風景画小説:幻の風はシーグラスと同じ色をしている
これはなんですか:先日、風景画杯という小説コンテストを知ったのですが時すでに締め切りの30分前でした。それから書き始めたフィクションです。ややBL風味。レギュレーションはあっているはずですが、締め切りが過ぎて24時間以上経っております。ゆえに風景画杯のタグはつけませんが、何も起こらない小説を風景画と称するのは大変に詩的な表現だと感心しましたので、風景画小説のタグを使用しています。
【幻の風はシーグラスと同じ色をしている】
父さんと母さんのお墓は島にある。父さんの故郷で二人とも眠っている。
街から高速道路を使って港まで二時間、一日六本のフェリーを待って一時間、今年は晴れてて埠頭から島影が蒼く見えた。そのフェリーに乗ってさらに一時間。どんぶりをひっくり返したような形の島は、蒼からだんだん緑を濃くして、港と麓の町と丘と森がはっきり見えてくる。
俺は自動車だってあんまり得意じゃない。波に揺られるフェリーなんかもっとダメだ。港から港までのあいだ、せめて風通しの良い甲板に居たけれど、耐えきれなかった。島の港でぶちまけてしまった。
それでも夏休みが来るたびに兄ちゃんの車で、兄弟二人でここにやってくる。俺はこの島に住んだことはないけれど、兄ちゃんにとっては託児所時代を過ごした故郷だから。漁業と観光を細々とやってる島には、十八年前の時点で既に幼稚園も保育園もなかったとしても。
兄ちゃんが暮らしていたという町営団地はちょうど港の反対側で、しかも廃墟になってしまっている。だから今は港の民宿に荷物を預けて、まずは寺まで歩いていく。
海から見えた通りにこの島は海から離れればすぐに上り坂になる。どんぶりの畳付きを頂上に見立てて寺は二合目、墓地は三合目にある。
空には綿菓子みたいな雲が三つも四つも漂っているくせに、それは日差しを遮らない。フードを目深に被ったところで、真夏の何もかも白飛びさせるような陽光には安いラッシュガードのペラペラな生地なんか特に意味はない。目が痛いくらい、眩しかった。
普段は東京で働いてる兄ちゃんが迎えに来てくれると思ったら、昨日は緊張して眠れなかっ
た。汗が目に入る。ぎゅっと目を瞑ったら、もう立っていられなかった。
「ハル、ハル、大丈夫かよ」
首筋に何か冷たいものが当たった。
「うぅ」
俺はそれを素直に受け取った。兄ちゃんがくれるものに害あるわけがない。たぶん凍らせたペットボトル。まぶたに当てるとひんやりして気持ちよかった。
「寺までもう少しだから、な?」
しっとり温かい兄ちゃんの手にひかれて俺は立ち上がった。大丈夫。気持ち悪いわけじゃない。眩しいのを我慢して坂を見上げれば、寺の黒い瓦屋根が、陽炎の向こう側で雨でも降ったみたいにギラギラしていた。
寺の本堂は廊下に囲まれていて窓が遠い。日の当たらない隅っこなんてエアコンもないのに涼しいくらいだった。俺はそこに座らせてもらっている。寺だし、ご本尊あるし、いちおう正座で。目がちっとも暗順応してくれないせいで、ここに何があるのか暗くてよく解らな
いけれど、一定周期でぬるい風がやってくる。
「まあまあ、タカ君、立派になってえ」
「先生、お久しぶりです。それ去年も聞きました。これ、あげてやってください」
「あらあら悪いねえ。畑から何か持っていきなさいよ」
「僕ら今日島入りしたばっかりなんで……」
本堂は天井が高い。兄ちゃんと坊守さんで東京土産をやり取りする声がよく響いて外よりも二割り増しくらい大きく聞こえる。坊守さんは昔、保育士さんだったらしい。兄ちゃんから聞いた。島に一つしかない託児所に勤めていたそうだ。住職のおじいさんは街の病院に入院したって聞いてから、俺はもう何年も会っていない。
「ハル君も大きくなったねえ」
俺はちょっとびっくりした。坊守さんが俺に話を振ってくると思わなかった。慌てて頭を下げたら、フェリーで嫌というほど味わった酸っぱい感覚が喉の辺りにまたやってきた。春に学校でやった健康診断では俺は去年から全然背が伸びてなかった。だから坊守さんは本当にただ言っただけだと思う。
ようやく慣れてきた目は、納骨堂との境目でゆっくり首を振る扇風機をとらえた。
