものなので、是非!)

末弘は非常にわかりやすい説明から初めます。

私たちは、「嘘はダメだ」「嘘をついてはいけない」と言われます。
嘘をつくと損をするということを、半ば脅迫のように、狼少年の物語などを通じて教えられます。嘘はダメだということを小さい頃から教えられて育ちます。こうして誰もが、「嘘はいいことですか」と聞かれたら、「悪いことです」と答えそうなものです。しかし、世の中には嘘が絶えない。

法律の運用のうえでも、これは大きな問題になります。法律の運用は、厳密に行わなくてはならない。そうすべきである。あるものが入力されたら必ずある判断が出てくる、というのが理想形です。しかし他方で、杓子定規はダメだという要求もある。個々の状況や条件に合わせて司法の判断は変わってくるはずであるし、そうであるべきだ、という要求がある。

つまり厳密さと柔軟さという相矛盾する要求がある。嘘をついてはいけないけれども、つかずには生きていけないという相矛盾する要求がある。

嘘をつかねばならない。そしてこの嘘を法の運用の側でついてしまうのが、擬制だというのです。

法の運用にはこうした擬制が満ちている。先程見た事例——失踪者を死亡したものとみなすこと、電気を財物とみなすこと、婚姻を以って未成年者を成年とみなすこと、等——は、単なる例で、法運用は擬制の生い茂る森です。


擬制は単なる嘘ではありません。個別の事例における例外的な措置というわけではなく、裁判所が慣例として認めるものでさえあります。

そうした擬制が法律の運用の中には満ちていて、しかし擬制であるからには、法律それ自体の改正には至っていない。擬制というのものは謂わば経過的な措置に過ぎず、本当は既存の法が改正されるところまでいかなくてはならないところ、擬制という弥縫策を使って或る種問題をいなしている。

裏を返せば、擬制が存在しているということは、法が運用上は改正されているけれども、未だ立法プロセスにおける改正を被っていない(にすぎない)、ということを説明するものでもある。この点で、擬制は現状の法と未来の法の間を架橋するワンステップです。だからこそ末弘は第8節で次のように言うのです。

『擬制』の発生はむしろ法律改正の必要を、否、法はすでに事実上改正されたのだという事実を暗示するものとして、これを進歩の階梯に使いたいのです。

擬制という嘘・フィクションは、単なる嘘とも言える。しかし、現状の法を杓子定規に運用することに問題を感じたうえで、現実に適応したかたちで恒常的に振り出される嘘は、法が近々改正されることを、あるいは既に事実上改正されていることを、意味する。つまり擬制は、より現実に適合した法律を定めるまでの一里塚としての機能を果たす、ということが、末弘の主張からは読み取れるのではないかと思われます。


この点、つまり進歩の一里塚としての擬制(フィクション)という観点は、末弘も引用している19世紀ドイツの法学者ルドルフ・フォン・イェーリングの著作において、より印象的なかたちで現れるようです。

イェーリングは『権利のための闘争』で有名ですし、高校世界史の教科書にも多分そちらで出ていますが、ローマ法の研究者としても知られており、『発展の諸段階におけるローマ法の精神』という著作があります。

邦訳を持っていないので、ドイツ語で読んだわけで、翻訳にそこまで確たる自信があるわけではありませんが、引用できればと思います。

ここまでの説明を読んでいただけた方であれば、下手に説明するよりも、翻訳を読んでいだたいたほうが幾分わかりやすいかと思いますので、以下に訳出します。

私の大して上手くない訳であっても、下手に説明を尽くすよりは、先ず引用に語ってもらったほうがよいでしょう。以下、注意点はいくつかありますが、
・「知(=学問)」としたWissenschaftは、法という知的構築物の運用の場面をも参照すること、
・擬制が(真理探求を旨とする)学問においては適さない、という批判を見越して、イェーリングがそれを逆に批判していること、
擬制なしでいけるならよいが、擬制なしで全く不適切な法運用が行われるよりは、擬制がある方が当然善いと言っていること、
あたりは重要でしょう。

————(引用ここから)

引用元:Jhering, Rudolf von, Geist des römischen Rechts auf den verschiedenen Stufen seiner Entwicklung. Teil 3, Bd.1. Leipzig, Breitkopf und Härtel, 1865, S.287-288.


擬制(Fiction)によって困難は解消されるのでなく回避される、ということから、擬制はなるほど、課題解決の、学的にして不完全な形式として特徴付けられる。擬制はまさに、空取引と同じように、必要に駆られた技術的な嘘の名に値する。

しかし他方で、擬制は、実践的には全く[来たるべき法と]同じ目的へと導く、より軽やかにして、より快適な道を切り開くものでもある。以って擬制は進歩を容易にし、知(=学問)が課題をその完全な形において制御する力を未だ欠いているときにあってなお、進歩を可能たらしめる

擬制がなければ、影響力に満ちたローマ法における多くの変化が日の目を見るのはもっと後になっていたに違いなかろう。

次のように言うのはたやすい。擬制は弥縫策、松葉杖に過ぎず、知(学問)が用いるべきものではない、と。知(学問)が擬制なしで完全になりうるならこうした言い方もできようが、そんなことはありえない!

