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【展覧会小説】なくてぞの椅子

王が死んだ。玉座は空いた。
しぶとそうに見えた絶対君主たる王は、70を迎えた後あっけなく死んだ。

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あゆみは顔を上げて立ち昇る煙を眺めた。
「今まさに父は”荼毘に付”されているのか…」と妙な感慨を覚えて嬉しくなった。嬉しいという気持ちがその場において相応しい感情ではないことは重々承知しているが、それでも嬉しくてたまらなかった。

決して父親の死を嬉しく思ったわけではない。言葉の定義を、頭ではなく心で、実体験として理解したと感じる時、あゆみは嬉しくなるのだった。以前勤めていた会社で、毎日終電ギリギリで帰る生活をしていた頃、くたびれた足取りで渋谷駅に続く歩道橋を登り切った時、「これが”搾取”ということか」とはたと気づき、やはり嬉しくなったのだ。高校生の頃、英語の問題文に出てきた「exploitation」が分からず辞書で調べたが、日本語の「搾取」の意味が分からず、広辞苑で「搾取」を調べた。そこには「しぼり取ること。特に、資本家・地主等が、労働者・農民等の労働に対し、それに価するだけの支払いをせず、利益をわがものにすること」とあったが、あゆみにはそれが理解できなかった。文章の意味が理解できなかった訳ではない。中世や帝国主義の時代じゃあるまいし、なぜ民主主義となったこの現代で、そのような不当な利益を得ることができるのかが理解できなかったのだ。世界はそんな不平等など起きないようはずがないのではないか、と。高校生のあゆみには「搾取」ということなど起こりえないほど、世界は”清く””正しく””美しい”と信じていたのだ。

「あゆみ!」

「荼毘に付す」真っ只中にいる感慨に浸っていたあゆみは、その声にビクッとした。そしてそれまで母親の洋子がじっと自分を見つめていることにようやく気付き、目が合った瞬間とっさに顔を伏せた。
「やってしまった…。」
あゆみは面倒なことにならなければよいがと祈るばかりであった。周りを見回すと、洋子はあゆみの名前を一言呼んだきり歩き始め、喪主を務めた兄の慶一と車に乗り込もうとしていた。見回せば、参列者たちも次々に車に乗り込む最中であった。あゆみは小走りで遺族用の車に乗り込んだ。

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「四十九日は帰ってくるんでしょうね?」

家に帰り、あゆみはダイニングテーブルの椅子に座って紅茶を飲んでいた。そのあゆみに向かってようやく着物から洋服姿に戻った洋子が台所に入ってきて聞いてきた。

東京で一人で暮らすあゆみにとって、帰省するには飛行機、電車、バスを使わないといけないこの田舎町まで帰るのは面倒この上なかった。いや、面倒に感じているのは交通手段ではない。この「家で過ごす時間」なのだ。

「その頃は仕事が忙しくなるから…ちょっと休めそうにないかも。」
手帳を開くまでもなく「残業ほとんどなし、土日祝の休日」という今の仕事を思い浮かべながら、あゆみはキャリアウーマンぶりを装った。
「お父さんの四十九日も帰らないなんて…」
その後の言葉を洋子は言わなかったが、忌々しく思っていることがありありと伝わった。代わりにリビングにいた慶一が、キッチンに移動しながらその続きを引き継いだ。
「お前、親父の四十九日に帰ってこんつもりか?いつからそんな薄情になったんけ?葬式の時だって泣きもせんし…。そんなに親父が嫌いか?」
「火葬場でもあんた笑ってたね。親が死んだっていうのに…。ねぇそんなにお父さんが嫌なの?いつからそんなになっちゃったの?」
洋子が今度は泣くような声で言うのだった。

あゆみはうんざりして天を仰いだ。あゆみは、実の父親の死に直面しても涙を流さない自分と、出棺の際にみっともないほどに泣きじゃくる一方で、私が泣いていたかどうかをチェックしていた兄の、一体どちらが人間として歪(いびつ)か判断できなかった。卒業式でも感動的な映画や舞台を観た時でも、周囲に泣いてる人がいると涙が引っ込んでしまう性質であったあゆみは、「悲しい=泣く」という方程式は必ずしも正しくないと思うのだが、この家においてはそうではない。

「お父さんが死んだことは素直に悲しいし、嫌いとかじゃない。ただ……もう、分かり合うことはないんだろうなってそう思ったの。思ってしまったの。悲しいけど。」

そう答えるのが限界だった。

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父は「王」であり「法」であった。
それは片田舎の小さな家の中と、父が営む工場のわずかな世界の中だけのことであったが、そのわずかな世界の中で生まれ育ったあゆみにとっては、それは「世界の王」であることと同義だった。