兄ちゃんが裏の畑のトマトや茄子なんかを持って帰れないと言うものだから、坊守さんはその畑からアヤメやカスミソウや俺の知らない花を切り取ってきて供花にしてくれた。ついでに桶と柄杓も借りた。
「島を出る時にはウチに寄んなさいね」
どうしても俺らに野菜を持たせたいらしい。
墓地までの道はスイッチバックじみてジグザグに続いている。ガードレールの根本ではイタドリが最盛期を迎え、蜜を吸う虫が野太い羽音を立てながら花に群がる。こんもりしたシルエットしか見えないけど、きっと熊蜂だ。山のどこかからジリジリと蝉の声もする。道を少し離れればすぐに雑木林なのか防風林なのかもよく解らない森になっているから、蝉がどこで鳴いているのかもう判らない。
「へへッ。大きくなったね、だってさ」
坂の途中で兄ちゃんが笑って言った。俺は、それが人の声であるというだけで、とんでもなくノイジーな虫の音の奔流からすくわれた気分がした。まして兄ちゃんの声だ。
「俺、そんなにでかくないよ」
それを伝えるためだけに、俺は小走りになって兄ちゃんに並んだ。兄ちゃんは汗みずくの俺の髪をわしゃわしゃ撫でた。クラスでだって学年でだって背の順で前から数えたほうが早い。
「そういう意味じゃなくてさ。お前は生まれたとき、これより小さかったしな」
そう言って兄ちゃんは庭花がぎゅうぎゅうに詰め込まれ、花瓶みたいになってしまった手桶を掲げて見せた。
「まさか」
「ほんとだって。ちっせえのに夜中じゅう泣いてうるさかったし」
「そんなに」
「そう。だから、お前はでかくなったんだよ、ハル」
墓地の入り口で不意に兄ちゃんが立ち止まった。俺が不思議に思って見上げると、兄ちゃんと目が合った。困っているような楽しいような、複雑な表情をしていた。それをずっと見つめていることなんて、恥ずかしい気がしてできなかった。それで俺はさっき兄ちゃんから貰ったスポーツドリンクを飲んで目をそらした。中身がすっかり溶けて、ぬるい。
父さんと母さんの墓は、俺らが去年の夏一年間誰も来なかったみたいで周りは草ぼうぼうだし、灰色のはずの墓石にはうっすら苔が生えていて暗い緑色に見えた。
俺たちは毎年そうするように、入り口にある非飲用の井戸から桶に水を汲み、持ってきたブラシで墓石を磨き、雑草はむしり取った。備え付けの花立てに寺で育った花を挿してヒトには飲めない水をたっぷりやる。線香に火をつけるのはそれからだ。
そして二人で頭を下げて、お墓に手を合わせた。墓地には俺たちのほかに誰もいない。蝉の声、熊蜂の羽音、どこか遠くでトンビが鳴いている。束で燃やした線香の強烈な香りが辺りに漂い始めた。
俺がゆっくり目を開いても、兄ちゃんはまだ目を閉じていた。
父さんも母さんも俺が小学校に上がる前に死んでしまった。正直、二人について覚えていることは多くない。顔さえもうおぼろげにしか思い出せない。弟がこんな薄情者では兄ちゃんが可哀想だ。
ただ、母さんのことは時々、強烈に思い出すことがことがある。真夏日だとか熱帯夜だとか、背中が暑くてどうしようもない時に、団扇で扇がれるような幻の風を感じる時がある。あれは母さんの記憶だと思う。たぶん。
きっと、兄ちゃんに聞いたら判るんだろう。俺が生まれた時には兄ちゃんはもう小五だった。俺が赤ん坊だったころをよく知っている。俺から幻の風の話をしたことは、ない。
墓石のサイドは墓に眠る人たちのリストだ。一番新しいのが『俗名 渡辺隆輔 晴香』
時々、兄ちゃんが羨ましくて羨ましくて、泣きたくなる。兄ちゃんはこの人たちとちゃんと家族だった記憶があるのだ。俺にとってはただの文字になりつつあるのに。自分の思考が人でなしで嫌になる。
兄ちゃんが合掌をほどいた。それを合図に俺は地面に置いといたペットボトルを取った。
「海、行こっか、ハル」
兄ちゃんがキラキラの笑顔で言う。うん、と俺は首を振った。兄ちゃんは毎年おんなじことを言う。背中が焼けるように暑い。風は吹かない。
取り敢えずこれから一週間、俺たちは海で泳いだり、浜でガラスのかけらを拾ったり、引き潮の時にしか入れない洞窟を通って秘密の入り江まで行ったりするんだ。
【幻の風はシーグラスと同じ色をしている】終わり