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シンキロウの降る庭

消えた鍵の重さを、てのひらが感じているのが不思議だった。

手渡された銀細工は、装飾のほどこされた持ち手よりも、差し込まれる先端の複雑さのほうが心を打った。使い方を知らなければ、うつくしい骨董だと思ったかもしれない。旧式の鍵を実際に見るのは初めてだった。鍵は半世紀前に廃止された、消えた代物のひとつだった。

「来てくれてありがとう。自分では、使いどきがもう分からなくて」

悪びれる様子もなく 、天嗣あまつぐさんがくすくすと笑う。かくれんぼうで、自分を探し回る鬼を物陰からわくわく見つめる子供のような、笑いの中には、あどけない弾みがある。わたしと同じ、三十の半ばくらいにしか見えないのに、今年で百五十になるのだという。名前も年齢も、高祖父にあたる血縁であることも、役所からの通知に記載されていた。わたし自身は特定の父母を持たないコミュニティーで育った世代なので、血縁であることに意味を見出していたヒトビトの心持ちを想像するのは難しい。にこやかに後裔に鍵を握らせた天嗣さんの、ゆたかな黒髪はうねりながら肩の下までのびている。

ずっと昔に廃止されたものが、当たり前のように在る家だった。

真四角や縦長。カバーに艶のあるもの、折れたもの。厚いもの薄いもの全て一緒くたに、テーブルやラグの上でうずたかいので思わず手を伸ばしてつついてみる。生まれるずっと前に廃止されていたので、旧式の本の読み方をわたしは知らない。鞄の中から、海苔を出す。

「お み や げ で す」

注意深く、旧式の発音で言う。古い時代のひとに、土産物としてたずさえるなら、製造方法のきちんと保存されている正規品だろうと思った。わたしたちのルーツの、正規品と呼ばれるものはもう数えるほどしか残されていない。その中で海苔を選んだのは、袋の表に大きく印刷された文字に強く惹かれたからだった。取り寄せて、いつまでも眺めた。のり。ゆるやかに流れてゆくような曲筆を、くりかえし人さし指でなぞり追った。

「僕に?」

呆然と呟いたまま開かれていた口が、こそばゆそうに結ばれた。うなずきながら、近くにあった本の山に海苔の袋を重ね置く。板張りのリビングとひと続きになったテラスの先には、広い庭がひろがっている。密林のようだった玄関とは違い、こちらは花をつける背の低い草木で、色とりどりに整えられている。原色のあざやかな花が咲き乱れる中で、庭の端に一本立つ、旧式のソメイヨシノだけが仄白い。

ソメイヨシノが廃止されたのは、わたしが十歳の頃だった。春先に淡い色の花をつけて、程よく咲いてから散らす樹が、充分に創られたからだった。枝にも花びらにも電気が流れているので、虫や鳥が寄り付いて辺りを汚すこともない。旧式のソメイヨシノは一斉に処分された。創ってしまったら、創っていない頃には戻れないと、わたしたちはよく知っている。

春風が庭を吹き抜ける。

甘やかな花の香りに、わずかに入り混じっているのは香辛料と河の水の匂いだろう。テラスに出て深呼吸を繰り返していると「いつでも閉めていいからね」海苔の袋を胸に抱いた天嗣さんがほがらかに言う。ほほえみ返し、鍵をつつむ手を強く握った。ソメイヨシノの枝に、オウムがひっそりと留まっている。そこだけ熱を測定するカメラで映したように、淡い花の色の中で、オウムだけがサーモグラフィのあざやかさを放っている。

【旧式のヒトが血縁にいる方は、閉めるまで給付金を受け取れません】

役所から通知が来たのは先月だった。申請したお金が手元に届かないので催促しようとした矢先、警告のメールが送られてきたので驚いて中身を確認した。センゾ。馴染みのない、廃語となりかけている言葉に浮つきながら、記載されていた外国の住所までの航空券は、その日のうちに手配した。あ ま つ ぐ。添付ファイルの一行目に書かれた氏名を、旧式の発音で呼んでみると舌の奥が甘く痺れた。

「で は お こ と ば に あ ま え て」

ここへ来る直前に学習した、覚えたての旧式の言葉で言うと、天嗣さんの顔がほころんだ。

「どうぞお構いなく」

庭の真ん中で、海苔の袋を胸に抱いたまま天嗣さんがひざまずく。後ろに回り込んで黒髪を左右にかき分けると、真っ白なうなじのきわに小さな鍵穴があらわれた。半世紀以上前に廃止されたはずの、旧式の体だった。穿たれた精巧な鍵穴を見つめるうちに、そこへくちびるをつけてみたくなった。強い春風が庭を渡る。枝を揺すぶられたソメイヨシノが惜しみなく花びらを風に放して、桜色の小さな蝶が一斉に羽化して飛び立ったような、いちめんの花吹雪になっている。

「きれいだね」

うなじに鍵をつきつけたところで、うっとりと天嗣さんが呟いた。

「ずっと昔の僕はね、サクラのしんずいは三分咲きにあると思ってたんだ。三分咲きの、こらえきれないで咲きこぼしながら、まだ堪えて、静かにみなぎる感じがサクラらしさである気がして熱心に好んでたけど、この頃は、満開の、とくに散り始めてからのサクラが好ましかった。ねえ見て。しんずいはここにあったのかな。いつも、分からないんだよね。僕はこんなに長く生きていたのに、ひとつのしんずいも見つけられなかった。君は、しんずいが何かを知っている? 僕にとってはしんずいって、熱心なところに立つ、シンキロウみたいなものだった」

天嗣さんの操る、流れるような旧式の言葉がうつくしかった。繰り返し使われた「しんずい」と言う言葉を、わたしの翻訳機は「心」と訳した。翻訳機が心と訳すときは、その言葉が廃語であることを示している。祈るようにソメイヨシノを見上げる先祖に、わたしたちの言葉を使って話しかけてみたけれど、天嗣さんの翻訳機は少しも反応しなかった。

「僕たちの新しい言葉は、楽しい感じがして、すごくいいね」

鍵でしか生命の止まらない、寿命を設定しないまま精巧に創られた無邪気な体を、面白そうにくつくつと揺らして天嗣さんが笑っている。

鍵穴の底まで深く差し入れ「よ い ゆ め を」わたしたちの操る別れの言葉を旧式の発音でそっと唱えて、ゆっくりと右に捻る。からくりの噛み合って整う、ささやかな音が鳴る。

思わずうなじから目を逸らすと、庭いちめん、シンキロウが降っていた。

全身に花びらを浴びながら、為す術なく役所に完了の報告をすると、受領の知らせがすぐに届いた。天嗣さんの体は水曜日に回収されるらしい。旧式の体は燃えないので、ビン缶の日に引き取られると言う。申請中の給付金は、今日付の手続きを約束してくれていた。

羽音がしたので顔を上げると、ソメイヨシノから、オウムが飛び立っていくところだった。

夢を見始めた体に、花びらが積もっている。うなじに差し込まれた鍵の柄が、新しく生え出た植物のように日の光に煌めいているのを見て、するすると鍵を引き抜いた。幾何学なつくりを指先で確かめてからスカートのポケットに入れる。きめの細かい、さらさらとした創り物のうなじに、心を込めてくちづける。

<2837文字>

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シロクマ文芸部の企画に参加させていただきました。


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