「国民的」は消滅し、「クラスター民的」の時代へ

世紀の一戦と話題であった那須川天心氏と武尊氏の対戦について、地上波での放送が見送られることが決まった。これについて、天心氏は以下のように悔しさを吐露している。

「たまたまつけたテレビで人生が変わることもあるし、俺は地上波で格闘技を見てキックボクシングを始めた」
「だから最後は絶対にテレビでやらないと恩返しが出来ない。この試合を見て格闘技を始める人、何でもいいから何かを始める人たくさんいると思う。そのきっかけになりたい」
「この試合はたくさんの子供たち、未来のある人たち、より多くの人たちに見てもらいたいし、それには地上波しかない」
デイリー https://www.daily.co.jp/ring/2022/06/02/0015351769.shtml

なおこのマッチはすでにABEMA TVによる有料配信が決定しており、その意味では世間に届けることはできている。
だからといってこれらの発言をテレビ推しの懐古厨と一蹴しようとするのは待ってほしい。少なくとも本人から強烈な蹴りが返ってくるから危険だ。天心氏はマスメディア、特に地上波の重要な特徴を指摘しているのだ。それは以下の3つである。

1. 国民的、を創り出す力
2. 受動性・偶然性
3. 子どもにとっての世界との接点

国民的、を創り出す力

米国の政治学者ベネディクト・アンダーソンはその著書「想像の共同体」[1]において、新聞の登場が、人々の共同体意識ひいてはナショナリズムを創り出したという。無数の知らない人同士が、寸分も違わぬ複製を毎日消費することで共同体という概念を人々に想起させるのである。

テレビはさらにそれを加速させたであろう。
昭和の国民的流行の代名詞「巨人・大鵬・卵焼き」はテレビによってその地位が確立したものである[2]。
マスメディアは我々に国民という共同体を想起させ、その紐帯として「国民的」なアイコンも生み出していったのである。

受動性・偶然性

我々はマスメディアのコンテンツを選ぶことができない。
これはソーシャルメディアの「フォロー」「チャンネル登録」が個人の意思に基づくのとは対照的である。選べないことは不自由である一方で、その偶然性から個人の嗜好に影響されない異質な情報を摂取することができていた。
今ソーシャルメディアで起こっているのはエコーチャンバーというべき、同質の情報の増幅である[3]。そのなかで人々は「クラスター」のような嗜好に基づく小さな「想像の共同体」を想起し、そこへの所属感を得るのである。オンラインサロンなどの明示的なクラスターは意図してその組織に対する所属感を惹起させようとするものもある。

子どもにとっての世界との接点

ところで我々は地理的に必ずある国に先天的に所属しているという性質も持つ。
しかし、嗜好に基づく上述の「クラスター」は、先天的には所属できない。

ここに、子どもの問題がある。

従来子どもはマスメディアの影響を受け、嗜好によらない情報も摂取でき、そのなかで国民への所属意識を培ってきた。
しかしマスメディアの凋落で、テレビを持たない家庭も増えてきた。そのとき、まだ嗜好が確立していない子どもはどのクラスターの情報を取捨選択して観るということにはならず、必然的に親の所属するクラスターに大いに影響される。
結果としてソーシャルメディア時代に子どもの得る情報には偏りが出てくる。
「巨人・大鵬・卵焼き」とは当時子どもに大人気のものであり、それが国民的とされたのだが、令和時代においてはそのような国民の紐帯となる存在は出てこないだろう。

「国民的」の消滅

天心氏は地上波の持つ以上の性質を理解したうえで、この世紀の一戦を国民的なものに位置づけたかったのではないか。それはソーシャルメディアには持ち得ないマスメディアのみの持つ強みである。
一方で、テレビを持たない世帯も増えてきている。均質なコンテンツを国民という単位に広く届けることは、昭和に比べて難しい時代になった。「国民的」はいずれ消滅し、個々のクラスターに刺さるミームが「クラスター民的」な存在として君臨するのだ。しかしクラスター外部の人々にはそれが分からない。例えば「ゆっくり茶番劇」事件では、それがクラスター民的な存在とは知らない弁理士によって無自覚に進行した[4]。このように我々はクラスター間の文化の違いの軋みを感じながら生きていかねばならないのかもしれない。

ソース

[1] 想像の共同体 https://www.amazon.co.jp/%E5%AE%9A%E6%9C%AC-%E6%83%B3%E5%83%8F%E3%81%AE%E5%85%B1%E5%90%8C%E4%BD%93%E2%80%95%E3%83%8A%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%8A%E3%83%AA%E3%82%BA%E3%83%A0%E3%81%AE%E8%B5%B7%E6%BA%90%E3%81%A8%E6%B5%81%E8%A1%8C-%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E7%A7%91%E5%AD%A6%E3%81%AE%E5%86%92%E9%99%BA-2-4-%E3%83%99%E3%83%8D%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%AF%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%BC%E3%82%BD%E3%83%B3/dp/4904701089
[2] http://thsports.blog.fc2.com/blog-entry-2935.html
[3] ソーシャルメディアと想像の共同体 https://ipsj.ixsq.nii.ac.jp/ej/?action=repository_uri&item_id=184307&file_id=1&file_no=1
[4] IT media NEWS https://www.itmedia.co.jp/news/articles/2205/16/news090.html

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