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マイ・セプテンバー

 来世があるとしたら、そのとき家族になりたい人がいる。
 今世をすでに捨てている理由は、どう頑張っても今世では家族にはなれないからである。昨今の多様性の社会で、本当にいろいろなパートナーシップの形を実現しやすい世の中になってきているが、そういう類の話でもない。
 自分にとっての「自分との関係性をひとことで言い表すことができる人」は、生涯を通してもごく少数に限られる。「わたしの〇〇です」と、他人に簡単に説明できる、名前のついた関係性の人。それは尊くて、特別で、何よりわかりやすい。そして、他にはない特有の呼称を許されたり、時には法律的に効力を得たりもする。逆に言えば、その人と特別な関係になりたければ、その関係性を表す、または証明するための名前を必要とされる場合が多い、ということでもある。
 でも、大切なものであればあるほど、その存在をうまく説明できない、またはひとことで説明できてたまるかと思うこともある。

 彼女とは高校で出会った。ひとりの人と長期に渡って関係を継続することがとても苦手なわたしにとって、彼女は環境や年齢が変わっても変わらず一緒にいる唯一の存在。
 就職後、彼女は地方でひとり暮らしを始めた。これは、コスモスが見頃の季節に、わたしが彼女の家に遊びに行ったときのこと。
 事前情報を述べておくと、当時わたしは私生活でいろいろあって、精神衛生上到底人に説明できるような思考回路ではいられず、そのせいで彼女へ強く当たり、無神経な態度をとってしてしまうことが続いていた。今回会うまでにメッセージ上では話し合ったり謝ったりなどして一旦は和解していたが、彼女を傷つけてしまったことを直接顔を見て謝罪したいと思っていた。
 わたしの実家からは鈍行で2時間半。駅から彼女の家までの道のりは彼女の車で迎えにきてもらった。駅では再会を喜びハグをした。いつもの眩しい笑顔だった。小さなアパートの1階の部屋。学生のうちはお互いに実家暮らしだったので、彼女が単身で借りた部屋に招待してもらうこと自体が、なんだか急に大人になってしまったような、妙な寂しさに取り囲まれたことを覚えている。玄関には使い捨て用のランチボックスが置かれていて、そこに鍵を収納しているらしい。こういうところがかわいい。彼女が引っ越す前に手紙に入れて渡した写真が壁に貼られている。こういうところがかわいい。
 部屋の中をぐるっと見回していると、備え付けの棚の中に、いくつかの文庫本があるのを見つけた。数えるほどしかない本の中に、わたしたちが高校生の頃、わたしが彼女におすすめした小説があった。それは高校生当時ほとんど本を読まなかったわたしが図書館で偶然出会った恋愛小説で、甘く切ない一節一節が心にしこりを残していって、忘れられない元恋人のような歯切れの悪さをしている作品。その鮮烈な感動をそのまま彼女に伝えたのだろう、タイトルを見ただけでその当時のわたしの、不安定なうねりを繰り返す感情を少しだけ思い出すことができたくらいだ。思わずしばらくその小説を眺めていた。彼女は、今のわたしも、高校生のわたしも一緒に、このワンルームへ連れてきてくれていた。
 彼女はきっと「そうそう、これはあなたに教えてもらった小説だよ」と言ってわたしに説明したり、家に招待したまた別の誰かに教えてあげたりするのだろう。昔の会話や、好きだったものを忘れないでいてくれる、こういうところがかわいい。そして昔のわたしも今のわたしもどちらも大切にしてくれている、そんなところが好きで、そんな彼女はわたしにとって唯一無二の存在だと、小さな本棚の中のたった一冊の小説を眺めてそう思った。
 その夜、彼女の家の近所にある焼肉屋へ行った。カウンターで並んでビールを飲みながら、近況を報告する。わたしが、今までのこと本当にごめんねと伝えると、「ううん大丈夫だよ、あなたこそつらかったよね」と彼女は一蹴した。それからわたしは、目の前で店員の方がお肉を準備しているのを視界に捉えながらも、堪えられなくなって嗚咽を漏らしながら泣いた。せっかくのおいしい焼肉を堪能している時間のうち半分以上を泣きながら過ごした。彼女はその間ずっと背中をさすってくれた。少し落ち着いてからお店を出た後の帰り道、彼女が手を繋ごうと言った。手を握って、大丈夫だよ、大丈夫、と何度も繰り返す。また堪えられなくなっておえおえ泣いた。彼女の家に着いたらお風呂にお湯をためてくれて、ゆっくりあたたまっておいでと言ってくれた。お風呂の中でまた少し泣いた。翌日は目がパンパンに腫れ上がっていた。泣きすぎだよお、と彼女は笑った。
 弱くて弱くて、自分勝手で都合がよくて、すぐに泣いてしまうどうしようもないわたしを、彼女は受け入れて手を引いて、夜道の中を導いてくれた。どれだけ間違えたとしても、彼女はわたしから逃げないでいてくれた。晴天の青の下、コスモスを揺らすための優しい風が瞬く、あの1日がなければわたしはきっと、立ち直れないまま今も蹲っていたと思う。彼女はわたしの、わたしにとって、どんな名前もつけられない、特別な人だ。

