結局のところオタクはみ~んなリアコみたいなもん
「私はリアコじゃないんだけど…」
「私は夢女子じゃないんだけど…」
「私は推しカプの壁になりたいタイプなんだけど…」
これらはオタク、ないし腐女子がわりとよく用いがちな枕詞だ。
念押し、牽制、リスクヘッジ……単純なようで何かと複雑な前置きの言葉たちは、あえて端的に言うならば次のような意味をはらんでいる。
「私は2次元に本気で恋をするような空想と現実の区別もつかないオタクでは無いことを踏まえ、今後展開する妄言を聞き流してほしいのですが……」。
オタクは、自らの「恋心」に非常にセンシティブな生き物だ。
何がどうしてそうなったんだか、推しに本気で恋する人間は嫌われ馬鹿にされるのが世の中の決まりなので。ただ、どうしても私は思ってしまう。
オタクたちは、本当に推しに恋をしていないんでしょうか?
例えば、オタクが職場の飲み会に参加したとする。
オタクの職場は若い女子も多く、公私分け隔てない話題で賑わう卓上に同僚が切ったカードはいわゆる恋バナ。
「オタクさん、今彼氏はいるの?」
それセクハラですよ、はまだ残念ながら同性間に浸透していない。オタクはなるたけ何でもないように、「いや、いないですねえ」と答えるだろう。
すると、大した興味もないくせに出身地でも尋ねるかのように言うのだ。
「えーっ何でですか?」
なんで???????????????????とは???????????????「モテないのにモテる努力をしなかったからです」とでも言えば満足か??????
こういう、恋人がいないことを「なんで?」「どうして?」とアルプスの少女みたく不思議がる方々にとって、恋人がいない生活というのはどうしようもなく「つまらない」ものらしい。
なんという脆弱な生き方。他人に下駄を預けるような人生。こいつらは恋人が居なければ人生の愉悦が何一つとして失われてしまうような生き物なのか?
───けど、逆で考えてみたらどうだろう。
例えば、オタクのオフ会に、何かの間違いで非オタが紛れ込んだとする。
一同に会したオタクが話すことと言えばまず今の推しについてだろう。
「非オタさんの推しは誰?」
非オタはキョトンとしながら「いや、そういうのはいないかなあ」と答えるだろう。
すると、オタクはがっぷりよつに組みだしそうな勢いで言うのだ。
「えッッッッ何でですか!!!?!?」
ようするにオタクが「推しに心を揺さぶられることのない人生」を想像できないように、恋愛志向の非オタは「恋人よりも心を揺さぶる存在がいる人生」を想像できないのだ。
多分恋する非オタは思っている。
恋心を得た時のあのときめきを、煩悶を、陶酔を手放して、どうして楽しく生きて行けるのだろうか?と。
でも私たちは、ときめきを、煩悶を、陶酔を、すべてを推しから与えられてきているのだ。
つまり実際、私たちは恋をしてきたのだ。正確には、恋と同じだけ───あるいはそれ以上の───のときめきと煩悶と陶酔を得られるような体験を。
であるならば「リアコのオタク」は、推しから得る喜びと恋心から得る喜びを二重に勝ち取っているアドレナリンガンギマリ状態の最強人類ともいえるのではないだろうか。そう考えると、なんだかリアコが死ぬほどうらやましくさえなってくる。
が、残念ながら私の知る限りのリアコは、リアコでいることでちっとも幸せそうではなかった。みんな、「リアコなんかやめられるんならやめたいに決まっている」と嘆いていた。
でも実際のところ、リアコとリアコじゃないオタクの違いないんて明確じゃないのだ。
「推しと結婚したい」と思ったらリアコなのか?「付き合いたい」と思ったらリアコなのか?じゃあ推しを性的な目で見たら?推しの一挙手一投足にときめきを感じるようになったら?やることなすことすべて「かわいい」と思うようになったら?ただただ「好き」だと思ったら?
どこまでがただのオタクで、どこからがリアコなのか、分かったものではない。
バラの花束とダイヤの指輪を握りしめて自宅前で待ち伏せでもしない限り、リアコが何を思おうが実質ただのいじらしいオタクだし、ただのオタクのつもりでも、生活の一切の喜びを推しから与えられている状態は「恋ではない」というにはあまりにもエモい。
君リアコを笑うなかれ。
我々は推しによって人生の大いなる喜びを得る同士なのだ。
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