映画「過去を負う者」の感想
長文になるので感想&思うことの全文をこちらに記載します。
船橋淳監督の作品。
先に出演した短編映画「復讐」の監督で
いつもお世話になっているみやたにさんがご出演ということで初日にポレポレ東中野で拝見しました。
編集長役、素晴らしかった…
みやたにさんはアソシエイト・プロデューサーも兼任。
一人でも多くの方に観てもらって共に考えたい作品。
全ての役のお芝居にリアリティがあり、片時も気を緩めることができないほどに引き込まれました。
私はあえて前情報を入れていなかったのだけれどドキュメンタリーのようだと感じたのはそういう撮り方だったからか、とパンフを見て納得した次第(台本が無く、即興劇的なことを積み重ねた上で撮っている)。
答えがないこの話をどう終わらせるのかと思ったし
当然「過程の中の終止符」ではあるけれど
それでもこのラストシーン、私はとても好きだ。
私自身は、まず、観るかどうかをギリギリまで悩んでいました。
絶対に自分の過去と向き合わなくてはならないしキツイ内容なのはわかっていたから…
でもだからこそ観なければとも思っていた。知らない訳にはいかない。
実際、上映時間の最初から最後まで歯を食いしばって手をギュッと握りしめていたし
大半の緊張が続くシーンではずっと涙が出っぱなしで終わった時にはフラフラして上手く歩けないほどになっていました。
元犯罪者と被害者、それぞれへの支援は両輪であるべきで。
どちらも同じくらい支援しなくてはならないと思う。
それは本当は「どちらかに肩入れしている」という問題などではなく
双方を考えた方が
むしろ皆のためになるんだ、と思う。
どっち側、と考える人は自分のこと…というよりも本当に目の前の自分の目と鼻の先のことだけを見ていて
1つの視点からしか物を見られない人なのだろう。
それもまた非難するべきことではなく大半の人は普通はそうだ。
そんなもんだ。
私だってテレビの向こうの話だと思っていた。
自分の身に起こるだなんて思ってもみなかった。
当たり前に日常で起きることなのだ、と10歳の私は現実を知った。
劇中で登場人物が自分の罪を受け止め、勇気を出してそれを口にするシーンがあるが。
実は被害者も同じで。
自分は〇〇の被害に遭いました、と告白するのには勇気が必要だったり
自分の中で消化して受け止めたり
そういう大変な過程を経た後にようやくできるようになる。
私は一応は乗り越えた人間なので
今ではこの話も割と難なく口にすることができる。
私は子どものときに準強制わいせつの被害に遭っている(注:準が付くのか付かないのか知識不足でわからないが、調べる気にもならないので感覚で言ってる)。
そこそこエグい内容である。
三面記事にすらならなかったが。
警察に被害届は出したし、容疑者の面通しもマジックミラー越しに経験した。
そこまで顔をしっかり覚えていなかったし犯人という確信もなく「違うと思う」と告げた。
後に、町中で犯人と思しき人物を見かけたことも──実は、あった(同じ服装だった)。
ただ、その時にはもう何も言えなかったのだが。
その私自身の話でいうと罪を犯したその人の罪は一生、絶対に、許せない。
それを許すことは決してないと思う。
そして傷ついた私にきちんとケアをしなかった大人たちや社会への怒りは今も根強く、
そのせいで私はだいぶ歪んだ人間になった…という自覚がある人になった。
壊れた私と折り合いをつけながら今も生きている。
どんなに謝られたとしても狂わされたことは戻らない。
それでも私も生きていかないといけないし
──それは相手も同じだ。
別に性善説を信じているわけではないが
大多数の人間は積極的に悪人になろうとして罪を犯すわけではないのだと思う。
私だって自分が善人だとはこれっぽっちも思わない。
タイミングがあったら私だってそちら側に簡単に行けるよなぁといつも思う。
たまたまこちら側の…それも被害者だったりするけれど。
また話は逸れるが…
まるで被害に遭ったという事実が
私がした迷惑行為のように反応する(あるいは自分の目からはそのように見えた)周囲に
何度となく傷ついてしまう「二次被害」は
当事者でなければわからない気持ちだと思う。
面倒に巻き込まれやがって、と言われているように私は思った。
無論、直接言われたわけではなく私が過剰に受け取ったのだろうが。
そして周囲はそんな気持ちにさせているということに一切気づきもしない。
……そういうものである。
その空気のために私は犯人と思われる人を見かけても
もう通報する気にはなれなかったのだ。
野放し。
再犯はしたのだろうか。
余罪はありそうな…常習っぽい感じはあったが。
それを言えなかった私は間接的に新たな被害者を増やす手伝いをしてしまったのかもしれない。
罪悪感と共に、時々そう思う。
話を映画に戻す。
あなたも私も同じ「人」だという感覚は「許せない気持ち」とは別にきちんと私の中にも存在している。
平たく言えば罪を憎んで人を憎まず。
長い年月のうちに私は心からそう思うようになっていた。
それは誰かに教わったわけではなく
色々悩んた末に自分の心を救うために自然にその考えに行き着いたものだった。
その人の存在そのものまで許せないとは思わない。
その人の今や未来まで否定したいとは思わないし、
やり直そうとする人のその機会を奪う権利は誰にもない。
その権利を奪ってみたところで私の気持ちが収まるわけでもないから
それを奪えよ、などと私は全く思わない。
……当該、犯人は逮捕されたのかどうかすらも私はいまだに知らない。
その後に反省したのかも罰を与えられたのかも全く想像しようもないのである。
ましてや謝罪なんてされる日は一生来ないだろう。
寛容でありたいとは思うけれど寛容になれないこともあるし
どうしても許せないこともある。
それはそれとして。
それはそれと自分の中で受け止め、認めた上で。
それでも
それでもなお
排除、は違う。
排除だけは断じて違う、と。
それだけは強く思う。
誰もが自分事として考えること。
白と黒のマーブルってのが実際のところ
人間のリアルな姿なんじゃないかなぁ。
誰もが生きやすい世の中になって欲しい。
狭いところで息苦しくならないよう
ちゃんとスペースが持てるようなそういう大らかさが
世の中の空気として当たり前にあったら
私達はもう少し生きやすいと思う。
そうそう
私は池波正太郎さんの鬼平犯科帳シリーズが好きなのです。
あの精神が世の空気として当たり前に存在していたら素敵だろうなと思う。
ところで
劇中でドラマセラピーの話が出てくる。
自分自身の心と向き合う時、演じるという方法は非常に助けになる。
演じる為に役を掘り下げるという行為は
人の心についてずっと探求していくことだからだ。
蛇足ながら
私がこんな活動を続けているのは
自分を癒やし続けるためであることに他ならない。
この先も生きていくために必要なことだったのです。
きっとね。
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