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道のりがつらすぎた。→宅地建物取引士・資格試験。

めっちゃつらかったよ、ってだけで、受験生がんばれ、とか、そんなお話でない。
ただただ辛かった日々のことである。
ただただ「運が良かった」って思ってる。

先に云うと、ぼくは、本当に勉強が出来ない人間であって、まず最初にしなければならなかったことは「勉強のやり方」からだった。

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宅建士。それは日本有数の受検者数を誇る資格試験。
令和6(2024)年度は、過去最高の30万人の申し込みという。

誰だ? 簡単だよ、なんて吹き込んだヤツは。

何となく受験を目標にして学習を始めて、今年で最後にしようと思いながらも、合格発表からひと月、ふた月も経つと「やっぱ悔しいなぁ」などと、いっちょまえの感情を抱いて、結局また2月頃からちょろちょろと手を付け始めること幾年と続け、ひどくアレな時間を費やした。

良かった点を上げれば、合否に関わらず、あまりなじみの無い物事の端緒に触れる機会にはなったとは思ってる。「ライフハックだな」と感じた部分は多い。

とにもかくにも合格した。してる。たぶん。
なのに、未だ引きずっている。
内にある何かを外に出力しなければならぬ、と思った。

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宅建士の試験は毎年10月の第3日曜日の午後に実施される。

そのひと月くらい前の9月も半ばになると気分が悪くなる。
ああ、試験だ。今年も試験だ、と。

それが未だに尾を引いているのは、本当に辛かったんだよなぁ、って思う。今も思う。あれから何年経っても思うのだから、これからもそう思い続けるのであろうと、これまた気分が暗澹とするのは想像に難くない。

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勉強のできないぼくは、毎年これだけの受験者がいて上位15%くらいしか合格しない、なんてことすら分かっていないで挑んでいたのである。

なんとムボーな。
これがお勉強の出来ない人の思考です。

2-3月頃に参考書を揃えて、流し読みして、ノート作ったりして、9月に入って慌てて追加でテキストを買ったりして、これもうお勉強出来ない人のムーヴそのままじゃんか。

って、そんな按配なのだから、もちろんお察しのお察しである。

上位15%っていう合格ラインがもうヤバい。

この点数がとれたら合格ですよ、ではなく、その年の「みんなが解けなかった問題はこれくらいですよ」からの合格ラインである。

だいたい35点くらいである。高いときは38点とかだったりする。
50問中3割、15問を間違えては無理だ。安全なのは10問までで、つまり、あのトンチキな50の問題のうち、四肢択一の40問は正解してないといけませぬ。

宅建の試験問題は「間違いさせるため」の、あの手この手の、たいそうイヤらしいものである。

たった一点がために、合格したり不合格になったりする。
試験なのだから当たり前ではあるけれども、50点満点中の1点は思いの外、重い。

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業法から解くといいデスヨ、って知ったのは2度目か、3度目かのことだったと思う。

これを知っている/知らない、は、とても大きかった。
業法から解くようになってから、何となくの手応えを感じるようになった。

試験問題は民法から始まり、業法は後半にある。
しょっぱなの民法が気持ちをくじくのである。むしろ積極的に折りにきてる。絶対そうだ。そういう風に出題側は作ってる。

業法は、過去問の周回をしつつ憶えられる部分が多く、繰り返すだけでもわりとイイ線までいける。いけた。いけたと思ってる。

過去問の正誤判断の根拠(ナニユエに正・誤としたのか)と、隣接の知識(似た数字があっても、こっちはアレ、あっちはコレ、みたいな)までカバーできたら、ほぼアガリだと思う。

試験開始直後に問題ページをすっとばして、26問目からマークを始めるのは、ちょっと怖いことはないこともない。ズレてたら後々に響く。

業法は基本、暗記なので、過去問周回のうちに短期記憶から長期記憶におさまっておる。何年も何回も試験を受けていれば、ウッカリさえしなければ、目標に充分届く。届いた。たぶん届いてる。

解答はサクサク進むし、殆どが難しくないもん。だからして時間と気持ちに余裕が出来る。数問の分からんもん、に幾ら時間を割いても、分からんもんは分からんもんなので、後回しでいいのだもん。時間をあけて戻れば、あっさりと分かることもあるもん。

問題冊子への書き込みをめっちゃする。問題文に線を引く、マルで囲う。正しいのはどれか、間違いはどれか。
選択肢のあからさまな間違いにバツをつけていく。正誤の根拠にした部分をマルで囲う。イマイチ自信が持てない問題は横に「?」を書いておく。

業法から解いて、最後まで進め。

五問免除の統計なんて、傾向をまとめたものを配布してくれてる宅建資格系サイトから数日前に出力して、前日にでも憶えておけばいいのだもん。試験開始前に業法とか民法だとかを見返して(あれっ!?)と疑問が出て分からんまま試験時間になったら、それはそれでメンタルがあやういで、見返しは統計だけにする。

試験問題の後半部が一通り終わったら、いよいよ楽しい民法だ。
解けなくて当たり前だと云われていても、やっぱり「ゥオッ」と、狼狽するような問題が続く。聞いたことも見たこともない、そんなんばっかりだ。
1問目から(あ、ダメだ)って、もう負け戦。

