見出し画像

田沼武能写真展 人間賛歌見聞記

5834文字

昭和二十年、日本はそれまで南方そして本土で戦っていた大東亜戦争に敗れた。それとともに、大陸で戦っていた支那事変も終結となった。そして占領軍、実質的にはアメリカ軍による占領支配が始まった。

神武天皇の御代から数えれば2600年間、一度も他国に占領されたことのなかった日本にとって、衝撃的なできごとだ。
歴史上一度、他国に侵略されそうになったことがある。鎌倉時代のモンゴル侵攻である。
モンゴルは、東は朝鮮からユーラシア大陸を根こそぎ支配下に置き、西はバルカン半島、南はイラン、イラクまでもを帝国の領域とした。
偉大なる中華文明を誇った中国もモンゴルに占領された。朝鮮も支配下に置いた。次に狙うのは、海の向こうに横たわる日本だ。モンゴルは2度、日本に攻め入った。しかし、日本の武士たちが頑張り、国土の瀬戸際でモンゴルの日本上陸を阻止した。

東京都写真美術館で開催されている田沼武能(たぬま・たけよし)の写真展「人間賛歌」では、7年間に及んだ占領時代と、占領が終了した直後の日本の「人間」の姿を知ることができる。

会場は東京都写真美術館の地下1階展示室。エレベーターで降りると、展覧会の大パネルが壁面に設置されている。
展覧会のタイトルは「人間賛歌」。「賛歌」とはどういう意味なのか? 改めて考えたらよく分からないので、調べてみたら「偉大なもの、もしくは神聖なものとしてたたえること」。
英語タイトルは Viva Humanity、訳すと「万歳、人間性!」とでもなるか? 
人間賛歌とViva Humanityでは、意味は通じるところがあるけれど、ニュアンスがだいぶ違うように思うが。タイトルについては、この記事の最後にまた書いてみる。

会場で展示されていた作品を紹介しようと思うが、会場は撮影禁止なので、展覧会図録から引用する。
上の作品は1949年、昭和24年に撮影。敗戦から4年、まだアメリカ軍による占領が続いている。
場所は銀座。
小さな子どもを連れて、靴磨きをするため、銀座に来た親子。
親が仕事してゐるあいだ、子どもが勝手にどこかへ行かないやう、子どものおなかをひもで結び、そのひものさきを、街灯の柱のやうなものに縛り付けてゐる。
子どもは歩道の上にぴったりと座り、泣いてゐるのか、何か叫んでゐるのか、むずがってゐるのか、よく分からないが、苦痛の表情をしてゐるのが切ない。

うしろに立派なビルがある。東京は空襲で一面焼け野原になってしまったイメージがあったので、銀座もすべて焼けてしまったと思ってゐた。本や資料で目にする、空襲で見渡す限り焼けつくされて、がれきしか残っていない写真は、東京のどこを写したものなのだらうか。このビルは、銀座大通りに面していると思うが、なんといふビルだらうか。

ビル3階に広告幕がかかってゐる。日本はアメリカ軍に占領されてゐるので、こうした街中の掲示物は英語である。BIRTHDAY SALEと書かれてゐるようだ。BIRTHDAYの前に文字があるやうに見えるが、判読できない。
画面右端、脇道に入るところに横断幕がかかってゐる。占領下だから英語だと思ふが、英語のやうには見えず、何が書いてあるのか、さっぱり読めない。

アメリカ軍の将校のやうな男が、靴をみがかせるために片足を前に差し出してゐる。両手を腰にあてるのは、自分を強くみせ、相手を見下す意識のあらわれだ。
軍服姿のアメリカ人は背格好がよいので、中堅かベテラン将校のやうに見えたけれど、顔をよく見たら若い。
腰に手を当て見下ろす姿は、占領下における日本とアメリカ、日本人の意識とアメリカ人の意識を象徴しているやうで切ない。

田沼の作品には子どもがたくさん出てくる。どの子も笑ったり遊んだり楽しそう。そのなかで、この作品のやうに辛そうな子どもの姿は田沼作品ではめづらしい。

1950年、昭和25年。上野公園。まだアメリカ軍の占領下である。
うしろに見える建物は、東京国立博物館の本館ではないだろうか。
さうだとすると、このあたりは、いまは西洋式噴水の周辺だ。

パン屋のおじさんが、自転車にパンを積んで売りに来た。荷台に山積みされたパン箱に、英文字で大きくAIZAWAと書いてある。庶民を相手にする商売人も、英文字を積極的に使っていることに、占領下である事実と、商売人のたくましさを垣間見るやうだ。

あんパンが一袋30円。一袋にはいくつ入ってゐるのだらう。30円という値段が当時、高いのか安いのか見当がつかない。売っている商品も、あんパンだけのやうだ。
パンといふ食べ物は、たぶん戦後、占領軍が普及し、一般大衆の口にも入るやうになったのだろう(勝手な想像です)。
あんパンは当時、とても魅力的な食べ物だったはずだ。

