余白と作品*長いつぶやき3

 何名かの記事を拝読して、「余白」というものについて考えていた。

 私は余白が怖い。昔から、じゆうちょうも感想文も絵も、とにかくすべてを埋めていた。それは、きちんと伝わってほしいという気持ちの強さの現れであり、その気持ちは、伝わらない、誤解される経験が重なって、自分の余白を信じられないことからきているのだと思う。

 文学作品は、余白が大切だ。
 もちろんむやみやたらと余白があればいいのではない。作家の怠慢で、このくらい書かなくても伝わるだろう、と省くのとは違う。むしろ、作家は本当に本当に、一つ一つの表現を選び抜き、その表現をどう積み重ね、どう連ねればよいかを丹念に追い求め、書かれているのだと思う。
 でも、ただ緻密であってもいけない。それでは、読者は息苦しくなってしまう。作品の面白みを味わえるくらいの余裕を与えたい。うまい作家さんやクリエイターさんってそのあたりの塩梅が絶妙だと思う。
 小説ももちろんそうであり、詩・短歌・俳句・川柳などは、なおいっそう余白を大切にしている。余白と、ここは外してはならないという描写、そのバランスが難しい。
 小説は、落としてはならないところを抜かしたり、書きすぎてしまったり、それ以前に大切なところで誤字脱字や名前の誤りがあったり、私のドジが炸裂していて、何度も読み直して公開しているはずなのに、公開して初めて気づいて声にならない叫びを上げている。普段仕事で資料を作るときは、データで何度確認してもミスがあるので、必ず印刷もしてさらにチェックと推敲を重ね、なんとか体裁を保っている。スマホで書いているからと言い訳せずに、誤りはもちろん、文章全体を通したバランスのいい塩梅を追求せねばという戒めを込めたい。
 俳句の練習をしていると、いかに俳句ならではの面白みを生かせていないかを痛感し、精進せねばと思わされる。
 エッセイに関しては、余白との結びつきはまだわからないけれど、読みやすさだけでなく、ユーモアや温度、登場する人や物への敬意を大事にしたいと思う。私の好きなエッセイストさんたちは、その匙加減がうまいから。

 もう少し私の中でまとまったら、きちんとエッセイとして残したいけど、今の気持ちを備忘録として残しておきたい。
 下書きばかりが溜まっていくが、今書きたいと思った衝動を優先して、これからもマイペースに書いていこうと思う。

サポートしてくださる方、ありがとうございます! いただいたサポートは大切に使わせていただき、私の糧といたします。