ジョゼと虎と魚たち
YouTube解説
夜ふけ、ジョゼが目をさますと、カーテンを払った窓から月光が射しこんでいて、まるで部屋中が海底洞窟の水族館のようだった。
ジョゼも恒夫も、魚になっていた。
——死んだんやな、とジョゼは思った。
(アタイたちは死んだんや)
はじめに
短編集『ジョゼと虎と魚たち』(以下、『ジョゼ』)には、全部で9つの短編が収録されています。これらはいわゆる恋愛小説にあたりますが、ただただ美しいだけの恋愛ではありません。そこには背徳的なエロティシズムがあります。
旦那がいるのに他の男に惹かれてしまったり、だいぶ歳の離れた男を弄んだり、いわゆる〈純愛〉と呼ばれるものはここにありません。
またもうひとつの特徴として、全編の会話文が大阪弁で書かれています。標準語では出せない息遣いが魅力です。
今回は主に表題作の『ジョゼ』についてお話しします。この『ジョゼ』に関しても、男が一方的に女性を守るという、ありきたりな構図には収まっていないところに注目してください。
この作品は2003年に妻夫木聡と池脇千鶴主演で映画化もされ、昨年、2020年にアニメ映画化もされています。アニメの方は見ていないのですが、実写映画の方を先に見て、そこから私は『ジョゼ』にはまりました。この映画、間違いなく傑作です。映画と原作との違いも、あとでお話しします。
作者 田辺聖子
1928年に大阪に生まれ、1964年『感傷旅行』で第50回芥川賞を受賞しています。『源氏物語』の現代語訳なんかも発表しているそうです。
芥川賞を受賞したことからも分かるように、もともともは純文学系の作家だったみたいですが、徐々に恋愛小説や社会風刺的なエッセイといった大衆向けな文章を書くようになっていきました。その後、2019年に91歳で亡くなるまで精力的に作品を発表し続け、文学賞以外にも紫綬褒章や文化勲章も受賞しています。
ストーリー
登場人物は主に二人、社会人になりたての恒夫、車椅子がないと動けない恒夫の二つ年上の女性ジョゼ。この二人の恋愛模様が描かれています。
タイトルの「ジョゼ」というのがヒロインで、本名、山村クミ子と言います。フランソワーズ・サガンの小説の「ジョゼ」というヒロインからとって自分を「ジョゼ」と呼ぶようになりました。
ジョゼは生まれながら障害で下半身が動かず、物心ついた頃には母親はなし、父親の元で育てられますが、父親の再婚相手に14歳の時に施設に預けられ、17歳の時に祖母の元に引き取られます。その祖母はジョゼには優しいものの、生活保護で暮らしているため裕福ではない上に、車椅子生活のジョゼのことを他人に知られるのが嫌で、夜しか散歩に連れて行ってくれませんでした。また、他人とつるむことを好まず、障害者同士の交流にも顔を出さなかったので世間のことを何も知りませんでした。
そんなジョゼがおばあちゃんにつれられて買い物に出た際、車椅子を誰かに押され、坂道を滑っていった先で受け止めれくれたのが学生時代の恒夫でした。恒夫はこれをきっかけにジョゼ一家と仲良くなって、お手伝いという形で家に入り浸るようになりました。
ジョゼは高飛車な物言いをする女性で、親切な恒夫にもきつくあたります。工作好きの恒夫はジョゼのために踏み台や棚を作ったり、家の修繕をしてあげたりしていました。
そんな恒夫でしたが、学生生活が終わりに近づき、旅行や就活などで忙しくなって、ジョゼと疎遠になってしまいます。
久しぶりにジョゼのところを尋ねると、おばあちゃんが亡くなり、ジョゼも引っ越していました。住所を調べて改めて会いに行くと、ジョゼの新しい生活を心配する恒夫に対して、プライドの高いジョゼは「心配なしていらん!」と怒ります。怒鳴られて恒夫が帰ろうとすると、ジョゼは興奮しながら、「なんで帰るのんや! アタイをこない怒らしたままで!」と怒り、さらに、涙をためて、「帰ったらいやや」ですよ!
ここのやり取り、キュンキュンですよ。これが大阪弁だからなお良い。標準語では出せない味ですね。ここから二人の関係は急速に深まります。
タイトルの「虎」について
ジョゼは恒夫に、動物園へつれていってもらいます。ジョゼはずっと「虎」を見たかったというのです。初めて虎を見たジョゼは失神しそうなくらい怖がりますが、それでも虎を見たかったのは
「一ばん怖いものを見たかったんや。好き男の人が出来たときに。怖うてもすがれるから。……そんな人が出来たら虎見たい、と思てた。もし出来へんかったら一生、ほんものの虎は見られへん、それでもしょうない、思うてたんや」
この虎が指すもの、詳しくは書かれていませんが、おそらく自分に向けられた偏見や悪意の象徴なのだと思います。
恒夫と初めて会った時、ジョゼの車椅子が斜面を滑っていったときも、ジョゼは誰かの「悪意の気配」を感じていました。〈「家と施設で暮らしている間に、ジョゼは「悪意の気配」に敏感になって〉いたのです。
生まれながら障害を持ち、不幸な境遇で育てられたジョゼは、幼い頃から同情と偏見に晒されてきました。彼女は気丈に振る舞いながらも、実際はそういった「悪意の気配」に怯えていました。
この「虎」との対面は、恒夫という縋れる存在の登場によって、初めて自分の敵、ひいては自分自身の弱さと対峙しようとした決意の証だったのです。
ジョゼは、テレビで見た野球中継を父親との思い出と勘違いして覚えているなど、時々、自分の過去や境遇を捏造します。
ジョゼのいうことは嘘というより願望で、夢で、それは現実とは別の次元で、厳然とジョゼには存在しているのだ。
ということですが、ジョゼという名前のオリジナルである、サガンの小説には芯が強く、自立した女性がよく出てきます。村山クミ子は、自分の不幸な境遇に争うため、フィクションによって自尊心を守ってきたと言えます。そんな女の子が
「帰ったらいやや」
と本音を漏らすシーンは……ああ、もう!