 大切すぎて、言葉にはできない。言葉ごときが語れるものかとも思う。

「あなたの好きそうな曲見つけたからリンク送るね」「前ハマってるって言ってたお菓子買ってきたよ」「海、見ませんか」「おすすめしてくれた映画、あなたの言う通りおもしろかったあ」「あなたと昔、よくこうしてたよね、懐かしいな、なんだか涙が出そうだよ」「また一緒に行こう」「大丈夫だよ」「そのままでいいよ」「どんなあなたでも好きだよ」
 もらった言葉たちが、今日もわたしを生かしている。
 わたしが好きなもの、大切にしているものが同じであればいいなという、その自己中心的な価値観の押しつけの範囲が互いに一致すること、それはこの上なく貴重なことだと思っている。大切な人とは、同じものを見て、同じように綺麗だと思いたいという、それこそ自己中心的な願望による理想にすぎないかもしれないけれど。あの元恋人のような小説には、わたしたちを結びつけてくれる力がある。ますます歯切れが悪くて未練がましい。
 大切なものはあまりにささやかで、気をつけていないと取り零しそうになるくらい粒子の細かい煌めきの集まり。ひとつひとつに名前をつけている暇などない。確かにあったはずなのに溶け出したこと、あたたかいこと、わからないこと、言わないこと、言えないこと、忘れられなかったこと。それら全ての複雑な煌めきを丁寧に掬い上げて、瓶に詰めてしまっておく。誰にも披露したり渡したりはしない。わたしはそういう性格である。

 彼女は先日結婚した。正直納得はいかなかった。この状況ではどんな力を使っても、わたしと彼女は家族にはなれない。(わたしが彼女の家族の誰かと家族になるかまたは、彼女の旦那さんの家族と家族になるしか方法がないが、彼女自身は三姉妹なので無理だし、旦那さんには確かお姉様がいらっしゃった気がするので無理である。養子という手もあるが、それはちょっとわたしの趣旨とずれてしまうと思っている。)正々堂々、彼女のいちばん近い存在、法的にも証明された家族という存在になれる旦那さんが少し羨ましい。こんなことは彼女の結婚式のスピーチには決して書けないのでここで供養する。
 ただおかげで、名前をつけられないわたしたちの関係性も尊さを増す。
 今世は、誰にも説明できないわたしと彼女との間にあるものを、大切に抱えてこれからも生きていく。もしも来世があるとしたら、わたしはまた道に迷うだろうから、また出会って、手を引いて導いてほしい。その関係性に名前がついていてもついていなくてもどちらでもいい。でもやっぱり、いちどくらいは家族にもなってみたい。名前がついた関係性への憧れみたいなものは、捨てきれていないから。わたしも大概、未練がましい。

#創作大賞2023 #エッセイ部門

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