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旅をすること2

3,000字を超える非常に長い記事になる。

サムネイルの画像は有名な「労働は人を自由にする」という強制収容所の門に書かれたスローガンだ。アウシュビッツのものが有名だが、ここザクセンハウゼン強制収容所も入口の門にスローガンが掲げられている。観光客は皆、この門からかつての跡に足を踏み入れる。中学生の時、歴史の授業の最後にいつも映像の世紀を見せられた。あの時に記録や情報として知っていた歴史の前に、私は今、立っているような気持ちになった。


旅のきっかけ

誰もが知っている、アウシュビッツ強制収容所が観光地化していることを知ったのは、大学院1年の夏に東浩紀の『弱いつながり』を読んだ時であった。本を買ったきっかけも瀬戸内芸術祭の帰りの高松空港の本屋で「機内と帰りの電車の時間で読めそうだ」と手に取ったものであった。この本との出会いも旅の中で得た出来事だ。

『弱いつながり』は「観光地」化によって多くの人がその場所に直接行くことができるようになり、滞在などの時間を通して言葉にできないものを体験することの重要性が書かれている本だ。旅とかけた時間を通して自分の「検索ワード」を増やし、情報を獲得するための言葉を増やすことに旅の意味があり、そのため旅をしやすくするための「観光地」が存在することは重要であるとしている。
アマゾンもブログの広告もサブスクの音楽配信サイトも、日々、似たようで少し異なるものをおすすめしてくる。自分の知らない世界が、新しい物事がそこに「おすすめ」として表示されているように見えるが、その「おすすめ」に従っていたら自分の世界が深まっているように錯覚しているだけになってしまうのではないだろうか。自分の中の興味や知識が最悪な形で狭くなっていくことに対抗するように、無理やり「おすすめ」の外に出られる行為が、現実の時間を使ってその場所に赴く旅なのだ。

この本を読んで次の旅行先はドイツにしたいと思った。そして、観光客として強制収容所に行ってみようと思うのだった。約半年後に実際行くことになる。


「跡」であること


もう3年前なのでたどたどしい記憶でもあるが、ベルリンのフリードリヒシュトラーゼ駅から列車でオラニエンブルグまで行き、駅から歩いて収容所に向かった。
場所の文脈も文脈なので、70年以上経った今でも人気の少ない街なのだろうと勝手に思っていた。ところが、収容所の近辺はそれを感じさせない穏やかな住宅地が広がっている。本当にこれは驚いた。収容所の敷地に入るまでそこでかつて10万人が犠牲になった場所の周辺であるとは思えない風景だった。

そして収容所の敷地内に足を踏み入れて驚いたのが、「そこに何もない」ことだった。

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記憶の保存として見学可能なバラックが再現されていたが、写真のとおりほとんどが残っておらず跡地だった。しかし、跡地を歴史の「跡」としてしっかり残しており、それが顕著なのがこのバラック跡地の保存方法だった。広大な土地に無数にある砂利の場所、何かと思い近づくとそれぞれにバラックナンバーが振ってあったのだ。100以上あったはずだ。ゾッとした。何もない場所だと思っていたが、これだけのバラックがあった。そして一つのバラックには何十人もの人が収容されたと、見学して知ったばかりであった。


どれだけ多くの人がここに収容されていたのか、容易に想像できる。そして恐ろしくなる。
この現在の何もなさを通して、この記憶の保存を通して、この土地にどれだけ人の血が流れたのだろうと10万人という数字ではイメージできないものへの想像を巡らせた。


中学の社会の授業で見た、映像の世紀シリーズは当時の映像を流していた。ナチスの歴史に関しては死体やショッキングな映像も多く当時の映像を見た時に受けたショックも大きなものであった。そして実際に訪れた収容所は今や何もない広大な跡地であったが、そこが歴史の「跡」として保存しているがゆえに、映像から得た情報とは別の角度の、私が今、体験している情報として強烈にそこにあった歴史が流れ込んでくるのである。


名前のある、人であること

跡地の存在が最も強烈だったのだが、食堂や生体実験室は残されていた。また、敷地内に収容所の生活や歴史を知るミュージアムがあった。
このミュージアムの展示構成も印象的で、収容されていた人が隠れるように持っていた木彫りや針金細工などの生きた痕跡から、SS(ナチスの親衛隊)について知る展示があった。そして出口には収容されていた人たちの一人一人の顔が大きく写された写真がタペストリーのように吊られており、揺らめきながら展示を見た私たちの顔を見てくるのである。


私は、この一人一人の顔写真は展示構成の中で最も重要であると考えた。
写真の人たちは何も語らない。そして収容された人たちは皆、収容時に丸刈りになり、所持品は奪われ、囚人服を着せられ、名前は番号になってしまう。
私が私であるという人間の基本的なレベルを剥奪される。そういった人たちの顔にフォーカスして、顔を展示するということは、彼らは人であるということを何よりも証明する方法である。


写真の中の人々の眼差しを受けながらミュージアムを出て、改めて生体実験室の残虐さについて考える。実際に見学し、残虐というどこかの記述で見たような誰かの言葉に収められるものではないと感じた。そして、食堂には笑顔で刻まれる野菜の絵が残されており、この意味深な絵を当時の人たちはどのように見たのか考えてしまった。

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経験から言葉を探す 

​それこそ言葉で表現できない体験だった。「言葉で表現できない」など手垢のついた言葉であるが、それでもそれ以上どうしたらいいのか未だ分からず、適当な言葉も見つけられない。そういった経験から得たものを言語化していく過程も旅を通して得る情報の一つだ。このnoteもその過程の一つである。きっと旅行した直後の2017年の3月にはこのような文章を書けるほど、経験を言語化できなかった。この3年間の中で本を読み、できる範囲で映画を観て、そうして得てきた情報と旅行の経験を照らし合わせて初めて今、この文章が生まれている。

先ほど書いたミュージアムで、恥ずかしながらユダヤ人や障がい者の他にソ連軍の捕虜・同性愛者・思想犯とされた人が収容されていたことを初めて知った。収容された同性愛者のことについて知りたいと思ったので『ピンク・トライアングルの男たち』を読んだ。絶版だったが幸い、大学院の図書館にあったのだ。
男の体験談には、ミュンヘン近郊の収容所からザクセンハウゼンの収容所に移ったと語られていた。この本を読む数週間前に実際に行ったところの話がこうもすぐに出てくるとは思わなかった。この本の体験談は男の匿名性ゆえに(戦後もドイツは90年代まで同性愛は違法であり、近年ようやく有罪判決を無効にしているという時代背景がある。)その信憑性が問題視される点もあるが、自分の経験が本の言葉を補強するような感覚があった。
この本を読んで想起する光景も、得る感想もその場所に行った時と行ってない時では全く異なるものだろう。


さいごに

『弱いつながり』を読んでから、自分は旅でどのような経験を獲得するのかを軸に考えるようになった。そうすると自然と行き先が決まることが多くなった。調べる方法も意識するようになったので、情報収集の方法も増えた。インド旅行の1つめの記事を見れば英語で検索することで出てくる情報量が変化することが分かるだろう。
旅行中も経験の獲得を意識して旅で起こる出来事に向き合うようになった。それを帰った時にどのような言葉で語り、振り返り、広がりを持たせていくのか、それが重要なのだ。

今もまだ、海外どころか国内旅行も行きづらい状況である。次、いつ旅に行けるのか分からない。

だから今、今までの旅を振り返り、次に行って帰ってくる時のために、こうして記事にしたのだ。

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