父は”昭和の親父”を代表するような人だった。一家の大黒柱として、威厳もあり、子どものあゆみの眼には、母親はまるで父の召使いのようだと感じていた。あゆみの中では夜遅くに仕事から帰った父を、リビングから見上げ姿が最も「父親」を象徴する姿だった。小学4年生で学年でも小柄な方だったあゆみにとって、当時40代になったばかりの父は体格差からしても、精神的にも”大きな存在”だった。それは”頼もしいお父さん”のイメージでもあり、”畏れるべき王”のイメージだった。

時には子供にも手を挙げる父であったが、愛情深くもあった。親戚や祖父母に対しても人見知りをしてしまうあゆみのことを、誰よりも理解し見守っていてくれたのは父だった。上京の折、あゆみが立派な人生を送ることを誰よりも信じて期待していたのも父だった。自分の考えが絶対に正しいと言って憚らない不遜なところや、言い出したらひかないとこなど、欠陥や面倒くさいところはあるにせよ、あゆみは「父」を尊敬していたし感謝をしていた。

そんな父の家の中での定位置は、ダイニングテーブルの椅子だった。あゆみが中学生の時に買い替えたテーブルと椅子のセットは、小さな家の小さな台所の中に不釣り合いな大きさで、4脚の椅子のうち2脚はあゆみが高校を卒業するまでの間に、簡素な丸椅子に置き換わっていた。ただ1脚、父が座る椅子だけが当初の(クッションも背もたれもひじ掛けもついた)椅子のままだった。父の玉座は、たとえ先に他の誰かが座っていても、父が座ろうと思った時には絶対に明け渡さなければならなかった。父が丸椅子に座ることは決してなかった。この小さな家の中にある不釣り合いの大きな椅子は「父」の象徴だった。

ちなみに丸椅子が2脚で済んだのは、母の洋子が食事の際に座らないからだ。もともと小食の洋子は食卓を一緒に囲うことはなかった。あゆみたちの食事中は食事の世話で動き回り、終われば風呂掃除や洗濯物の片付けなど家事に追われていた。洋子が椅子に座って食事をするのは、あゆみたちが風呂に入ったり、テレビを見るのにリビングに移動した後で、一人テーブルで残り物を食べるのだった。それがあゆみの家の家族の形であり、誰もが自分たちのことを「家族愛に満ちた家庭」と思っていた。一人が食卓の席から欠けていても、それを「いびつ」だつは誰一人思っていなかった。

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その「王」への信頼は突如として訪れた。
あゆみは大学進学で東京に出て、そのまま東京で就職し、ひとりで暮らすまま3回目の年女を迎えていた。その間に兄の慶一は結婚し、2人の子供も産まれた。その時の正月、数年ぶりの帰省したあゆみは、父の姿にショックを受けた。それは腰が曲がってきたとか、体力の衰えで階段の昇り降りですぐに息を切らすようになったとかという身体的な類のものではなく、己の考えこそ正しいと信じて疑わず、他者への思いやりを欠いた姿、いわゆる”老害”になり果てた姿にだった。

それは1通の年賀状から始まった。何年か前に脳卒中か何かで倒れて以降、左半身が麻痺し介護生活となった叔父(一家)のその年の年賀状に年賀状納めをする旨が記されていた。そのことに父は立腹した。昔ながらの父は、年賀状はきちんと出すもの、それが”美しき日本の伝統的な文化”と信じて疑わない。この先どれほど長く生きられるか分からない半身不随の叔父さんと、日々その世話をするおばさんのことを思うと、律儀に年賀状を出せる状態でもないだろうとあゆみには思われた。

しかし父は許さなかった。父の言い分では、何かあれば自分が手助けをするつもりでいるから、その自分に年賀状を寄こさないとは何たる無礼か、ということなのだ。たとえ世界が21世紀になろうとも、日本が「令和」と元号を改めようとも、家父長制が色濃く残る片田舎では、長男である父は一族の「王」であり、その統治下は君主制なのだ。王は王なりに、己が統治する民、つまり家族や親族に対する愛情はあるのだ。だから余計に性質が悪いとあゆみは思う。「愛してる」と言いながら相手の首を絞めるようなものだ。

年賀状を毎年作成する手間を煩わしいと思う介護生活の叔父一家と、正月早々年賀状納めを宣言した親族を「ろくでなし」となじる父の、一体どちらが無礼なのか、あゆみは冷めた目で、ブツブツとひとり呟く父の横顔を眺めた。己の考えを正しいと信じて疑わないのは昔からもそうであったが、それでも昔の父には、相手の置かれている状況や立場、性格や心情など、様々な人間の機微を汲み取れる人であったはずだ。少なくとも、激しい人見知りだったあゆみの性格を無理に矯正しようとするのではなく、ゆっくりと見守り続けてくれた父であった。その父が、言ってしまえば”たかが”年賀状納め位ののことで、驚くほど激昂しているのがあゆみには哀しかった。父が怒れば怒るほど、「父」であり「王」であったその威光は見る見るうちに消えていくのだった。あゆみの眼には父親の姿が、遠く、遠く、ずいぶんと遠く離れていき、ひどくちっぽけに映った。