タイトルの「魚」について
最後の「魚」についてです。ジョゼがもう一つ見たかったものが水族館でした。ジョゼと恒夫は泊まりで海底水族館に行きます。ジョゼにとって、それはそれは特別な光景でした。水族館の近くのホテルに泊まった夜、ジョゼは月の光が射す部屋で、自分たちが魚になったように感じると同時に、そこから「屍体」を想像します。
「死」とは、永遠に変化しないものの象徴と捉えることができます。海底のように暗い部屋の中で、ジョゼは「死」のように不変の幸せを願うのです。まるで心中ですね。
陸に上がればあっという間に死んでしまう弱い魚には、ジョゼのイメージがオーバーラップします。加えて、生まれつき足が不自由なジョゼは、童話の「人魚姫」を連想させます。
じつは、死んだおばあちゃんの遺骨がジョゼの部屋に置き去りにされていました。これもまた、「死」と「幸福」をリンクさせる演出と捉えることができます。しかし、その遺骨だっていつ父親が取りにくるかわからない状況。
そんな不安定な幸福と、マイノリティーな生を生きながらも自分自身の内面と向き合おうと戦う女性の姿が、この短い物語の中にぎゅっと凝縮されているのです。
実写映画について
恒夫役の妻夫木聡、ジョゼ役の池脇千鶴の演技は素晴らしかったです。ただ、映画と小説で決定的に違うところが二つあります。
ネタバレにならない程度に紹介しますと、まず水族館のシーンです。原作では海底水族館で魚を見ていましたが、実写映画では「魚」を少し違った方法で表現しています。ここに関しては、映画の方がより幻想的で儚さが際立ってよかったと思いました。
もうひとつが終わり方です。水族館のシーンが差し替えられたことにより、映画のような結末になったのだと私は考えています。実写映画の方がより〈現実的〉といって差し支えないかと思います。
ネットや読書会ではやや否定的な意見が見受けられましたが、私はこちらの終わり方もありに感じました。
実写映画は、原作の設定を忠実に守り、終始漂うアンニュイさを消すことなく、演出によって小説では表現しきれない雰囲気を出しているのが素晴らしい!
恋愛観について
田辺聖子の作品はこれが2冊目でした。初めて読んだのは『言い寄る』という作品でした。妙齢の女性が金持ちやイケメンに言い寄られてうまいことやっているのに、本命の男性の前では乙女になってしまうというお話です。
大学生時代、まだまだピュアだった私は、計算高く、男性の扱いにも慣れていて、駆け引きを楽しむような女性がどうしても受け入れられませんでした。しかし、あれから数年、それなりに人生経験を積んだ今となっては、そういった女性が魅力的に思えるようになりました。
「恋の棺」という短編では、10歳年下の甥っ子を手玉にとって、その気にさせた挙句、勝手に一度きりの関係で終わらせてしまう宇禰(ウネ)というキャリアウーマンが登場します。
オトナはやさしさの仮面のうらで、いつ恫喝と威嚇に一変するかしれない、そのぶきみさをまだ知らない、世間知らずのういういしい信頼が、宇禰にはいたいたしい。無垢な少年少女を笑顔とお菓子でおびき寄せては殺していた時代のヨーロッパの性犯罪者たち、——グリム童話にありそうなおそろしい犯罪者たちの、孤独な悦楽が宇禰には少し分かりそうな気がする。彼らはみな精緻な二重人格者の心臓をもっていた。
自分のことを「二重人格」と呼び、こんなことを考えている女性です。めちゃめちゃ身勝手で、自分が恋する甥っ子だったら混乱するでしょう。でもね、今だったら宇禰の気持ちを余裕で理解できてしまうし、彼女がすごく魅力的に思えてしまいます。
10年前なら確実に好きなタイプはジョゼでしたが、悲しいかな、今なら宇禰を選んでしまいますね。
「部下や後輩、恋人に勝手に期待して勝手に裏切られて怒ったりする」大人より、他人と適切な関係を築ける方が成熟していると言えますよね。恋愛というものを「他者との関係」と捉えているうちは未熟で、自分の中で「距離をとったり終わらせたり」自由にできるようになったらオトナといえるのではないでしょうか。
純情な恋愛物語に胸焼けしてしまった方は、ぜひ読んでみてください。きっと、違う意味で胸を焦されるはずです。
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