あるいは、知(学問)が(擬制という)松葉杖を支えに歩んでゆくことは、松葉杖なしで崩れ落ちてしまったり、今いる場所から出ていけずにいるよりも、ずっとよい

(中略)

知(学問)が幼年時代を脱してなお、そしてこの知(学問)における千年に及ぶ思考の鍛錬によって、ついに抽象的思考が確かで完全なものとなってなお——こうした確かさと完全性は、教説の理論的基礎を新しく形作るために不可欠だが——、全く新しい考えをものにするための最初の手がかりとして——理論的な苦境においては——擬制は確かに正当化されるのである

擬制を伴う秩序は、擬制なしの無秩序よりも善い!

————(引用ここまで)



既存の法は、現実に対応しきれない面がある。既存の法を杓子定規に適用して、現実・人心に反したような決定を下しつづつけることはできない。しかし、いきなり法を改正するわけにはいかないこともある。つまり完全な解決策をとることができないこともある。

だから、これこれこういうものは、これこれこういうものとみなす、という擬制をとって、不完全な解決策とする。法の運用を柔軟にする。

こうした作戦の不完全性を指弾することはできるし、なにより嘘はよくないかもしれない。しかし擬制は嘘、弥縫策にとどまらない。そこには既に、次の法への萌芽が見られる。だからこそ擬制は、イェーリングにおいても末弘においても、「進歩」として説明される。それも最初の一歩として、実施しやすい最初のプロセスとして、極めて重要な位置を与えられている。

即座に法を変えることはできない以上、擬制=フィクションこそが、法の漸進的な改良を可能にしている。まさに擬制=フィクションが、既存の法から次なる法への、つまり現在から未来へと進むための第一歩になっているということです。


翻って私たちも、適切に嘘をつくことで、フィクションを立てることで、今の自分の置かれた環境から、新たなところへと身を移していくことができるのではないでしょうか

イェーリングも見ている通り、いきなり法律を変えてしまうということには、困難が伴われることが多い。その中である課題を解決するには、或る種の嘘が効果的であることもある。それが擬制です。

私たちも、今の自分から新たな自分にいきなり変わろうと思ったからといって、すぐに変わることはできない。金銭的・物理的な事情もあるかもしれません。気持ちのうえでも、変わるには相当な労力とお金がかかるものですし、すぐに変わろうと思って変われるわけではないでしょう。

そこで私たちが利用しうるのが、この擬制の観念、ないしは単純に言って、嘘やフィクションではないかと思われるのです

たとえば私がやっていることですが、Webであれどこであれ、嘘の人格を立てる。これはもちろん、完全に理想ではないかもしれないけれど、理想に少し近い人格です。そうして、この理想に近い自分を運用することに慣れていって、嘘の自分を、理想の自分へと至るための、あるいは新たな自分へと至るための一里塚として利用する。

なるほど、私たちの人生は、勿論、現在から振り返った法の歴史に比べれば、極めて複雑で、ずっと難しいもののように思われるかもしれません。以って、学者の戯言を現実に引き下ろしてみる作業を嘲笑される向きもあるかもしれません。

しかし、法律の運用にあたっても、それぞれに個別的な事情や極めて深刻な問題というものが必ずあったわけです。法の発展は、必ずしも机の上で・抽象的に・機械的に、難なく達成されてきたわけではありません。ドロドロの現実があり、それに対応するかたちで発展してきたのです。法がほんとうに抽象的なものであるなら、法を改正してオシマイにすればよいのですし、そもそも高い教育を受けた判事も必要ない。しかしそうはいかない。法は必然的に不十分です。だからこそ、擬制・嘘という微妙な、「不完全な」解決策がとられるし、そうせざるをえない。達成すべき法改正の前段として、とられざるをえない。

であれば私たちも、そうした現実的な努力を行なってきた法律の発展の歴史を気儘に参照して役立てることができそうなものです。つまり、現在の自分に対して新たな自分を擬制し、そしてその擬制を通じて、新たな自分を実際に成立させてしまうことができるのではないでしょうか。そうしたかたちでフィクションを生き、自分を「改正する」というかたちで現実に跳ね返らせることができるのではないでしょうか。

そしてその手段は、今私がやっているようにインターネット上に何か情報を流すということでもよいし、あるいは日常の環境で何か実践するということでもいい。「勉強できる自分」を装ってみるということでもよい。なんであれ、気取る、気位を高く持つ、そうした自分を見せるということが大切であるように思われます。

そうしたガワを作って見せているうちに、「現在の自分」がショボいということに耐えられなくなる。以って、戦略的な努力が、水面下での猛烈なバタ足が、実施される。いきなり「改正する」ことは、難しい(たとえば、いきなり成績や学力が向上することはない)。けれども、実力のあるフリをすることは、さしあたって不可能ではない。「フリ」が達成されつつある、つまり改正が実現されそうなら、少しずつ「フリ」のレヴェルを上げる。こうして戦線を前に前に進めてゆく。……

ともかく、前進することを見越して或る種のフィクションをたて、それを足がかりにして少しずつ現実をよいほうへと変えていく法運用の手法には、学ぶべきことが多いように思われるのです。

もちろんこの背後には、自分がどこを目指すのか、ということに関する、透徹とした意識が必要になるでしょう。そのうえで、現在地と目的地の間の懸隔を明確に認める。いきなり目的地に至ることはできない。だから、まずはつける嘘をつく。その嘘のほうが、少しずつ現実を目的へと牽引してくれるだろう、ということです。