いまでもあんパンは人気だよね。昭和レトロのあんパンも売り場でよく見かける。銀座木村屋のあんパン。味や食感が素朴すぎで、おれはあんまり好みではありません。

俺の出身は栃木県の佐野市といふ、らーめんで有名なまちです。ここにも昭和時代から佐野人ならだれでも知っている、中田といふパン屋さんがあって、あんパンが名物です。桜の塩漬けがパンのてっぺんにちょこんとのっていると記憶している。これは好きだ。ソウルフードだからね。

このAIZAWAパンのおじさん、服をよく見ると、結構おしゃれだ。靴はきれいな革靴。袖からほんの少しでている袖は、カフス袖のように見える。改めてみると、ジャケット、スボン、帽子、どれもが戦争直後で入手できる精一杯の服装といふ感じがして、身なりが整っている。パンという、時代の先端??の食べ物を作って売っているという自負だらうか?

それにしても、売っている場所が変ではないか?! パンというは、お母さんやおばあちゃんが、家族のために買うものではないのでしようか? 当時はちがっていたかしら。

ここは上野公園だ。主婦は集まらない。写真をみると、パン屋のとなりの自転車は、何を売ってゐるのか分からないが、子どもが群がっている。ここは公園なのだから、子どもが集まる場所だ。
パンを売るなら、女性たちが集まるに便利な住宅の近くがいいだろう。そんなことはAIZAWAパン屋も分かっている。占領軍の命令か、あるいはAIZAWAパン屋はパン業界では新参者で、いい場所では売らせてもらえないから、ここで売っているに違いない。俺の推理は如何でしょうか?

米軍による占領が終わった3年後、昭和三十年、浅草・木馬館の安来節(やすきぶし)公演。敗戦から十年で、国民の生活はよくなり、娯楽を楽しむことができるやうになった。最前列席で踊りを見ているおとうさんたちは、楽しくて仕方ない。

戦争のあいだ、政府は娯楽を規制した。戦争に負けたら、人々はアメリカ軍によって、奴隷のやうな暮らしを強いられるのだらうと思ってゐた。ところが、娯楽が解放され、生活が明るくなった。
もっとも、占領軍は日本人にものを考えないよう、バカになるよう、メディアや文化人を使って洗脳した。占領軍の意向にそはない娯楽はNGである。娯楽だけはなく、教育、経済、政治、なんでもさうである。令和の時代も基本的には、それは続いてゐる。

なぜ木馬館と命名されたか? それは館内に木馬=メリーゴーランドが設置されてゐたからだ。メリーゴーランドはビルの1階に置かれ、2階が舞台となってゐた。

安来節は当時、全国的に人気のあったコンテンツだった。三味線などの和楽器に合わせて歌ったり、どじよう掬いをコミカルに表現した男踊りや、どじよう掬いを舞踊として構成した女踊りなどの出し物で構成されてゐる。

写真は、若い女性を舞台いっぱいに並べ、踊りを披露する「女踊り」の一種だらう。安来節は全国的にはやったから、各地の劇場は客の趣味や年代などにあわせて、それぞれバリエーションを違えた安来節(特に踊り)を作っていったと考えますが如何でしょうか? 

この写真のような若い女性たちが横にずらっと並んでパフォーマンスを見せるスタイルはその後、歌松竹レビューや宝塚歌劇団のラインダンス、おニャン子クラブ、AKB48などにもつながっていくと考えますが如何でしょうか?

舞台をよく見ると、踊っている女の子のうしろに男性が座っているのが分かる。男性はどうも三味線を抱えているやうだ。推察するに、前の列は女の子が並んで安来節の女踊りを舞ひ、うしろの列は男の人たちが座って演奏をしているのだろう。演奏にあはせて踊ってゐるのだ。カッコよすぎる! 

俺はオヤジバンドを組んで、ロックやR&Bを演奏してゐる。俺もオヤジバンドはダンスミュージックを演奏して、かわいくてきれいな何人もの女性たちが踊るコンサートをやってみたい! かわいくてきれいな女性たちのバックバンドをやってみたい!

これも浅草、松屋百貨店の屋上。昭和二十九年。敗戦から9年、米軍の占領が終わって2年で、ここまで暮らしがよくなった。

浅草松屋は俺にとって馴染み深い場所だ。俺は出身が栃木の佐野ということは前に書いた。佐野は東武鉄道が走ってゐる。佐野人が東京に遊びにいくときは、東武鉄道に乗って、終点の浅草駅に行くことが多かった。昭和四十年代、五十年代の話である。

浅草駅は松屋百貨店の2階にあった。デパートと終点駅が一体となっている構造物は、巨大で厳かで、しかも賑やかで、神殿のように思えた。子どもの俺にとって浅草駅と駅が入っている松屋百貨店は、都会そのものと言ってよかった。

いま思ふと不思議なのだが、東武鉄道の終着駅なのに、東武百貨店でなくて松屋なんだよね。当時は、東武と松屋との間に資本関係があったのか? あるいは経営者同士の話し合いで、双方何らかの折り合いをつけながら決まったのか?

