別にできなくてもいいんだよと息子は言った
小学校の運動会を2週間後に控えた秋晴れのとある平日。
学校帰り、毎週通っている近所の公文教室に向かって2人で歩きながら、7歳の息子が私にそう言った。
息子との会話はいつも、自分が何を正しいと思っているのかつまびらかにされてしまう気がする。
息子との会話
約2週間後にせまった運動会では、個人縄跳びの種目があるらしかった。
息子から直接聞いたわけではなく、クラスメイトのママさんとのLINEの会話の中で、たまたま知ったのだった。
たしか、うちの子は縄跳びはできなかったはず…練習手伝わなくちゃかなあとぼんやり思っていた。
できないことを放置するなんてとんでもない!怠惰だ!努力しなかったら「成長」しない!
そう憤る人もいそうな、カラっとした回答。笑
私はというと、あ、そうか。と思った。そうだよね、本人がそう思ってるなら、別にできなくてもいいのか…その通りかもしれない、と。
なんとはないさらりとした彼の返事に面食らったと同時に、納得したのだった。
ピアノ教室
思い返せば、習い事もそうだった。
音楽がなにかやりたいという息子は、夫の勧めで週1回近所のピアノ教室に通っている。
でもほぼ一度たりとも、家でピアノの練習をしたことがない。一年以上通っているのに、簡単な音符もまだ読めない模様。
無理矢理練習させるのも違うし。
ピアノの先生に教えてもらった声かけをして工夫してみても、ちょっとだけ演奏を披露する、ということもなかなかしてくれない。
自宅の環境面で練習しづらいといった可能性も探ってみたが、どうもその可能性も低そう。
別にピアノのプロになってほしいわけでも、特技にしてほしいわけでも、コンクールで入賞してほしいわけでもない。
ただ本人がやりたいというから習わせているだけのこと。
ピアノ教室が嫌ならもちろん行かなくていいと思っているので、「もし嫌なら辞める選択肢もあるんだよ?」と問いかけてみても、ピアノはとても楽しいから続けたいという。
じゃあなんで練習はまったくしないのーーー?!
7歳息子の心情、まったくわからずじまいである。
「ピアノを楽しむ」ったって、音符よんだり、基礎的なことができたほうが楽しむ幅が広がるのでは?!練習しなくて、どうやって楽しむの?!と疑問が広がる。
息子にピアノ教室を勧めたわりに練習をみてあげる様子が全く無い夫にいつもそう進言する。が、「本人がやりたくて、教室も毎週楽しいっていってるんだから、それでいいんだよ。べつに『できる』ようになんてならなくていいと思っているよ。楽しんでくれれば。」という。
気持ちはわかるけど…と、その回答がいつも腑に落ちない。
自分はというと、息子と同じ歳の頃は一輪車の練習に夢中だったし、読書にも夢中だった。もっと上手に一輪車に乗れるようになりたい毎日だったし、一冊でも多く本を読みたかった。
「もっと上手になる」「もっとできるようになる」が、楽しむコツだとさえ思っていたかもしれない。
きっと私は、ピアノ教室に通わせるという息子への「投資」を、「ピアノが上手に弾ける息子」として「回収」したいのである。
そんな本心が奥底にあるのではないかと思って、自分に対してゾッとした。
能力主義が前提の子育て
息子や夫との会話が自分の心に突き刺さるのは、「何かに秀でて、人の役に立っていなければ、生きづらい世の中だな」と、中学1年生くらいから一貫して感じているからである。
親からは「器用貧乏」と言われ続けていたように、成績は中学までほぼずっとオール5で、凹凸のない学生だった。何かがまったくできないということもなく、逆に突出してできるわけでもなく、まんべんなく一通り無理なくできた。
人間なのだから凹凸は絶対あるわけだが、義務教育に存在する評価指標の中で、自分の凹凸をついぞ見出すことができないままだった。
だからこそ、自分は将来どんな仕事で、どんなふうに人の役に立てば生きていけるのか、もっというと何をしたら楽しいのかすら分からない。将来に対してものすごく不安を抱えた子どもだったように思う。
しかも学校を卒業しても、誰かに評価され、誰かに選別し続けられる人生がずっと続いている気がした。(もちろん自分が誰かを評価し選んでいる側面もあるだろう)
就活、転職、社内での人事評価。
仕事だけではなく結婚や恋愛だって、選び選ばれる作業のような気がした。
仕事や人間関係だって、本当はもっと偶発的で、主体的な選択だけで成り立つものではないはずで。
それでも、選別され、評価され続ける人生とは切り離せないよなーと思う。
そんな自分が子育ての中で突きつけられるのが、「能力主義」に染まりきった自分自身の思考回路だ。
人よりも持っているものが少ない人生になってしまうのではないかと考えると、悲しくなる。差別されてしまうかもしれないから。
経済的資本、コミュニケーション能力、美醜、生きる力、、、
いいか悪いかは別として、実態のよく分からないさまざまな「能力」によって選抜され、資本の分配が決まっていくのが現代社会。
事実、労働者としては会社の中で「貢献」し続けなければ評価もあがらないし、そもそも採用してもらえない。
何もせずありのままに生きるなんて机上の空論では?と。
そんな社会構造の存在や前提思想が自分の中にあるから、子どもに対して「何か1つでも秀でてくれていたら安心。少なくとも一通り人並みにできていれば…」という親としての気持ちが見え隠れする。
一方。
私の母は若くして難病を抱えて生きていて、労働者として経済的な貢献をして生活しているわけではない。人からのケアがなければ日常生活ができない母とずっと暮らしてきた。
「じゃあ障がいや病気があって働けなかったら、子どもが産めなかったら、存在する価値がないのか?」という疑問に対しては、当然そんなわけないだろう、と思う。(役に立っていなければ生きてはいけないなんて、極端な優生思想に繋がりそうである。)
なのに、いざ自分が子育てしてみると、子どもに能力主義をおしつけそうになってしまう日々だし、期待してしまう日々なのである。
いまそこにあるものを感じ、感謝して生きているだけでも尊い。母と暮らして実感してきたはずなのに。
能力主義信仰が染み付いた自分との対話はこれからも続きそう。
でも、息子とは対話を積み重ねながら、彼が選び取る選択をサポートできたらと思う。
楽しく生きていってくれたらいいな。
能力主義に関する思考は、第二子育休のこの期間深めていこうと思う。
人事職としても避けては通れないテーマだ。
勅使川原真衣さんのこの本、よかったので興味のある人におすすめです。