雪の月

 勤務中にNHK+で伊藤沙莉が出ているあさイチを聴いていた。序盤で桑田佳祐の声がBGMとして流れていて一瞬で心を掴まれてしまい、序盤であさイチの再生を止めた。
 検索すると、2016年に桑田佳祐名義で出している「若者の広場」という曲だった。それから暫く流していた。とてつもなく好きな曲調だから次第に、何故だと考えるようになった。引っかかるようなものがあり、誰か知っている人が流していたのか。そうして聴いてるうちに降りてきた。そうか、1981年に出された長渕剛の「夏の恋人」に曲調が似ているのだ。
 「夏の恋人」も久々に流す。2つとも、回想したことを歌っており、今ここにはいない異性を懐かしむ歌だ。長渕の歌は、ナンパ未遂の歌と言っておけば雑語りとしては優秀な方だろう。夏には必ず聴くとてもいい歌だ。
 ふと、俺を含めた今の若い世代がこういう曲を作ることは出来ないかもしれないと思った。こういう曲とは、歌から感じられる空間の感じであり、ロケーション一つを表現するにしても、人の密集性が昔と今ではまるで違う感じがする。コロナ以後の語彙を使えば、表現者がどこまでのソーシャルディスタンスを知っているかの問題と言えば伝わるだろうか。「夏の恋人」の歌詞で言えば70年代、80年代を体験した世代の「浜辺」と今の若い世代の「浜辺」はまるで違うのだろう。「若い広場」と聴いた時にオープンとクローズド、どっちを連想するのか。
 俺が聴く今のHIPHOPは例外かもしれないと考えた。
 しかし、PVでどれだけ仲間をカメオ出演させて集団に見せても、音だけを聞けば、個人がそこに際立っている。

 2019年に出版された、「流浪の月」を読んだ。著者は凪良ゆうという作家だ。確か、1月に浦安駅近くの文教堂書店で買った。いいタイトルだなと思った。
 更紗という小学生の女の子が、いきなり両親が不在になり、引き取られた親戚の家でのある事件がきっかけで、大学生の文という男と接触するようになる話だ。
 庇護を受けなければ生きていけないと考えるリアリズムとあらゆる呼びかけに敏感な自由性の狭間で葛藤する存在である更紗。逃げる場所がない更紗のような女を「いつも」選ぶ、亮との地獄のような描写は秀逸だった。
 親に捨てられた経験がある亮の不安からのコントロール癖は凄まじく、更紗の全ての自由性に「許可」をしなければ気がすまない。誰が見ても幸せになるはずがないと思うのだが、自由性を意識的に殺し続けてきた更紗は受け入れ続ける。そんな中で、かつての幸せだったころの参照点になる文と再開し、人生が立ち上がってくる。
 「常にかわいそうな人である限り、わたしはとても優しくしてもらえる」という更紗の見下しに対する目線は最後まで維持される。少し気になったところではあるが、成長譚として読むべき本ではないかもしれない。仮にそう読んだ場合は、成長しないトリネコを引っこ抜いて捨てる文の母親と同じにななるのか。
 しかし、見下しに対する目線を克服しないと更紗の人生は、永遠にクローズドなままではないかと思う。後半に、噂話が好きなパートのおばさんの平光さんが、話しかけてきた時に初めて目を見るという描写があった。そこで大人の好奇以外の「心配」に気づいたが、その後は更紗と文だけのクローズドな空間に世界が閉ざされていく。やはり俺もトリネコを捨てる側なのかもしれない。だが、前の記事でも書いたが、「限定を認める限りそれが成立するという、認識の制御が常に働くことになる。」ことは、息苦しい。

 文の元恋人の谷が、文に別れを告げるシーンで北極星を見上げるシーンは素晴らしかった。更紗には、谷が見ている北極星が「特に輝いていない」ように見える。しかし、俺は谷の目には恐らく光り輝いて映っているだろうと思った。この本の中で最も好きな箇所だ。

 タイトルに月と書いてあるものはやはり惹かれてしまう。「夏の月」、「若者の月」。いいじゃないか。今日は雪が降るらしい。


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