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かなしみ

炒飯を作ろうと卵を掴んだ。卵は衝撃をその殻で受けきることが出来ずに無惨に割れた。一瞬。何が起こったのか分からず、液体に包まれた手を目視、認識することによってようやくその事態を理解した。
何の問題もない。卵を意図しない場所で割ってしまっただけのことだ。それでも、卵のその弱さの中に私の弱さを見てしまい、後片付けをしながら少し、悲しく思った。

先日、谷川俊太郎さんの「生きる」という詩を読んだ。恐らく小学校ぶりだろうなあと思いながら読んだその文字は、今の私にはとても良いものに思えた。
何気ない些細な出来事、それを知覚できることが既に生きているということ。その些細な出来事を思い出させる文章だな、と。それは、束の間の幸せを与えてくれる。
「すべての美しいものに出会う」ことが、私は出来たのだろうか。いや、きっとそんなことはないのだろう……。
出会えずに死ぬことは悲しい、でも、私のすべてはそこまでだったのだろうなとも思う。私の終わりはいつ来てくれるのだろうか。お迎えと呼べるくらい、その出来事が優しい結末であることを願う。

絵も、漫画も、文字も、全て中途半端なことが悲しく思う。
現時点では、絵は全く描けていないし、それどころか私の内部にある絵の成分が全て蒸発してどこかへ去ってしまったのではないかとすら思う。
絵で表現することは大切に思うし、自分が描いた絵は好きだ。ただ、また何かに縛られているように思う。それが解かれてくれたらいいのだが、それが何なのかはわからない。
薬の影響だったら、それは悲しい事だと思うし、そんなことはあってほしくはないが……。こんな時は、模写とかするのが良いのかもしれない。
漫画も、同じくほとんど進んでいない。プロットは立てたのに筆が進んでないのは悲しい。思いついたら描けるわけで、机に向かえないことが原因なので、これは根性だとも思いつつ、進まない時間がだんだんと伸びていることに焦りを感じる。
文字は気持ちのままに書いているから、そもそも「も」の字も成せていない。

こんな状態でのうのうと暮らせる自分を恐ろしく思う。
しっかりしなければいけない。
表現者で居られなければ、私は本当に生きている意味合いを失ってしまうのだから。

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