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星野源「雨音」の主人公が聴く雨

 雨を聴く。このフレーズでパッと思いついたのは、星野源作詞・作曲・編曲「雨音」。

みなさんご存じ9th Single『恋』の4曲目に収録されている、自宅録音の曲だ。
※出典:星野源『恋』特設サイト

 この曲のなかに「雨の音を聴く」「雨の歌を聴く」という歌詞があり、「雨を聴く」で「雨音」が思い浮かんだ。言葉選びが好きだ。「鼻先濡れる」と「花咲き濡れる」。「傘を差したら倍に刻むリズム」。心情描写と光景が絡み合って、悲しみや苦しみの向こうに光る未来を信じ、雨音を聴く。宅録ならではの音遊びも、「雨音」というタイトルにぴったりだ。作品世界で「雨」は心模様の描写として用いられることがしばしばある。少なからずこの曲にもそういう部分はあって、雨音を聴く主人公は、思い出を呼び起こされつつ、耳を塞ぎたくなる状況に置かれ、希望をほのめかされまたかと呆れる。「朝」や「春」は希望ではなく、日常の繰り返し。どんな状況でも、朝や春は来る。ただ、「雨」は苦しみ、悲しみだけではなく、歌になり、思い出たちの音がする。最後に「花」を咲かせて濡らす雨。表裏一体の雨を聴きながら、主人公は生きている。

 雨を聴くって、どんな状況だろう。私は今、クーラーをかけた部屋の中にいる。最寄駅まで徒歩数分のこの部屋には、数分おきに電車の音が響き渡る。時折外で騒ぐ声がする。今、部屋にいる私の場合、雨音が聞こえるとき、土砂降りの雨が降っているだろう。びちょびちょになるだけならまだしも、公共交通機関が乱れて深夜労働を余儀なくされる従事者、土砂災害や川の氾濫に巻き込まれる人、大切な農作物に甚大な被害が出て頭を抱える人がいるかもしれない。雨を聴くとき、今の私はそんな人に思いを馳せる。それは、今の私だからだ。クーラーを浴び、休日に休息をとれる心の余裕があるから、名も知らぬどこかの誰かを想い、雨が止むのを願うことができる。
 北原白秋作詞、中山晋平作曲の童謡「あめふり」の「ぼく」はどんな雨を聴くだろう。かあさんがおむかえに来てくれる喜びを感じて、ランランランと歌う「ぼく」。雨音を楽器のように楽しんで、キャッキャと母と仲睦まじく帰宅する様子が目に浮かんで微笑ましい。ずぶぬれの「あのこ」にかさをあげる彼もまた、今の私と同じこちら側の人間だ。文部省唱歌に選ばれる歌の主人公なのだから。誰かを思いやることのできる彼や今の私は、恵まれている。
 「雨音」の主人公が雨を聴くときはどうだろう。悲しみ苦しみの中にいても、思い出がふと過る。塞いだ耳の中に歌が聞こえる。雨に耳を傾ける。「聴く」とはそういうことだ。何度も絶望しながら、それでも生きるのを止めないのは、まだ未来を信じて機会を窺っているんだ。雨は主人公にとってなんなのだろう。音として聴くとき、歌として聴くとき。止まらない負の思考をかき消す音かもしれない。乾いた冷たい音のなかに、過去の雨降りの思い出を呼び起こす呼び水となる雨音が混じっているのかもしれない。誰にも気づかれない自分への応援歌かもしれない。鼻先濡れるとき、窓を開けて、雨を浴び、外に踏み出しているのだろうか。

 私は昔、長雨の中を進んでいた。車に泥水をはねられ、通行人の傘がぶつかり、傘を差しても容赦なく雨は降りこんできた。服も靴もずぶ濡れだし、滑るし、止まない雨はないなんて信じられなかった。苦しくて、苦しくて、立ち尽くしたとき、招く手があった。雨宿りができる場所を教えてくれた。進まないといけない。でも、しばらく雨宿りをした。宿り先は、雨で濡れない。傘に打ちつける雨音は聞こえない。そのとき宿り先で聴いていた雨音は、「雨音」の主人公が聴く雨の音だった。

 雨を聴く人によって、聞こえる音は違うだろう。そもそも雨を聴かない人もいるだろう。今、あなたが聴く雨は、どんな音だろうか。

長らく幽霊部員でしたが、久しぶりに小牧部長の企画に、久しぶりのエッセイで参加させていただきました。
小牧部長、素敵なお題をありがとうございました!

読者のみなさん、久しぶりに読みに来てくださってありがとうございます!

それではまた。どうか、読者のみなさんに慈雨が降り注ぎますように。

※2024.6.9 20:45追記
特設サイトのリンクを修正しました。

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