写真作品を見てみよう。手前、上のほうに、遊具に乗ってはしゃいでいる男の子と女の子がゐる。
下はたくさんの人出だ。皆さん、この人たちをよく見てほしい。手前に、遊具に乗っている、楽しいそうな子どもがいて、場所が百貨店の屋上遊園地だから、何となく子どもがたくさんいるのだろうと俺は思っていたが、実は違った。
子どもの姿は、見つけるのが苦労するくらいに少ない。ほとんどは大人である。年齢は20歳代、30歳代、の男女。明らかに男女ふたりで来ていることが分かる人たちもいる。デートだ。

着ている服もよく見てほしい。女性はスカート、ブラウス、カーディガン、ジャケット、どれもきれいだ。ヘアースタイルも、きちんとしているように見える。男性が来ているジャケットやズボンもこざっぱりときれいな身なりで、変な服装の人はいない。

百貨店の屋上遊園地は子どもの遊び場というよりは、おとなのデートスポットだったのだ。でも、驚くに値はしない。浦安の東京ディズニーランドを見給へ。子どもの楽しんでいるが、おとなも楽しんでいる。ファミリーだけでなく、若い男女がデートしている。今の若い男女のカップルが、東京ディズニーランドで楽しんでいるやうに、昭和二十九年の若いカップルは、松屋百貨店の屋上遊園地で、愛しい人と楽しい時間を過ごしていたのだ。

ここで、この写真についての文章は終わろうと思ったが、ふといまの松屋について、Wikiを読んでみた。すると、松屋には東武鉄道の資本が入っている。やはり、さういふことか。駅や百貨店の開業当時も、資本関係があったかは分からない。

これも浅草。昭和三十年。少女たちが見ているのはお正月かざりだ。少女たちは誰もがきれいな着物を着て、髪も整えている。お正月になったので着飾って、友達・姉妹で連れ立って、露店に飾りを買いに来たところだろう。

お飾りはセルロイドで作られているやうにみえる。セルロイドのお飾りは、俺の知る限りは、昭和50年代までお祭りの露店で売られていた。俺の実家でも毎年買っていた。

敗戦から10年で、ここまで人々の暮らし向きがあがったのは驚きだ。もちろん、この光景は東京だからで、地方によっては、厳しい暮らしが続いていただらう。

戦後の経済復興について、俺のおやじが以前、こんなことを言っていた。敗戦の年は、はだしで学校に行った。同級生もみんなはだしだった。翌年はみんな下駄になった。その次の年は靴になった。つまりは、年々、経済が上向き、暮らしがよくなっていったのである。

☆    ☆

さて、冒頭で言った展覧会のタイトルについてである。邦題「人間賛歌」と英文タイトル Viva Humanityとは、ニュアンスが違うんではないかと書いたが、田沼の写真はどの時代の作品も一貫して、明るい、力強い、生命力のある人間を描いてゐる。

写真家によっては、人間をテーマにしながらも、弱さ、苦痛、暗い部分を描く人もいるだろう。田沼はどこまでも人間を肯定的に描いてゐる。
そうすると、「賛歌」でも「Humanity」でも、どちらの意味もあてはまってゐる。俺としては、「賛歌」という、神々しいような、何かを讃えるような言葉よりも、「Viva =万歳」のほうが、田沼作品にふさわしいように感じた。

田沼は、2000年に東急百貨店本店で開催された個展において「今回の展覧会は、人間への私なりの賛歌」とメッセージを寄せてゐる。
「賛歌」といふのは、田沼自身が被写体である人間に対して使った言葉だったのだ。

俺はこれを知って、タイトルに対するモヤモヤが晴れた思いがした。田沼は、自分が長年撮り続けてきた人間に対して、人知を超えた聖なるものを感じた。俺はそうした人間に加えて、人間をポジティブに撮り続けてきた田沼の写真家人生、それらふたつに対して「人間万歳」と感じていたのだ。理屈っぽいかもしれないけれど、そういうことなのだ。

☆    ☆

ここまで書いてきたが、読者の皆様に誤解を与えてはいけないので、今回の展覧会について説明しておく。
展覧会は3部構成になってゐる。1部が、俺がこのレビュー記事で書いた、日本の戦後。2部が世界の人々。3部が武蔵野の景観とそこに生きる人々を写した作品。

田沼は2022年6月、永眠した。享年九三。50歳で結婚し、結婚後も独身時代と変わらず、世界中で写真を撮り続けた。
亡くなった日の朝も普通に仕事をしてゐた。妻が昼過ぎ外出から帰宅すると、田沼は部屋で倒れていて亡くなってゐた。
高齢になっても元気に仕事をする。亡くなる朝もいつもと変わらず仕事。俺の目指すところである。
謹んで、写真家田沼武能先生のご冥福をお祈りする。


ご覧いただいて有り難うございました! スキやフォローをしていただけると励みになります! サポートは、新しい記事を書くための資料の購入、取材費用に充てたいと思います。どうぞよろしくお願いします!