見出し画像

社会、生活

社会復帰をしなければならないということ。社会とは何だろうか。
そもそも、外界と隔離されたような感覚に陥るこの部屋ですら、社会性に溢れている。ものは全て人が作っているものだし、家そのものがそれである。

朝起きて、夜眠ることができるようになったのは、薬のおかげだろう。
(最近は落ち着いたが、)外に出る気持ちや、出ても良いと思えることが人生で起きたのは、薬のおかげだろう。
多少なりとも、身だしなみに気を遣おうと意識できるようになったことすら、薬のおかげだ。
自分を褒められるようになったのは、薬のおかげだろうか。
危機感があまりなくなったのは、薬のせいだろうか。
涙が流せなくなったのは、薬のせいだろう。

全てが物質的な影響のせいではなくとも、何かに気を付けたりする余裕が出来たことは、間違いなくお薬のおかげなのだ。
幼いころから鬱状態か何かだったんじゃないかというくらい、昔は何も関心がなかったのを思い出す。比較すれば、関心という点においては本当にあるのかはわからないが、色々とできるようにはなったものだ。

午前中、ただひたすら身体と頭のだるさが抜けず、薬を飲んでしばらくですこし仮眠をとる。
午後になってようやくすこしだるさが抜け、
夕方にはぼんやりする感覚だけを若干残してある程度満足に動ける。
社会には余裕がないので、私のようなポンコツロボが必要ないことも十分に分かっているのだが、それでもちゃんと生活を営みたく思ったり、所属欲求が芽生えたりする。
どこかの誰かでありたい。それは別に、インターネットの四方井でもいいのだが。

ご飯を作るのは楽しい。食欲は相変わらず多少の波があるけれど、体重の減少はとりあえず食い止められている気がするので、よかった。
絵を描くことは、どうだろうか。

あまり、うまく描けていない気はする。
以前のような、切に願った幸福や、絵に対する祈り、何もない気持ちは、もう描けないのだろうか。
祈りの絵は、
https://note.mu/yomoi_nui/n/na8dd34c7bfd0
私の目にはもう他と等しい「絵」に見えてしまう。好みが変わっただけならいいが、何かに対する執着心は確実に薄れていて、吹けば飛ぶような気がする。
絵は続けたいのに、私は続けられるのだろうか?

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?