絶対君主であった「王」の威厳が失墜すると同時に、それまでの「家族愛」が歪んでいたことに気づいたのだ。母が一緒に食事をとらないこと。当人たちの顕在意識ではそのつもりはなくても、無意識レベルで刷り込まれた”家父長制”的な思考回路にあゆみはゾッとするようになった。

あゆみは友人や兄の結婚式に参加するたびに、想像することがあった。それは式のラスト、花嫁が両親に向けて贈る手紙のシーンだ。あの展開を見るたびに「結婚式とは両親のためにするものなのだな」とつくづく思っていた。そして、自分が結婚式を挙げる時が来たならば、手紙には何を書こうと想像するのだった。素敵なウェディングドレスを着たいとか、盛大なパーティーを開きたいとか、オシャレな式場で式を挙げたいとか、そんな願望や妄想は1つもしないのに、両親に向けた手紙のことだけは毎回想像していた。想像するくらいには、あゆみの中にも「家族愛」があった。

しかし、その年賀状の一件以降、あゆみは極力実家に帰るのを避けて、冠婚葬祭(というよりほぼ「葬」)の時だけ戻り、滞在時間も必要最低限にとどめた。突然の娘の変化に両親は戸惑った。そして父はあゆみのことも「ろくでなし」と断罪するようになったので、余計に帰らなくなった。

父の死を知らせが入った時、あゆみは8年会っていなかった。その8年で急速に衰えたのか、臨終の床の父の姿はあゆみの記憶の姿とは異なり、一瞬死体を間違えたのかと思ったほどだった。会っていなかった8年の間で、あゆみの中の「父の姿」が、どんどん壮健だった40代の頃の、最も父が「父らしい」姿であった頃のイメージに置き換わっていた。目の前にいるのが「父」ではなく「老いた老人」にしか思えなかった。

イメージの中の「父」と、息絶えた「父」が結び付かないまま、粛々と通夜と葬式が、始まって、終わった。

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「あゆみ!聞いてるの?」

洋子の声にハッとした。ずっと洋子が何かを諭していたようだったが、己の記憶の渦に飲み込まれていたあゆみには何一つ聞こえていなかった。

「もういいわ。お母さんもう疲れたから…。」
そう言って洋子は台所を後にして風炉を沸かす準備をしに行った。「私がするよ」と言いそびれたあゆみは、ただ一人椅子に座ったまま取り残された。慶一はとっくにリビングに移動してテレビを見ていた。慶一にとっては、そうやっていれば自動的に風呂が沸くようになっているのだ。その後ろ姿を見て、あゆみは暗澹たる気持ちになるのだが、多分この家の中にこの気持ちを分かってくれる人は誰もいないのだろうなと思い、まだカップに残った紅茶を見つめる。

あゆみはずっと父の”玉座”に座っていた。この椅子にいつまでも座っていられることが、父の「不在」を証明していることに気づいたあゆみは、大きなその椅子に全身を預け、ようやく涙をこぼした。動かなくなった父の姿を見た時よりも、灰となり煙となっていく様を見た時よりも、何一つ変わらず台所に鎮座するこの椅子が、何よりも父の死をあゆみに実感させた。

この椅子に座る父とたくさんのことを話した。小学生の時はテレビから流れるニュースについて教えてもらった。中学3年生の時は進路の悩みを相談した。最寄りの高校ではなく、少し遠い志望校に行きたいと説得するのに長いこと時間をかけて話した。ビンタをされるほど怒られた(何のことで怒られたかはどうしても思い出せない)。高校の学年末テストで上位20番以内に入って褒められた。他愛もない世間話をした。一緒にご飯を食べた。そういえばステーキだけは父が作ってくれた。

些末なことで氷のように固まってしまった「父との時間」が溶けて一気に止めどなく溢れてくる。その思い出はどれも取るに足らないものばかりだった。しかし、それは良い所も悪い所も含めて、紛れもなく「父」だった。

ずっと父の威厳の象徴であった玉座は、その王たる父がいなくなった時、あゆみに「父との時間」を思い出させた。そして、ようやく「記憶の中の父」が「不在」であることを実感したあゆみは、ただ一人涙を流すのだった。

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この短編小説は、埼玉県立近代美術館の「アブソリュート・チェアーズ」展から着想を得て書きました。

ライターとして展覧会の紹介記事も書いています。こちらもぜひご一読ください。


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