それでも、判例問題が出た年は「当たり」と思った。長文を読むのに少しばかり時間がかかるとは云え、正解が文中に必ずあるのだから。

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勉強はだいぶ、だらだらやってた。ながらでやってた。それのお蔭で、試験中に隣の人の消しゴムで机が揺れるとか、会場の変な音だとかで邪魔される、なんてことはなかったと思う。変な能力を手に入れた。

手で書いて憶える派なので、B5ノートに(かなり)乱雑に書いて、別に読み返すわけじゃなくて、反復させた。

あとイメージをつかむのに図を作ったり、身近な事例に当てはめて「こういう場合はこうだ」的な覚え方は、それなりに有効。自分のフィールドでの比較ができると、暗記は早い。

市販のテキストだけでは厳しいと思ったので某通信講座を受けた。高かった。落ちた。別の通信講座を受けた。安かった。受かった。

オンライン講座なので習慣化しやすく、日々の進捗もグラフで可視化してくれるので、自分の得手不得手がよく分かる。ありがとう通信講座。あんた、最近、これサボってるね、って問題をセレクトしてくれたり、理解度パラメータとか出してくれたりして、なかなか至れり尽くせりでよかった。
PCだけでなくタブレット、スマホからでも好きな時間、スキマ時間、手持ちのガジェット対応で、本当にありがとうだった。あと全部オンラインだから邪魔なテキストがなかった。
テキストや問題集の物理的な厚みって、存外に精神的なプレッシャーになる。

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試験会場は変なところにあった。アクセスの悪さに、やられる。電車のみならず、バスを乗り継ぐとなれば、けっこう早めに行動で、じりじりとバス停に立っていた。

晴れの年もあれば、雨の年もあった。次から次へと、あの手この手と気持ちを折りにくる。

会場に着いたら着いたで、人の多さにやられる。なのに、この中の10人に1人の割合でしか合格にならんのだ。まあ、それは気にならんかった。落ちるときは落ちる。受かるときは受かる。隣の人なんて、いたことしか憶えておらぬ。でも、人の多さには参った。

そして指定された場所に着席する。鉛筆を並べる、時計を置く、説明がある、トイレ行く。

試験開始までは、ひどくゲェしたい気分ではあるが、開始の合図からは、ちっともゲェじゃない。
どうあれ、2時間後には放免されることが約束されているのだから。
およそ十ヶ月の苦労(?)から、自由になるのだ。
試験中の集中力は自分でもスゴかった。と、今でも思う。

ひととおり解いて、残り時間30分前には終わる。見返しの時間ですよ!

たいていの人は、そこで勘違いに気付いて直したりするようだけれども、どうにも自分の場合は、迷った問題を見直すとアウトだったりする。

イマイチ自信の持てない「?」をつけた問題は、よほど迷った場合以外は、「うさんくさい文言」を探した。引っかけに来ている部分は、なんとなく見えてきたりすることもない。のだけれども、全てに通用するわけでないので、自分でも信用していない「直感」に頼る。読み返して「これじゃ」と確信が持てないであったら、最初にマークしたままにしておく。
どう考えても分からんもんは、どうしたところで分からんもん。

そんな次第で、残り時間はマークシートの塗り直しで時間を潰してたりした。
もう気分は「終わった」である。二重の意味で。

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試験終了の合図と共に、何もかも捨ててた。自己採点なんてしなかった。帰宅してすぐにテキストを資源回収用に縛って出してた。

発表までは試験について何も考えなくていい、一年で一番、穏やかな時間であった。

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結局、落ちたな、と確信する11月末の合格発表から三日くらい経ったころに、費やした時間と労力に釣り合わぬ、と今年を最後にやめてしまえ、と思うのだが、どうにかすると、年が変わってしまうと「やっぱり、もう一年」などと余計なことを考え始めて、2月くらいには上述の通り再スタートをするのであった。

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今にして思えば、撤退する機会は、いつでもあった。
損益分岐で考えるより、それまでのモノとコトに固執していた。
きちんと向き合って、自分の得手不得手を知り、傾向を分析し、十全に対策を練れるのならば、それは才能で、能力だ。
それも持たず何もできず、ただなんとなく、ぼんやりと思うのならば、さほど必要でない事柄であり、撤退でも経験にはなっていた。
好きなこと、ではなく、できることを、とはよく聞く文言で、だから、好きでもなく、できないことを続けるのは、もはや何か「オカシイ」のである。イビツでグロテスクですらある。

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最終的に費やしたのは、結局のところ欠格事由が云々くらいの歳月で、さすがにそれを超えたら「アカン」って云われた人でも「ヨシ」になったちゃうんだなぁって思ったわけで、だから郵便の人がポスト投函でなくわざわざ届けに来てくれたとき「なんか通販で頼んでたっけ?」と扉を開けてびっくりした。

そんな按配だったから、イマイチぼくは実感が持てないでいる。
そんなんだから、毎年9月も半ばになると、どうにも胸がざわつく。

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